博多と釜山は玄界灘を隔てて、200Km。壱岐は博多港から67Km,対馬から68Km,対馬海流は3ノット(5.6Km)/時で北東へ流れている。古代からこの海は壱岐、対馬を挟んで常に陸地を見ながら安全に航行出来る航路であった。
壱岐は、東西20Km,南北15Km、面積138Kuの本島と大小26の島々からなる。『三国史・魏書・東夷(東の未開人国)・倭人の条』(280年〜290年に書かれたとされている)には『対馬国からまた南に海を渡る一千里、名づけて瀚海(かんかい対馬海峡)と言う。一大(支)国に着く。官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑狗母離(ひなもり)という。四方三百里ばかり、竹林や雑木林多く。3千戸ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せども、なお食するに足らず。また南北に市糴(してき:商売をして米などを入手して暮らす)する。』と記載されている。ここに出てくる『一支国』の王都が『原(はる)の辻遺跡(紀元前202〜紀元後350年頃)』で、大陸と倭国を結ぶ中継地として、又海の王都として島全体が大いに繁栄していたことが伺える。倭人伝に出てくる国の中で、その王都が判明したのはここだけである。壱岐は小さな島だが、かっては大陸文化が運ばれた街道であり、また外敵の侵略を受けた受難の地にもなり、その歴史を語る遺跡が数多く見られ、正に歴史の宝庫と言える。 |
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博多港から壱岐郷ノ浦港へジェットフォイール『ヴィーナス』
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↑塩沢紬の薄物のお対です
ジェットフォイール
『ヴィーナス』
新幹線より揺れない。 |
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左:博多港を併行して走る
ジェットフォイールビートル。 釜山まで3時間で行く。 |
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一 支 国 を 通 っ た 贈 答 品 |
倭国→中国へ |
時代 |
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中国→倭国へ |
不明? |
57年 |
後漢→奴国 |
金印 |
生口160人 |
107 |
倭国王師升→後漢 |
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生口10人、班布 |
239 |
卑弥呼→魏 |
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239 |
魏→卑弥呼
魏→難升米 |
銅鏡100枚親魏倭王金印紫授
銀印青授 |
? 答礼 |
240 |
卑弥呼→魏 |
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240 |
魏→倭王 |
金印紫授、詔書、金、鏡、白絹、刀 |
生口、倭錦、弓矢 |
243 |
倭王→魏 |
銀印授 |
?
卑弥呼が狗奴国と交戦を伝える |
247 |
倭女王→魏 |
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245 |
魏→難升米 |
詔書、黄幢 |
生口30人、白珠 |
不明 |
壱与→魏 |
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入貢 |
266 |
壱与→西晋 |
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倭国から後漢へは2度使節が送られ、後漢から倭国へは1度冊封使が来ている。倭国から魏へは5度使節が送られ、魏から倭国へは3度使節が来ている。
大陸と倭国との往来は壱岐に立ち寄り、潮待ち風待ちしたことから、原の辻には迎賓館や宿泊施設も存在したと思われる。 |
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郷ノ浦港
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博多港から76Km時速80Kmのジェットフォイールヴィーナスは1時間10分で郷ノ浦港に着く。レンタカーが港で待っていた。 |
春一番の塔 |
壱岐、対馬を経由して往来した主な人達は、
日本列島では、4〜3万年前に、人間が住み始めていたと言う。紀元前300年頃、西日本には、縄文人とはまったく異なった顔だちや身体つきの人々が現れた。中国の長江付近の呉や越の国から戦乱と混乱を避けて集団で移民して来た渡来系弥生人とよばれる人々だ。彼らによって、水田稲作の技術と金属器の文化が伝えられ、人々の生活は大きく変化した。国境の無い時代、壱岐の人々は自由に海を渡り朝鮮半島と往来をしていた。紀元前200年頃、小国が発生し、小国の首長が青銅器の祭器を求めて先進地の朝鮮半島へ行き、武器としても農具としても有効な鉄器をも知った。朝鮮半島との交易で鉄を握った小国が、それを分け与える事で、周辺国を指導し、盟主となっていった。57年中国の漢の光武帝へ朝貢に向い、金印を持ち帰った奴国使者。107年倭国王師升(すいしょう)らが後漢に朝貢。239年卑弥呼の使者難升米(なしめ))たちが魏へ、そして魏の明帝より卑弥呼へ『親魏倭王』の称号と金印と銅鏡100枚が贈られ、難升米に銀印青授を授けた。240年魏が帯方郡の建忠校尉らを倭国に派遣し、倭王は使者を派遣して答礼した。243年卑弥呼が使者を派遣。245年魏から難升米に黄幢を授ける。266年倭国が西晋に使節団を派遣した。391年任那進出の倭軍。600年新羅征討軍と遣隋使。630〜839年15回の遣唐使(天平文化)。660年百済滅亡後の渡来人たち(白鳳文化が開く)。663年百済と倭国連合軍は白村江での戦いで大敗し、倭国へ帰る帰国軍や渡来人と奴隷。朝鮮半島を統一した新羅の反撃を恐れた大和朝廷は、664年防人と烽(とぶひ)を制定し、東国から徴発した人達を、筑紫、壱岐、対馬に置き防備させた。新羅使(668年〜780年25回)と遣新羅使(668〜779年31回、律令国家の完成)、遣渤海使(728〜811年15回)などが、通って行った。7世紀に律令制が制定され、一支国に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。このように当時壱岐は、大陸と大和王朝(朝廷)を結ぶ海の中継地として海の王都の役割を果した。
中世には松浦党の勢力下に置かれたが、蛮賊の侵略、略奪など国境の島のもつ苛酷な宿命の暗黒の年月が続く。倭寇と呼ばれる海賊に度々襲われ、1019年刀伊(とい)の入寇(女真族)が来襲し、元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)による元軍に占領され、壊滅的な被害を被った。1338年足利尊氏は平和祈願と元寇の戦死者の菩提を伴うため安国寺を建立した。鎌倉幕府と太宰府の力に失望した壱岐の島民は、荒廃した田畑での生活困窮の為、、『日本人の侵略者』即ち『倭寇』(1350年〜)と呼ばれる行為に走った。倭寇は貿易商人として又海賊として活躍していた。後には倭寇の8割は中国人が占めるようになる。1592年秀吉は勝本城を築城させ、朝鮮出兵における補給路の役目を果たした。又退却時の兵士と捕虜が通過し、朝鮮の反撃に脅える日々が続いた。
江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。徳川幕府は、朝鮮との国交を回復し、1607年から1811年まで朝鮮通信使が11回訪れ、対馬海峡を渡った朝鮮通信使一行は接待役、肥前平戸藩(松浦氏)の待つ壱岐勝本に入港した。1710年俳人河合曽良は巡見使に加わり、勝本港ににて病で死亡した。
1871年廃藩置県の際には平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部となった。2004年3月1日、平成の大合併によりこれら4町が合併し、壱岐市が誕生した。 |
壱岐郷土館
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古代のゾウ「ステゴドン(1200〜200万年前)」の復元
昭和46年勝本町の海岸の崖からステゴドン象の化石が発見された。壱岐が大陸と地つづきであった頃に渡って来たものと考えられている。その後氷河期がおとずれたり、日本列島が大陸から切り離され、多くの動物が死に絶えた。 |
海の王都、紀元前202年から紀元350年頃にかけて栄えた原(はる)の辻遺跡
1993年長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が、『魏志』の『倭人伝』に書かれている一支(いき)国の王都跡であると発表した。倭人伝に記載された国々の中で、中心集落が特定出来たのは原の辻遺跡が初めてである。2000年11月国の特別史跡に指定された。弥生遺跡としては、静岡県登呂遺跡、吉野ケ里に次ぐ3番目である。竿秤や重りらしき物も出土し、7世紀だとされていた度量衡整備が、さらに400年以上も遡ることになる。また船着場跡の発見は、世界最古を300年以上も遡る紀元前1世紀に出来たものである。また大陸の土木、建築技術を使った構築物や中国、朝鮮半島の土器と日本国内の土器等も出土しており、、『南北に市糴する』の様相が伺え、海の王都の証である。 |
『三国史・魏書・東夷(東の未開人国)・倭人の条』(280年〜290年)について。
@『対馬、一支国、末慮(まつろ)国、伊都(いと)国、奴(な)国、不弥(ふみ)国、投馬とうま)国、邪馬台(やまたい)国、狗奴(くな)国あり』と記しているが、場所はどこだろうか?
対馬国は千余戸。一支国は壱岐、三千余戸。末慮国は、佐賀県松浦郡名護屋から唐津の一帯、4千余戸。伊都国は、福岡県糸島郡、前原市、千余戸。奴国は、福岡市博多区、2万余戸、57年漢の光武帝から『漢委奴国王』の金印を授かった国で有名。不弥国は、飯塚市。投馬国は吉備地方。邪馬台国は、大和、7万余戸である。狗奴国は東海以北の蝦夷であろうとされている。
A『238年6月倭の女王卑弥呼が、大夫難升米たちを派遣して、帯方郡に来て、中国の皇帝に朝貢したいと申し出た。』と記しているが、『朝貢』には、何を贈ったのだろうか?
『卑弥呼は男生口(せいこう)4人、女生口6人を奉じて以て到る。』とある。男の奴隷4人と女の奴隷6人が貢物であった。また『壱与(卑弥呼の宗女)は20人を遣わして、洛陽に男女生口30人を献上した。』とある。当時は戦いに負けると、奴隷にされるか、殺された。開墾や農耕に一番必要なのは人力であり、奴隷こそが財産でもあった。(大化改新で公地公民、私民の廃止の詔が発せられた。)
蝦夷征伐の目的は何だったのだろうか?蝦夷征伐は何度も行われ、大化の改新の後658年阿倍比羅夫が3回にわたって蝦夷征伐を行った。新羅と唐の大軍が攻めて来るかも知れない危機の状況の中、防人(東国の人を主に)を壱岐、対馬、筑紫に置くようになった。それに710年平城京の遷都にも沢山の人手が必要となる。797年坂上田村麻呂が4万人の兵士を連れて蝦夷征伐を行った。794年から平安遷都が行われた。この造営の為にも人手が必要であり、捕虜、奴隷を集めるのが主な目的ではなかったのだろうか?
B2世紀末に『倭国大乱』があったと記している。『大乱』とは何だろうか?
その争いは、小国の王たちが卑弥呼を女王に立てることによって収まったという。これによって邪馬台国の卑弥呼は30の小国の盟主になった。邪馬台国大和説を取ると、倭国大乱は大和の政権による北九州征服の戦いだったことになる。大和王国が2世紀末に西日本も統一したのであろう。 |
発掘『倭人伝』海の王都、壱岐原の辻遺跡展
(長崎県教育委員会発行)より |
C『官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑狗母離(ひなもり)という。』について。
卑狗母離(ひなもり) |
3世紀前半の東南アジアの勢力構図
中国大陸で220年後漢が滅んだ後、魏、呉、蜀の三国に分裂し、お互いに覇権を競っていた。その中でも、魏の東北地方に当たる遼東郡は、公孫(こうそん)氏が支配し、公孫氏は更に、朝鮮半島の楽浪郡(平壌)、帯方(ソウル付近)郡をも掌握していた。それ以外の朝鮮半島では、高句麗が国家形成を成し遂げていたが、その東から南にかけては、馬韓50余、弁韓12国、辰韓12国の諸国が小国群を形成していた。倭と呼ばれた日本列島には、卑弥呼が都とした邪馬台国(189〜248年)をはじめとする小国群を形成し、邪馬台国はその頂点に立っていたと考えられる。
その当時韓では74余国あったのに対し、倭に国々がいくつあったかは不明である。倭人伝によれば、そのような小国群の中の30国が、帯方郡を介して魏と外交関係をもったとを記録している。
魏と倭の外交関係
魏は北方の鮮卑(せんぴ)、南西の蜀、そして南方の呉に対する牽制策として、帯方郡を通して韓や倭と手を結ぶ必要があった。秦、漢の時代から、中国民族は中華思想を持ち、冊封(さくほう)体制が出来た。異民族の君主はすべて、優れた文化を持つ中国を治める皇帝の支配を受けねばならず、皇帝は異民族の君主に対して、王号や称号を与えた(冊封体制と言う)。魏は朝鮮や倭国を中国の属国として、朝貢(入朝して貢ぎ物を奉る)を要求し、印授を授けることにより、間接的に支配をした。一方倭国においては、邪馬台国は敵対する狗奴(くぬ)国などに対して、魏を後ろ盾にしようとする外交論理が働いたと考える。倭人伝によると、247年邪馬台国からの遣使に際して、『倭の女王卑弥呼は、狗奴国(東海地方では?)の男子王である卑弥弓呼(ひみここ)と以前から不和だった。倭人の載斯烏越(そしあお)らを帯方郡に派遣して、相攻撃の状を説く』。それに対して魏では、帯方郡から『塞曹掾史(さいそうえんし)の張政らを派遣して、詔書と黄色の幢を難升米(なしめ)に仮授させ、檄文によって”両国が和解するように”教えさとした』と、対応している。 |
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呉と倭の関係⇒呉の人達が集団で渡来して来た。
呉には倭に関する資料は残っていない。それは倭から魏へは陸に沿って沿岸航海なので往来が可能であった。しかし倭から呉へ行くには黒潮や対馬海流に逆行する。また季節風にも逆行することから、当時の航海技術では不可能であったと思われる。しかし反対に呉や越から倭に来るのは容易であった。よって倭からの情報が届かなかった。@呉は、周の滅亡後、紀元前585年〜473年春秋時代に存在した国で、現在の蘇州に都を置き長江付近を支配し、中国最強の国となり、繁栄した。しかし隣国の越により滅ぼされた。越は紀元前600頃〜334年に活躍したが、楚によって滅ぼされた。紀元前221年秦によって統一されると、黄河流域の漢民族が南下し長江付近へ移住した。漢民族に追われたこの長江(揚子江)流域の呉や越の人々が集団で、混乱と戦災を避けて縄文時代末期〜弥生前期(紀元前600〜200年前頃)に倭国へ渡って来た。黒潮、対馬海流に乗り、北部九州から山口の土井ケ浜、出雲、そして敦賀、新潟へたどり着いた。日本に水稲、金属器、衣類それに航海術を持ち込んだ。呉音(男をなん、女をにょ、内をない、上をかみ、下をしもと呼ぶ。一方漢音はだん、じょ、だい、じょう、げと呼ぶ、発音ゴツゴツ)
A3世紀〜4世紀、三国時代(魏、呉、蜀)の呉(222〜280年)の国が滅びた後、再度、呉から、三国時代の混乱と戦災を避けて日本に渡って来て、日本に進んだ文化をを持ち込んだ。
壱岐では
@縄文人が住んでいる壱岐に、紀元前6世紀初めに呉や越の人々が集団で倭に移住してきた(第1波)。稲作と金属器を持ち込み、農耕生活が始まった。A紀元前108年漢が衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡、帯方郡など4郡を設置したので、朝鮮半島から集団で北九州を目指して渡来して来た。B3世紀〜4世紀、再度呉の人々が渡来して来た。(呉からの第2波)
C663年百済と倭国連合軍は白村江での戦いで新羅と唐連合軍に大敗した。倭国へ帰る帰国軍や百済からの渡来人と奴隷が移住して来た。これらの集団移住者と先住民との間では常に争いを生じた。定住が出来ないと更なる旅を続けて、日本海を北上したり、瀬戸内海を東進して移住地を探して行った。
渡来文化の転換
長江付近から集団の渡来弥生人は、紀元前1世紀から紀元2世紀にかけて北九州の航海民の小国に発展した。彼らは紀元1世紀から2世紀にかけて瀬戸内海沿岸を東進する集団がいくつか出た。彼らは吉備を拠点として摂馬国を作り、さらに東進して奈良盆地へ移住した。第2波の長江からの渡来集団と交ざりながら有力な集団が出来上がり邪馬台国を作った。そして第3波の集団渡来人は、660年百済が滅亡後朝鮮の人々が逃げて来た。この渡来人の力によって大和王国を作り、大和朝廷へと発展して、白鳳文化が開いた。
『三国史・魏書・東夷倭人の条』に出てくる長江系風俗は、@『倭人の男性たちは、貴賎、老幼の区別なく、皆顔に入墨をしている』。この入墨の習俗は長江にもあった。A『倭人の男性は、横幅の広いあらい布を肩にかけて腰に回して止めた服を、女性は布の中央に穴をあけて首を通し服とする。』とある。これは今でも南方に見られる袈裟衣と貫頭衣を表す。B航海の安全を祈る『持衰』もインドネシアなど南方で見られる。C銅鏡と銅剣、銅鉾を用いた祭祀りが盛んに用いられたという。これは道鏡に受け継がれた長江の古い習俗である。銅は魔物を追払う力があり、鏡は邪悪な物の正体を明らかにし、剣は敵を倒すと云われている。大和朝廷の時代には、百済を通して北方騎馬民族系の要素が取入られてくる。埴輪人物像に見られる、衣袴(きぬはかま。短い上衣に太いズボン)、衣裳(きぬも。短い上衣と長いスカート)は騎馬民族系である。銅から鉄にも変わっていった。5世紀末秦氏や漢氏などの有力な渡来人が朝鮮半島から集団で来た。よって大和朝廷の下で長江の南方系文化から、北方系の文化に急速に変わっていった。(魏志倭人伝と邪馬台国より) |
日本人のはるかなる旅
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江南地方(呉や越)と朝鮮からの渡来民の流入は、古墳時代の終わりの7世紀頃まで続いた。この間、大陸からの新しい文化や技術を持ち込んだ渡来民は、本州を東に進んで近畿地方に進出し、大和朝廷を築き、さらに関東、東北へと、先住の縄文系の人々と戦い一部は混血しながら進出していった。このような戦いにより古墳時代の末には、渡来民が主体となって現代の本土人の原型がほぼできあがった(国立科学博物館より) |
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原の辻遺跡
原の辻遺跡の盛衰
@紀元前202年原の辻遺跡で弥生人が居住を始める。
A紀元前82年大規模な環濠集落となる、船着場が建設される。これは航海技術を持ち込んだ有力な集団がいたから出来た。又倭(奴国)による後漢への朝貢と北九州地域の連合体が再編成され、連合体の後ろ盾によって交易基地としての整備が実現した(第2次整備)。このことを知って壱岐島のあちこちの集落から原の辻遺跡に移り住む者が多くなり、一支国と呼ばれるほどの勢力に成長した。。
B170〜210年倭国大乱が終息し、卑弥呼共立による邪馬台国連合体制へ編入し、城塞化した集落の環濠が埋められ、邪馬台国の一員としての国の役割を果たして行く。
C350年頃原の辻集落は解体していった。楽浪郡は313年に、帯方郡は314年高句麗に滅ぼされた。一支国は中国との外交場所である楽浪郡、帯方郡を失ったことが、交易システムの崩壊が起こり、大集落としての存在意義を失い解体して行った。原の辻遺跡(一支国)は大陸との交易の中継地であり、海の王都であったのだ。
C原の辻が衰退しても、壱岐では、古墳時代(3世紀末から7世紀)になると、豪族によって原の辻周辺に古墳が256基も次々に造られた。 |
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岳の辻から見る郷の浦港 |
岳の辻から見る原の辻。稲穂が黄色見える。く |
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紀元前202年原の辻遺跡で弥生人の居住が始まる。紬の単衣の着物で |
一支(いき)国王と妃 |
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漢の楽浪郡や朝鮮半島の土器が多数出土している。 |
人面石:これは祖先の霊を祀るものであろう |
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紀元前200年頃、小国が発生し、小国の首長が青銅器の祭器を求めて先進地の朝鮮半島へ行き、武器としても農具としても有効な鉄器をも知った。朝鮮半島との交易で鉄を握った小国が、それを分け与える事で、周辺国を指導し、盟主となっていった。3世紀までの倭国は、交易国家だったのではあるまいか。 |
原の辻遺跡では、楽浪郡や帯方郡そして狗奴国の製品も出土している。経済交易活動によって培れた航海術は、邪馬台国が帯方郡を通じて魏と外交関係を結ぶとき、その架け橋としての役割を担うことになる。その際の食料や水の補給の中継地点としての機能も発揮した。 |
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船着場跡の発見
卑弥呼が中国魏の天使に朝貢として奴隷10人、娘壱与は奴隷30人と沢山の物を持って行った。玄界灘の荒海を乗り切るには頑丈な大型の船が必要であった。壱岐は対馬と共に中国大陸や朝鮮半島からの文物をいち早く取入、北部九州へ伝える役目を果たして来た。一支国に到着した船団は、原の辻遺跡の1.5Km東の内海に停泊し、小型の舟に物資を移し替えて、川を遡上し、船着場に至った。多くの渡来物が海を介して交流して来た。ここ原の辻が、『南北に市糴する』の証でもある。(発掘『倭人伝』より) |
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竿秤や重りらしき物も出土し、7世紀だとされていた度量衡整備が、さらに400年以上も遡ることになった。 |
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赤米田
あいがもの力を借りて除草、害虫の駆除など昔ながらの稲作をしている。 |
壱岐市立一支国博物館が、2010年3月14日にオープンした。
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黒川紀章さん設計の建物は壱岐一番の立派な外見である。 |
エントランスには小学6年生による【魏志の倭人伝】が書かれている |
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耗田猶不足食亦南北市糴 |
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復元された古代船と当時の王の服装を着て |
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屋上展望台からの原の辻遺跡:昼と夜(一支国の王都が、かがり火とライトに照らされて、幻想的に蘇る) |
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復元されつつある原の辻遺跡 |
壱岐には神社仏閣が多い。インターネットに掲載されているだけでも50余ある。人口51,000人に対して異常な数である。各家庭の客間の床の間には神棚があり、天照大神の掛け軸が掛かっており、天照大神のお札と氏神様のお札が供えられてある。壱岐の人は大変信心深い人達である。また天照大神から出雲の神様、八幡宮など八百万の神が仲良く合祀されているのが特徴である。
まずは、古事記に出てくる神様から見てみると。 |
月読神社 |
国津意加美神社 |
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祭神は、素盞嗚尊(スサノオノミコト。月読尊の弟である)と奇稲田姫(素盞嗚尊の妻)、大己貴神(大国主命)である。 出雲の神様がいるのには驚いた。 |
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何処の神社にも天皇の写真が飾ってある。 |
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古事記ではイザナギノミコトとイザナミノミコが天照大神の次に産んだのが月読尊とされている。京都の月読神社は487年壱岐から分霊したもので、ここは神道の発祥の地とされている |
頭の小さい均整のとれた狛犬が可愛い。 |
熊野神社(熊野大権現) |
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祭神は、イザナギノ尊、須佐之男命、速玉男神である。 |
春一番の塔 |
天手長男(あめのたながお)神社 壱岐国一宮後継社
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苔むした石段を上ると壱岐の一宮となっていたが、元寇の役で不明となった。その後荒れていたのを天手長男神社に否定したものである。 |
国片主神社
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祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)である。少彦名命は大国主命と共に国土を2分して治めたと言う。境内には牛の石像の他に小さい鳥居が三つあり、例祭の日、ここをくぐって祈願する習わしがある。旧号は国分天満宮と言っていた。これは菅原道真公を祀ってあるからである。 |
天手長男神社(あまのたながお神社、壱岐の一宮である) |
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祭神は、天手力男命(アメノタジカラオノミコトは、天照大神が岩戸に隠れたとき、岩戸の陰に隠れて、天照大神が岩戸を少し開いたときに岩戸を開き、世を明るくした命)である。天うずめ女命(アマノウズメノミコトは天照大神が岩戸に隠れたとき、天の岩屋の前で舞を踊った神様)。天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコトは天照大神の長男で、ニニギの尊の父)である。137段の石段がある |
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天手長比売(あまたながひめ)神社。天手長男神社の向いにある) |
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男嶽神社 |
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祭神は、猿田彦命(天孫降臨の折り、高天原から葦原中国まで道案内した神様)である。200体を越える石猿が並んでいる。家内安全、合格祈願、子宝祈願が成就し、奉納されたものである。しかし何故壱岐に猿田彦が祀られているのか不明である。 |
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古墳時代−大和朝廷の支配下に入る。
壱岐では、3世紀から7世紀の古墳時代になると、豪族によって、次々に古墳が256基も造られた。、円墳が主で、県下一の前方後円墳もある。原の辻遺跡が解体しても、小さな島に、6〜7世紀に何故このような大型の墳墓が次々と築造されたのだろうか?
その背景は大和王国と大陸との関係において、壱岐が重要な海の中継地としての航路の掌握や天候予測などにおいて大きな役割を担っていたと推測される。当時の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅が勢力を争い、それに大和政権も進出して、非常に緊張していた。倭国からも大軍が派遣され、壱岐の豪族は大和政権に加担(磐井の乱も)したので、大和政権は壱岐の豪族たちを支配下に置き、経済的援助をしていたと思われる。占いに用いる亀甲も、大和政権との関係を裏づける畿内系の土師器や、新羅系の有頸土器も出土している。大陸との中継地という重要性は、8世紀の律令体制になってからも引き継がれ、国郡制度の中で、壱岐は国としての扱いを受け、国府が置かれた。大陸の先進文化をいち早く吸収しながら、南へ北へと活動し、経済力を持った豪族たちは、自分が永眠する墓こそが自らの権威を示すことが出来る場所と考えたのではないだろうか?突如巨大な墓を作り始めた。 |
掛木古墳 |
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6世紀末から7世紀前半頃の築造。円墳で、墳丘は直系30m |
石室は全長13.6m、くり抜き式家形石棺。畿内系土師器が出ているころから中央政権との結び付きが強い。 |
百合畑古墳群
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6世紀末から7世紀初めに築造された、23基の古墳が集中している。 |
鬼の窟古墳
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直径45m,高さ13mの大型円墳。6世紀後半から7世紀前半 |
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6世紀後半から7世紀前半頃の築造。
石室は壱岐最大、日本で12位、石室の全長16m,天井高4m、玄室は3m四方、当時の豪族壱岐直(527年磐井が新羅と手を結んで反乱を起こした。壱岐直が大和政権に加担して、新羅海辺で磐井を討った)の墳墓らしい。
壱岐では横穴式石室古墳のことを鬼の窟と言う。鬼でもなければこんな重い石は運べまいとの解釈だろう
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双六古墳:6世紀中頃の築造。全長が91、長崎県最大の前方後円墳
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弥生時代の末期には、倭国争乱を経て、国々の統合が進んだ。その中核を担ったのがヤマト政権であった。ヤマト政権は、地方支配を願望する首長らの要求を吸収すると同時に、中国の神仙思想を取り入れて出来上がったのが巨大な前方後円墳であった。具体的には、現世と死後との世界を相似形に考えたのである。彼らの願望は、霊魂の不死を獲得するための昇仙行為で、死してなお神に昇華するために無くてはならないものと考えられていた。前方部から後円部は、葬送儀礼のために人が古墳へと登って行く道であり、そこで粛々と葬送儀礼が執行され、緩やかな道を通って、時の権力者たちが死者を弔問したのである。このように前方後円墳は、今までの墳墓とは全く異なるヤマト政権の支配下にある証しであった。
400年にわたって、中央、地方を問わず競って作り続けた前方後円墳は、646年大化改新で薄葬令『我が民がひどく貧しいのは、もっぱら墓を営むことによっている』が出されて墓は簡素化することとなった。 |
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石室内部(上)
古墳入口(左) |
八幡宮は壱岐にはたくさんある。下記の訪れた八幡宮以外にもまだ本宮八幡神社、白沙八幡神社、若宮神社、大神宮神社、西八幡神社、正八幡神社、流れ八幡神社などがある。これらは神功皇后が存在し、住吉神社の祭神の先導で三韓征を行ったことが推測できる。
八幡様とは日本建国の父ではないだろうか? 第15代応神天皇の時代は統一国家の強化と三韓文化と技術の流入など国家体制の確立した時期であった。百済王の子直支が人質として倭国に来て、文学や経典を教えたり、また405年応神天皇の招きに応じた王仁(わに)は、百済新羅から織工、縫工、鍛工、船匠などの優れた技術者を伴って来日し、論語10巻と千字文を献上したと言う。 |
壱岐の聖母宮 |
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祭神は、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇である。神功皇后は、応仁天皇を懐妊したまま三韓征伐に向かった。途中壱岐の勝本で、風待ちをし、勝本港から朝鮮へ向かった。仮の宮居を行宮(あんぐう)と言う。帰路湯之本温泉で出産したとも言われている。
今では埋め立て地があるが、昔はすぐそばまで海だった。風や波を防ぐ為に石垣で囲んだ聖母宮の石塀。奈良時代初期に建てられたと言われ、門は加藤清正が朝鮮出兵の折、寄贈したと言われる。この近辺が朝鮮通信使の宿舎に当てられていた。 |
箱崎八幡宮 |
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祭神は、神功皇后と応神天皇である。 |
爾自じじ神社 |
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右は東風石(こちいし)。神功皇后が三韓征伐の折、勝本浦に寄港するが、追い風が吹かないために、この石に順風祈願をすると、石は二つに割れて爽やかな東風が吹き出し、出船できたと言う。平戸藩はこの故事に習って、朝鮮通信使が江戸への往復に勝本港に寄港し、平戸藩の接待を受けた。この時に、海上が時化て勝本浦での逗留が続くと、藩はそのつど壱岐城代に命じて、当社の東風石に順風祈願を行わせたことが記録されている。 |
興神社 |
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祭神は、足仲彦尊(仲哀天皇)と神功皇后である。相社には、応神天皇、仁徳天皇、住吉大神、八意思兼神(多くの知恵を兼ね備えている神) |
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神功皇后が応神天皇を出産し、産湯を使ったとされる湯ノ本温泉平山旅館 |
住吉神社
神功皇后三韓征伐は、住吉三柱の御守護により無事達成されと言われている。住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と息長足姫命(神功皇后)を祀り、「住吉大神」と総称される。総本山は大阪市住吉区の住吉神社であるが、最も古いのは、ここ壱岐か福岡か神戸の住吉神社だと言われている。 |
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約700年の歴史を持つ壱岐神楽 |
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奇岩
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左京鼻:八幡半島にある1Km続く芝生の断崖からは海中に突き出した細い柱を束ねたような奇岩がある。 |
猿岩:高さ50m |
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はらほげ地蔵
は六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)において衆生の苦患を救うという6種類の地蔵。腹が丸くえぐられているので、はらほげ地蔵と呼ばれている。海女で有名な八幡浦の海中に祀られている。 |
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黒崎砲台:昭和3〜6年に口径18cmのカノン砲2門、砲身18m、弾丸1t対馬海峡の軍艦攻撃が任務であったが、一度も発射せずに終わった。 |
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万葉公園からの眺め
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遣新羅使が入港した印通寺港を眺める。 |
原の辻遺跡方面を |
防人
663年百済と倭国連合軍は白村江での戦で新羅に大敗した。朝鮮半島を統一した新羅の反撃を恐れた大和朝廷は、大化の改新の詔で防人と烽を制定した。防人(664年〜)とは、主に東国(757年以降は九州から徴兵した)の農民が当てられ、3年の任期で壱岐、対馬、筑紫の辺境の守りにつかせた。何故東国(蝦夷)の人か?縄文人だからだろうか?防人に選ばれた人は、出身地ごとに国司に連れられて難波津に3月1日までに集合し、10人で1火と呼ばれる隊を組んで、船で九州太宰府へ送られて来た。定員は3千人、毎年1千人ずつの交替。太宰府で基礎訓練を受けてから、任地へ派遣される。壱岐には150人の防人が配備された。防人たちは海岸の見張り、烽による知らせ、島の空き地が割り当てられ、これを耕し自分たちの食料を作らねばならなかった。外的の侵入があれば武器を持って戦うという、屯田組織の警備方が取られていた。1019年刀伊(女真族)の入寇では略奪を欲しいままにされ、沢山の死亡者を出した。以後も、異賊の侵入は繰り替えされ、国境の島のもつ苛酷な宿命の年月が続く(壱岐の風土と歴史より)。3年の任期が明けても、帰郷の費用は支給されず個人で帰るのでは、途中災難に会ったり死亡したりして、帰郷出来る者は殆いなかった。帰郷を諦め、住み着く者も沢山いたという。防人の歌(家族との離別の歌、故郷を偲ぶ歌など)は万葉集に残っている。防人は、太宰府の衰退と共に消滅した。
何故新羅は倭国に反撃しなかったのだろうか?白村江で勝利した後、668年新羅と唐の連合軍は高句麗を滅ぼした。新羅は旧百済国を統治しようとするが、唐は韓半島を直接支配しようとした。そして671年ついに新羅と唐の戦争が本格化し、676年戦争は終結し、新羅が韓半島を統一することが出来た。新羅としては唐の恐怖があり、倭国との和平を選んだのである。 |
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烽(とぶひ) 烽とは狼煙のことで、昼は煙を、夜は火の光によって危急を知らせた。使船の来航は1炬、賊が来た時は2炬、200隻以上の賊は3炬を放つと決めていた。 |
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遣新羅使
7世紀後半になると、百済からの渡来人の力により大和朝廷は国としての体制が整って来たが、さらに外国の進んだ学問や文化を学ぶために、多くの使節が倭国から派遣された。外国の進んだ文化を取入て、律令国家として発展して行くことになる。
例えば752年2月山口人麻呂を大使として遣新羅使を派遣し、東大寺大仏建立の報告と大仏塗装の金の輸出を依頼した。新羅使は金をはじめ多量の唐と新羅の文物を持って7隻700人の大使節団で奈良へやって来た。当時の新羅使は、東南アジア産の香料や薬物の中継貿易を目的としていた。倭国では朝鮮の優れた土木建築技術を用いて平安京の建設(天平文化)を早急に完成したかった、又隋や唐へ行くには新羅に通訳や水食料の補給などの便宜をはかってもらわねばならなかったという双方の意向が合った。同年4月には藤原清河らの遣唐使船が出航した。9月には渤海使も来日した。正倉院の宝物館には唐のみならず、新羅からの宝物も沢山含まれている。
このように中国への使節より、朝鮮への使節の方が回数も多く、また中国から倭国へ使節は殆ど来なかったが、新羅や渤海から倭国への使節は何度も来て、朝鮮を通して沢山の進んだ学問や文化を学んだ。倭国からの派遣使は、殆どが朝鮮からの渡来人かその子孫であった。
白江村で戦った新羅と倭との関係は、天武天皇の即位(673年)から779年までは比較的良好であった。双方の間で新羅使は25回、遣新羅使は31回送られた。しかし渤海が倭国へ朝貢を始め、渤海と新羅の間が緊張し、780年に新羅と日本の関係は中断した。 |
雪連宅満(ゆきのむらしやかまろ)の墓。736(天平8)年11月8日遣新羅使一行の一人であった雪連宅満はここで病死し、村人により葬られた。
一行は736年4月難波を船出し、夏に倉橋島、上関を経て、九州では流行中の天然痘に罹患し死者も出た。大使阿部継麻呂は対馬で、副使大伴三中も新羅で死亡した。大和に一行が帰ったのは翌年の1月であった。宅満は海上で亀卜という、亀の甲を焼いて吉凶を占う卜部として乗り込んでいた。宅満の父は702〜704年遣唐使に随行し、子は762年遣渤海使に随行して卜部官として任務を果たしている。(壱岐の風土と歴史より) |
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7〜9世紀の倭国からの使節 |
使節名 |
回数 |
年代 |
相手国 |
遣隋使 |
3 |
606〜614 |
隋 |
遣唐使 |
16 |
630〜839 |
唐 |
遣新羅使 |
31 |
668〜779 |
新羅 |
新羅使 |
25 |
668〜779 |
倭国 |
渤海使 |
15 |
728〜811 |
渤海 |
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万葉公園の雪連宅満への挽歌の碑
『石田野(いわたの)に 宿りする君、家人のいづらと
我を問はば いかに言わむ』万葉集3689
万葉集には、宅満の歌は1首で、挽歌が9首掲載されている |
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国分寺跡
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へそ石:往来の時、ここが壱岐の中心になると言うことで目標とた。 |
645年大化の改新、701年大宝律令、741(天平13)年全国に国分寺創建の詔が発せられた。 |
元寇の役
文永11年と弘安4年(1274年、1281年)の2回に渡って蒙古軍が攻めて来た。 |
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文永12(1274)年元の大軍は10月5日午後4時頃対馬を襲撃した。14日午後4時頃ここ勝本港に900艘4万人が現れ、ここから上陸した。壱岐を全滅させた元軍は、19日博多湾に侵入して、翌朝博多を焼き尽くした。 |
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文永の役 新城古戦場:文永11(1274年)10月14日上陸した元軍は守護代の館へ向かった。守護代平景隆の率いる百余騎は元軍をここで迎え撃ったが、翌15日には全滅したという。 |
新城神社は、壱岐の守護代・平景隆の本陣であった樋詰城跡にある。神殿は明治19年に造営。景隆をはじめ元寇で殉難した将兵諸神を安置している。 |
少弐公園
弘安4年(1281年)元東路軍は6月6日から博多湾で戦いをしたが、疫病が流行し、13日壱岐へ退いた。瀬戸浦、芦辺海上にいる元軍をめがけて薩摩軍、肥前軍などが攻撃を仕掛けた。7月2日まで戦いは続いた。4万もの蒙古東路軍に対して、壱岐守護である19歳の少弐氏は激戦の末討ち死にした。7月30日江南軍も博多湾に到着した。14万、5千艘の元軍に大型台風が襲い、元軍には10万の溺死者を出し、壊滅した。蒙古の大軍に対して、国境の島には何の防備も増強されず、鎌倉幕府は、はじめから壱岐、対馬は見捨てていた。
元寇が残したものは何か? @このような鎌倉幕府や太宰府の無策の怒りと生活苦が壱岐海賊衆の活動に発展して行くことになる。A神風、神の国という幻想を遺産として残し、終戦まで多くの日本人をしばり続けた。(壱岐の風土と歴史より) |
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ここ瀬戸浦一帯は、4万もの蒙古東路軍が攻め込んで来た弘安の役の古戦場跡 |
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元寇の碇石。中国製の石を使っている碇(いかり) |
壱岐神社:1281年元寇で戦死した少弐資時を祀ってある。 |
お寺
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壱岐安国寺
1338年足利尊氏は平和祈願と元寇の戦死者の菩提を伴うために、全国66カ国と2島に安国寺建立を命じた。
当時は官寺として、住職は幕府の任命によって派遣され、3千国の領地をもっていましたが、後に、平戸藩松浦家の菩提寺として百石の知行寺となった。高麗版大般若心経をはじめ数多くの文化財がある。
樹齢千年の天然記念物の大杉。 |
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金蔵寺の高麗仏(渡来金銅仏):左右の手が特殊な印を結んでいる。 |
祥雲寺の山門:石灯籠の上にシャチを戴く山門は他には無い。 |
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勝本港
李氏朝鮮は、徳川家康に好意を抱いていた。豊臣秀吉の朝鮮出兵に家康が一兵も派遣していなかったこと、秀吉の死後、家康が豊臣家の筆頭家老として在朝鮮の日本軍引き上げの総指揮を取ったことに恩義を感じていたのであった。徳川幕府になり朝鮮通信使は、1607年から1811年まで12回来日した。初期には、回答(幕府の使節派遣に対する回答)兼刷還使(秀吉の朝鮮出兵の時、連れて来られた捕虜を連れ帰る)と云われ、第4回(1636年)から通信使(信義を通じるの意)となった。幕府は老中を総責任者とし、沿道の各藩に最大限の饗応をするように指示した。平戸藩は、朝鮮通信使の摂待を壱岐の勝本(風本)で行った。
第4回1636年を松浦家世伝によると、9月初旬に賄役の立石吉左衛門が壱岐に渡り、摂待の準備に臨んだ。通信使一行は10月24日に対馬の府中を出航し、同日に勝本港へ到着。同月27日勝本港を出て同日藍島に到着している。第5回1643年の朝鮮通信使来日には、平戸藩主、松浦鎮信自らがここ勝本へ出向き摂待に当たった。
1719年第9回朝鮮通信使の申維翰の書いた『海遊録』によると、21日間厳原で過ごした一行は7月19日の明け方、対馬藩主先導のもとに勝本に向かった。6隻の船に分乗した一行は475人、藩主の乗る対馬御座船の後には船が従い、その数800余人。途中海上は大時化で、『座して隣船を見れば、波に浮き上がるものは真っすぐに空を突き刺し、波間に下るものは帆竿さえ没し尽くす』とある。勝本では百余の出迎えの船が一行を迎えた。勝本への上陸が開始されたのは午後の刻を過ぎたころだった。港は水が浅くて入れない。船を連ねて陸橋を作り、その上に板を設け、左右を竹欄となし、敷物を敷き、真っすぐに使館まで至る。岸を挟んで見物する男女は山一面に立ち、紅袴を着たものが過半で、青や白の綾模様の衣も混ざっている。まさに春林に茂る百花が眉顔を競っているようだ。恨むらくは、だだ見物の男女が3日間も解散しないことである。山かげに屯して露宿風炊し、これ多くは遠方から料食をかついで来た客たちだと言う。24日大雨と共に狂風がにわかにおそい岸上の樹木がみな折れ、館もまた傾き破れ、中下官の居所は既に圧砕されてしまった。8月1日夜明けに雨豪々。晩くなって晴れ、西南風に帆をかけて出発した。対馬州、壱岐州の大小の諸船がつならること数里、青と白の帆色が歴然として眼中にあり、まことに壮観である。風また止む。我が船の櫓人たちも壱岐の曳船の人達も声をそろえて櫂を漕ぎ、人皆その力尽きてしまった。同日に藍島に着いた。またその復路では、12月3日藍島から大シケの中を勝本に到着する。勝本では西風が続き、雪まで降り始めた。爾自神社での順風祈願の5日後の12月20日、一行は勝本から府中へ向かう。京城での復命は翌年の1月24日。実に2年間にわたる261日の大旅行となった。
玄界灘は海が荒れることでその名が高い。通信使一行の滞在が長くなると多額の経費の支出となる。勝本浦での足止めの原因は逆風であり、時化であった。そこで藩主は順風祈願を行った。 (むろのつ記念特集朝鮮通信使より) |
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勝本城跡から見る勝本港。朝鮮通信使の遺跡は無くなっていた。 |
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イカ釣りの漁船で賑わう勝本港 |
勝本港大幸での、生ウニ御膳、美味しい |
勝本城跡
朝鮮出兵が残したものは何だったのだろうか?
7年かけた朝鮮出兵は、多くの戦費と兵力を費やしたため、豊臣政権の崩壊を招いた。1472年より壱岐の領主であった波多氏は、秀吉の怒りに触れ、出兵士に討死した者が多く、島民も往復の軍隊に悩まされ、没落の道を辿った。一方徳川家康はこの戦争に直接参加しなかったために、自分の力を温存することが出来、その後の朝鮮との和平交渉を有利に進めることが出来た。文化面では、日本軍が、朝鮮の陶工や儒学者を連れて帰ってきた。朝鮮の書籍が伝わり、活字を使った印刷技術も輸入され、古典の出版が行われるようになった。なかでも朝鮮の陶工たちの優れた技術と指導によって、萩焼、有田焼、薩摩焼、唐津焼、高取焼、平戸焼、上野焼などが起こり、日本の製陶技術が盛んになった。 |
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1591年豊臣秀吉が朝鮮出兵に備えて平戸藩主松浦鎮信に命じて築城させたもので、一の門と二の門の間にあった升形と、その左右の石垣が残っている。勝本城、対馬府中の清水山城、上対馬撃方山、釜山とを結ぶ補給路とした。 |
河合曽良の句碑『春にわれ 乞食やめても 筑紫かな』 生き甲斐(がい)となった乞食をやめてまでも筑紫を訪ねてみたいという句に、九州へのあこがれがにじむ。 |
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芭蕉10哲の一人、河合曽良の句碑
行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原
右:御柱(みばしら):河合曽良は1710年巡見使(将軍の代替わり毎に実施され、諸大名の政治、産業の実態調査と幕府の威信を浸透させるのが目的であった。)として35名で大阪から海路若松へ上陸し、福岡、呼子を経て郷ノ浦に上陸したが、病に倒れ、5月22日62歳で勝本で死亡した。出身地である諏訪市から寄贈されたもので、諏訪大社で7年に1度行われる無形文化財『御柱祭』で使われた御柱である。 曽良の墓は、城跡中腹の能満寺にある。 |
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風土記の丘
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江戸時代中期の古い民家を復元してある。 |
壱岐の鬼凧:凧の上部は両目をむいた恐い鬼の顔、下は武士の絵が描かれている。何処と無く大陸の影響を感じる。 |
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壱岐のむぎ焼酎
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日本に蒸留の技術が伝播したルートとして東南アジアから琉球経由の南ルートと、大陸からの壱岐経由の北ルート説がある。
壱岐の焼酎は、16世紀に大陸から焼酎作りの蒸留技術が伝わり、米の少ない壱岐では麦を使った焼酎作りが芽生えた。
麦2米1の割合で仕込み、米麹を使い、レギュラー品でも3〜4年熟成させて、常温蒸留させる壱岐焼酎として完成した。現在は7つの酒蔵が切磋琢磨している。また壱岐焼酎は、平成7年に産地ブランド指定を受け、『琉球泡盛』、『球磨焼酎』と共に、原産地名『壱岐』を冠することが世界貿易機関から保護産地指定を受けている。 |
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海女心 うにの生産高日本一のうに工場。 |
郷の浦港からジェットホイールにて1時間10分で博多港に着く。 |
壱岐観光協会 まるごとリンクる壱岐
壱岐市
写真集 |
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