風待ちの港
潮待ちの港 五島列島−福江
風待ちの港


 五島列島は日本の最西端に位置し、九州長崎の西方100kmに浮かぶ大小140余りの島々からなり、国境の島として、海上交通の要衝の地として交流を行ってきた。「古事記」「肥前国風土記」「万葉集」「日本後記」「続日本後記」「蜻蛉日記」などにその名が出てくる。
 東シナ海に浮かぶ五島は、黒潮(対馬暖流)と季節風を使って海を渡る民にとっては、水の豊かな緑あふれる島として知られ、遣唐使時代には、遣唐使船最後の寄泊地として、さらに日宋貿易に引き継がれ、中世には、室町幕府の勘合貿易船、江戸時代の日明貿易、日清貿易の寄港地にもなり、海外貿易の拠点として栄えた。江戸時代には、1万2600石の五島家が治めていたが、城はなく陣屋であった。カトリック教会や神社仏閣、城跡や武家屋敷など数多くの歴史遺産が今も残っている。





福岡から30分で五島福江空港へ着く。
プロペラ機だ。

倭寇の守り神:明人堂(みんじんどう) 常灯鼻:福江城の築城工事で波浪を防いで工事をし易くするために作られた。その後は、航行の安全の灯台として。
 1540年当時東シナ海を中心に貿易商人として活躍していた明国人王直は、さらに勢力を拡大するために通商を求めて、福江に来航した。福江の17代藩主盛定公は通商を許し、居住地を与えた。それが現在の唐人町である。明人堂は、王直が航海の安全を祈った廟堂跡である。
 当時の中国の貿易商人は、五島を東シナ海域の重要な貿易地とみており、五島人もまた多様な価値観を持って周辺の国々と交流を積極的に図ってきた。彼らは倭寇とも呼ばれ、海を荒らしまわったというイメージが強いが、当時の明国の政策により密貿易をおこなうものは全て倭寇とみなされていた。だが倭寇全てが海賊行為を行ったわけではなく、海と言う舞台を自由に行き来をした海洋人であった。


武家屋敷
 福江の武家屋敷通りの石垣は、溶岩塊の石垣を積み上げ、その上には「こぼれ石」といわれる丸石を積み重ね、両端にはかまぼこ型の石で止められている。門は殆どが薬医門と呼ばれる門構えで堂々たる作りとなっている。右は松園邸

石田(福江)城 五島氏庭園・心字が池
 1614年城が焼失した後、築城の嘆願をするも陣屋住まいであったが、異国船が頻繁に五島灘を往来するようになった江戸末期になって幕府から築城の許可が出た。第30代藩主盛成公は、15年の歳月をかけて1863年に城を完成させた。3方が海に囲まれた日本唯一の海城であったが、明治維新に築9年で本丸は取り壊された。 1858年第30代五島藩主盛成公の隠居所として作られて庭園である。
金閣寺の庭を模して作った林泉式の庭園である。



三井楽(みらく)の白良ケ浜万葉公園 
 奈良時代、対馬に常駐する約2千人の防人の食料を運ぶために、志賀島の海人である”荒雄”がその任に当たることになった。荒雄は70名の船員と共に、福江島から対馬へ向かって出港したが、台風によって船が難破し全員死亡してしまった。

【大君の 遺はさなくに 行きし荒雄ら 沖に袖振る】
           万葉集第16巻3860
    左は【ありとだに よそにてもみむ 名にしおはば われに聞かせよ みみらくの島】
 藤原道綱の母(995年没)の「蜻蛉日記」には、そこへ行けば亡くなった人に会える所ということで「みみらく」が詠まれている。摂政関白の夫は、多くの妻を持ちその心変わりを恐れ、悩み苦しむ日々の辛さ、はかなさを綴ったもので、女流日記文学の始まりと言われている。上中下の3巻からなるその上巻にこの「みみらくの島」が詠まれており、この歌が詠まれた背景が次のように記されている。 夫の心変わりを恐れ悩んで暮らすこと10年、その間この上なく慰め励まし力づけてくれた母が亡くなり、山寺で喪に籠る中、悲しみは募るばかりで遂に病の床につき、病魔払いの祈祷僧らが祈祷の合間に「みみらくの島に行けば,亡くなった人が遠くに現れて会える」と話しているのを耳にし、「母に会いたい願い」を詠んだ歌である。



遣 唐 使
 遣唐使は、630年第1次犬上御田鍬の派遣により始り、第20次894年8月の菅原道真が任命され中止となるまで15回(第6次667年百済までの送使、第11次石上乙麻呂は中止、第14次762年船破壊のため中止、第15次762年風を得ず中止、よってこれらは数えない)約260年にわたって、我が国は当時空前の繁栄を誇っていた唐の長安の都へ使者を送った。これを遣唐使を言う。遣唐使の目的は唐への朝貢と唐の文化の輸入であった。『唐書』の記述が示すように、遠国である倭国の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。【貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。】(『旧唐書』倭国日本伝)。
 8世紀には10回の遣唐使が4船の船団を組んで航海をしたが、4隻とも帰国できたのは1度のみであった。このように船の製造技術(竜骨を使わない平底のジャンク船に似た箱型で横風に弱く、沈没し易い構造であった。)と航海技術の未熟さ(気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航し、12月に唐に入京し、元旦朝賀に出席するという気象条件の良くない時期)により、多くの英才たちは再び故郷の土を踏むことはなかった。かろうじて生き残った人たちが次代の日本の文化を担ったのである。
 遣唐使の航路としては、@北路、A南島路、B南路の3つがあった。海の神である住吉神社で航海の安全を祈願し、「住吉大神」を船の舳先に祀り住吉津から出発し、大阪弯に出て、難波津に立ち寄り、瀬戸内海を経て那の津(福岡市)に至るここから、@北路は博多、壱岐、対馬を経て朝鮮半島の西岸を北上し、遼東半島南岸から山東半島の登州へ上陸するもの。時間はかかるが最も安全であったので、初期に利用していた。しかし663年白村江の戦いで、日本と百済連合軍は唐と新羅の連合軍に敗退し、倭国との盟友の百済が続いて日本と手を結んでいた高句麗が滅ぼされ、676年新羅が朝鮮半島を統一して以後は利用できなくなった。A次に用いられてのが南島路で、鹿児島の坊の津より出航し屋久島、奄美大島、沖縄、石垣島などの島々を経由して東シナ海を横断して揚子江河口を経由した。北路と同じ航海日数がかかり、遭難率が最も高かった。一方南島路は帰航の際、気象条件により結果的に生じた航路であり、計画の最初から往路に南島を目指した遣唐使はいなかったと言う説もある。B最後に用いられたのが、南路であった。これは博多から五島列島の福江島の三井楽から東シナ海を横断し揚子江河口の蘇州や明州を目指すもので、航海期間は最も短いが最も危険な航路であった。
 遣唐使船は難波津(大阪)を出て、瀬戸内海を通り、筑紫の大津(博多)、唐津、平戸と泊まり重ね、最後に五島に来て風待ちをした。そしてここで船を修理をし、薪や水や塩を積み込み、一挙に東シナ海を押し渡ったのである。。
 疑問に思うのは,唐と険悪な関係になった白村江の戦い前後に遣唐使の派遣が多きことである。すなわち第2次653年。第3次654年、第4次659年、第5次665年、第6次667年と14年間に5回派遣されている。

白石のともずな石 ろくろ場の碑
白石のつぼ浦のこの石に、往時遣唐使船を繋いだと言われている。 ろくろとは、船を修理する為に陸揚げるロープを巻き上げる道具のこと。古代の遣唐使船もここで修理された。

魚津ケ崎の遣唐使寄泊地の碑 三井楽の空海記念碑【辞本涯】(日本の最果ての地を去るの意)
 遣唐使は、20回計画され、内15回唐に渡ることが叶った(諸説あり)。36隻が唐へ向かい26隻が日本に帰って来たので、7割強が成功している。当時世界で最も繁栄していた唐から、最先端の知識や技術、文化などを取り入れるため、幾多の秀才や名僧が選ばれ海を渡った。第7回702年の遣唐使船から五島を経由するようになった。その中で、五島に関係し有名なのが、804年、第14回遣唐使船4隻が、久賀田之浦(三井楽)に寄泊後、唐に出発したと伝わるもので(肥前国風土記)、この船団の中に、当時31才の空海、38才の最澄が乗船していた。二人もここで風待ちをした。大変な苦労をしながらも見事入唐し、805年第1,2船は最澄らを乗せて対馬を経由して帰国した。空海は806年第4船で五島の玉之浦に帰国し、五島各地を巡り数多くの伝説を残している。その他、704年第7次遣唐使船は帰朝の際に玉之浦に漂着した。777年第12回遣唐使船は4船ともに五島を経て渡唐に成功し、帰途五島に漂着する。838年第15回遣唐使船は帰途新羅船9隻を雇って五島に漂着する。
 この頃になると150人以上が乗れる大型船の建造技術が進歩したが、水や食料の積載量には限度があるので、短期間で大洋を横断しなければならなくなり、五島の三井楽経由が選ばれるようになった。
 季節風(モンスーン)とは、夏季(4〜9月)には大陸が海洋より加熱されて低圧となり、大洋から大陸へ南東風が吹き、冬季(10月〜3月)には北西の季節風が吹く。夏と冬とでは風向が逆になる。この風向が維持されるわけではなく、このような風向の出現頻度が多いということである。冬は、風速の速い強烈な季節風が周期的に吹き荒れ、東シナ海では”台湾坊主”と呼ばれる突発性の強い低気圧による時化がしばしば発生するので航海は避けていたようである。しかし夏には台風が発生し、遭遇すると遭難事故を起こしていた。     上田雄著、遣唐使全航海より
 3,4月に難波津を出て、6,7月に筑紫を発して、南東風を受けて唐に渡ることが多かった。7月が1回、8月が5回、10月1回と盛夏に集中している。  新年に朝貢し、冬の北西風を受けて日本へ帰るはずであるが、5月に1回、6月に2回、8月に1回、9月に1回、10月に1回、11月に1回、12月に3回であった。
 遣唐使以後の日中間の航海の月別頻度を見ると、日本から中国へ向かう船は、5,6月の季節風を利用したものが最も多く、次に9,10,11月が多い。また中国から日本へ向かう船は、6,7,8月の夏季が圧倒的に多い。冬を除けば全季節にわたって往来していた。これは、帆走では正面45度以外なら航行が可能であり、特に季節を選ばず、季節風も利用する必要がなかったからであろう。ただ海の荒れる冬季は避けていた。

         復元された遣唐使船: 
 日本には、遣唐使船に関する図や絵は当時存在せず、 300年後の鎌倉時代に書かれた遣唐使船の絵巻物『吉備大臣入唐絵詞』、『弘法大師絵伝』などに描かれている絵を参考にして製作された。600人が乗り、半年から2年をかけた航海であったのに、何故絵や図面が残されていないのだろうか?優秀な僧や画家もたくさん渡唐したのに謎である。
 後半の遣唐使船は、推測では長さ30m,幅8m,総トン数300トンであったと言われている。4隻で600人(1坪に3人)が乗船していた。当時の唐や新羅にも見られない桁外れの大型船であった。このような大型化が災いして、操船機能が低下し、風波が高いと航行の自由を失って、漂流や座礁の危険性が高くなった。  推進力は、網代帆と呼ばれる竹で編んだものであった。遣唐使船の乗組員の中に、水手(かこ)が5,60人もいた。しかし波の高い東シナ海では、船が大きく上下し、櫓は空を切り、また300トンの大型船を700Km漕ぐことなど不可能であったと思われる。
 東シナ海を帆走する時、平均時速4.5Kmだと所要日数は7日であったと推測される。記録でも早いと3,4日で横断している。

上田雄著、遣唐使全航海より
 この復元船は、広島市が1989年に開いた”広島海と島の博覧会”で企画、制作されたものである。鎌倉時代の絵巻物を参考にして、木造船の技術を継承していた倉橋島の船大工さんにより、倉橋島で作られた。全長25m,幅7m、船底から帆柱の頂までの高さ17m、200トン。船は帆走はせずに曳航されて航行していた。現在は広島県倉橋島の”長門の造船歴史館”の覆い屋の中に入って保存されている。

大瀬崎灯台:明治12年に作られた。200万カンデラという日本一の明るさで海を照らしている。遣唐使船はこの崎を廻って帰国した

空 海

 794年平安京に遷都した桓武天皇は、疲弊しかかった律令制度を引き締め国家を再構築する為により充実した唐の制度と文化を取り得れようとして20年ぶりに遣唐使を企画した。桓武天皇は、奈良仏教を凌駕する為に奈良仏教を否定する最澄に還学僧という資格と多額の金をを与え、書物の入手を命じた。第14回遣唐使(最澄は乗船している)は、803年5月14日4隻の船で難波津を出航したが、5月19日暴風雨に会い、遭難し5月21日引き返し、修理した。最澄は博多に止まり、国東半島で布教をした。
 翌804年6月26日再度難波津を船出した第14回遣唐使船は、筑紫に至り、五島列島の田之浦で風待ちをした後、8月18日に4船一斉に東シナ海に船出をした。すぐさま悪風に遭い、第3船と第4船は漂廻して筑紫に舞い戻って来た。遭難が心配された第1船と第2船は、中国へたどり着いた。空海の乗った第1船は、9月21日福州赤岸鎮に漂着した。しかし現地の官憲と意思が疎通せず、不審船の漂着として酷い扱いをされた。大使より指示された空海は、奏上文を起草した。この文で長安の政府に連絡が取れ、11月18日に迎客使が到着し、遣唐使一行は馬に乗って長安へ旅立った。805年1月31日長安に着き、2月1日朝賀の式に列席した。一方最澄の乗った第2船は、明州に早く着き、他の船の到着を待っていた。27人の入京が認められ、10月11日明州を出発し、11月24日に長安に着いて他の船の使節団の上京を待っていた。なおこの船に乗っていた最澄は、天台山に赴き、、仏法の採取や経典、書物の入手に奔走した。3月18日長安の都を発し、5月9日明州郭外に着いた。福州に残留していた人たちも連絡を受け、船で到着した。805年6月22日第1、第2船は明州を発し、最澄の乗った第1船は7月8日に対馬に着き、帰国した。第2船は7月20日に五島列島に着き、8月3日朝廷に帰国の報告をしている。
 第3、4船は、第1,2船が帰国する少し前に再度難波津を出航し、第3船は805年8月6日平戸島を出航するとたちまち南風に遭い、沈没した。また第4船は、五島の三井楽を出て、806年の9月空海らを乗せて帰国した。空海が留学を1年で切り上げて帰国出来たのは、803年に難波津を発した最澄らが乗った4船が遭難し翌年に再度出航したので乗船出来て、唐へ渡れたのと、第4船がたまたま1年遅れで往復した偶然によるものであり、空海の奇縁であると言われている。もし第4船が806年に来なかったら、次の遣唐使船は838年に来たので、その時空海(835年没)は死んでいたのであった。

西高野山と呼ばれている大寶寺
 701年(大宝元年)に来朝した中国僧道触が上陸したこの地に観音院を祀ったのが由来とされ、その後持統天皇(645〜703年)により勅願寺とされたという。その後第16次遣唐使(804〜805年)と共に入唐した空海が帰朝の際に嵐に会い、大宝の浜に漂着し、大寶寺に滞在していた間に真言密教の護摩法要が挙行された。

明星院
 806年弘法大師が唐からの留学の目的を達して、帰朝の途中福江島に立ち寄り、当山に本尊虚空蔵菩薩を安置してあると聞き伝えて参籠し、祈誓された。満願の朝に明星の奇光と瑞兆を拝され、明星寺と名付けられた。その後五島藩始祖家盛公が領主となって本島を統治するに及んで、代々祈願寺として尊信厚く、五島の真言宗本山として明治に至るまで、末寺20ケ寺を擁していた。1778年に再建された本堂天井には花鳥絵が描かれている。


教会めぐり
井持浦教会
五島の教会の中で最も古いレンガ作りのものだったが、鉄筋コンクリートに改築された。

水の浦教会
1798年に始まった大村領民の五島移住政策に乗じて、仏教徒を装い、安住の地を求めて五島へ移住してきた潜伏キリシタン達は、山野を開き、貧困に耐え、密かに信仰を守り続けたと言われている。1880年(明治13年)現在の敷地内に最初の教会が建設された。1938年(昭和13年)に白亜の木造建築として再建された。



バタモン凧 サンゴ          
 サンゴ採取は昭和初期に最盛期を終えたが、サンゴ工芸技術は今も引き継がれ、彫の深い独特の「五島彫り」mp技法は高く評価されている。現在11業者がある。
五島うどん


五島観光

潮待ちの港・風待ちの港
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