糸島は、玄界灘を挟んで朝鮮半島、中国大陸と接するという地理的条件から、大陸との接点として栄え、日本文化発祥の地である。今から2千年以上も前から、稲作文化を始めとする新しい文化が続々と到来し、この地で花を咲かせたことが証明されている。
邪馬台国論争では欠くことの出来ない『魏志の倭人伝』にある伊都国は、まさにこの地である。伊都国は弥生時代中期を過ぎたころに誕生した。その『魏志の倭人伝』をはじめ、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などの古典において、その存在を求めることが出来る。
紀元前後約200年間伊都国は、前漢、後漢王朝の傘下にあって倭国の中枢として政治、外交拠点となり、おおいに繁栄した。あの有名な『漢委奴国王』の金印に遅れること50年、『107年倭国王帥升(すいしょう)が後漢へ生口160人を献じ、謁見を請うてきた。』と後漢書東夷伝に記されてあるが、この『倭国王帥升』は奴国の隣・伊都国の王ではないだろうか?2世紀末に後漢王朝が揺るぎ始めると、伊都国は後ろ盾を失う。3世紀初頭に倭国大乱を経て、小国の王たちは卑弥呼を共立し、卑弥呼が30の小国の盟主となる。伊都国も邪馬台国に従った。
Q1志賀島から出土した金印には『漢委奴国王』と記されてある。これは『漢の倭の奴の国王』ではなくて、『漢いと(伊都)国王』と読めないだろうか?
Q2『107年倭国王帥升(すいしょう)が後漢へ生口160人を献じ』とあるが、生口160人は何処から連れて来たのだろうか?
魏志の倭人伝では、『伊都国に着く。代々王がいるが、みな女王国に属している。帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する。』、また『女王国より北には、一大率(邪馬台国から派遣された軍の総司令官的な役職)という指令官を置いて、諸国を監視させている。諸国は指令官を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、』と記載されている。このことを裏づけるように、3つの王墓が見つかっており、王都は三雲、井原遺跡と推定され、発掘中である。王墓から出土した銅鏡の大きさと数は、共に日本一である。一貴山銚子塚古墳からは、魏の皇帝から卑弥呼がもらった100枚の(同笵鏡議論)三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)が8面出土した。また伊都国が邪馬台国連合の中心的な国であり、大陸と倭国諸地域との対外交流の拠点的存在であったことも証明されつつある。金印(汝を親魏倭王となし、金印紫綬を与える。)、銀印(難升米には率善中郎将を牛利率善校尉という位を与え、銀印綬(青い組みひも)も与えるとしよう。)が発見されるのも時間の問題であり、伊都国こそが邪馬台国であり、平原遺跡が卑弥呼の墓であると確定される日が来るかも知れない。
邪馬台国の出現をもって弥生時代は終焉に向い、大和政権が誕生し、倭国は古墳時代に突入する。
西日本(瀬戸内海沿岸から呼子にかけて)では、神功皇后の三韓征伐の伝承がたくさん残っている。伊都国にも残っている。神功皇后とは卑弥呼かも知れない?いや宗女壱与かもしれない?神話にしては遺跡が多すぎる。今後の夢とロマンの謎解きである。
魏志の倭人伝には、卑弥呼が魏の国に外交文書を送ったことが記述されていることより、伊都国の王は日本でいち早く文字に接したと考えられる。近い将来、伊都国から文字の使用を証明する遺物の出土も期待される。
古墳時代になると、ヤマト王国によって国造りが進められた。この時代には数多くの古墳が造られ、特に前方後円墳は、その型や大きさによって、地位の違いを表現している。畿内に比較して小さく数も少なくなる。その背景には、大和王権と朝鮮半島との往来に、それまでの対馬、壱岐、伊都国ルートではなく、朝鮮半島と畿内を直接結んだ瀬戸内海ルートが利用されるようになったのではないだろうか?一方須恵器やカマドが大陸から伝えられ、固くて丈夫な土器で、ロクロで作られ、窯で大量に生産されていた。
663年百済と倭国連合軍は白村江での戦で大敗すると、新羅の反撃を恐れた大和朝廷は、大化の改新の詔で防人と烽を制定し、ここ糸島に怡土城を築いた。大規模な製鉄遺跡も発見されている。 |
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記録された伊都国の変遷
表 記 |
出典 |
成立年代 |
編 者 |
伊都国 |
魏志の倭人伝 |
3世紀 |
陳寿 |
伊斗村 |
古事記 |
712年 |
太安万侶 |
伊都県主 |
日本書紀 |
720年 |
舎人親王 |
怡土城 |
続日本書紀 |
797年 |
菅野真道 |
怡土郡 |
倭名抄 |
797年 |
源順ら |
絲州太守 |
海東諸国記 |
1471年 |
申叔舟 |
『イト』は3世紀の歴史書である魏志の倭人伝の中に『伊都国』として登場している。奈良時代の古事記、日本書紀には『伊都』と書かれ、以後『怡土』、『絲』、『糸』へと移り変わって来た。 |
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楽浪郡の役割
大陸との交易は、青銅器、貨幣、楽浪系土器などが、ここ伊都国から出土している。前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼした後に、紀元前108年に設置した帯方郡を介して中国系文物が日本へもたらされた。 |
末盧國から望む伊都国, 正面は糸島富士(可也山365m) |
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縄 文 時 代
約2万数千年前の旧石器時代に糸島に住み着いた人達は、石の道具を使って狩などをして暮らしていた。約1万年前になると、土器が製作されるようになった。狩猟と採集によって生活の糧を得ていた縄文人にとって、海と山の豊富な自然資源を持つ糸島は絶好の生活の舞台であった。食料や物資を得るために、海へ積極的に進出した。その結果、縄文後期には朝鮮半島まで含めた広大な交易をネットワークを築き上げ、玄界灘沿岸に華やかな漁労文化が花開いた。食生活が豊かになると共に、土偶などを使った祭りが行われるようになった。臨海部を中心に貝塚が発見されている。 |
弥
生 時 代(伊都国成立前夜)
紀元前13世紀以降、北九州で支石墓・甕棺墓が現れる。近畿地方で方形周溝墓がつくられ、各地に広がっていった。
唐津湾と博多湾沿岸地域。伊都国の曲り田遺跡(縄文時代晩期の集落)、唐津市菜畑遺跡、福岡市板付遺跡では灌漑施設、磨製石包丁、諸手グワ、広グワ、馬グワなどの木製農耕具が出土している。今から2400年前になると大陸の稲作文化が我国に到来する。縄文時代から培われて来た交易圏を礎にして、この地に住む人々は、いち早く大陸の稲作文化を受容した。 |
支石墓(紀元前400年頃、弥生時代初期のものである)
支石墓とは、甕棺に遺体を屈して入れて埋葬した後、地表に大石を据えて墓石としたもの。通常は大石と地表の間に人頭大の支え石を挟んでおり、これが墳墓の名称の由来となった。
支石墓は、朝鮮半島から伝えられた墓制で、糸島から唐津にかけての玄界灘沿岸地域から多く発見されている。被葬者は渡来人であると推定されていたが、考古学的分析の結果縄文人的特徴が強いことが解り、明確な結論は出ていないが、古代の我が国と朝鮮半島の人々との活発な交流を物語っている。
縄文時代晩期に始まった支石墓は、弥生時代前期のうちに消滅していった。 |
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長野宮ノ前支石墓。この遺跡は、弥生時代の初め頃(今から2300年前)の総数40基にのぼる共同墓地でした。この花崗岩の重さは約3トンあり、石下から大きな甕の棺が出土した。 |
石崎曲り田遺跡の支石墓 |
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志登支石墓群
弥生前期から中期に及ぶものである。支石墓は、10基を確認し、1.5m〜2m,厚さ50cmほどの平石上石を数個の支石で支えている。副葬品の石鏃と同じものは朝鮮から多く発見されており、朝鮮との密接な交流が会ったものと推測される。
支石墓は朝鮮半島に多く見られる為に、被葬者な当然渡来人系の人々だろうと推測されていた。また稲作伝来は渡来人の所業であろうと推測されていた。ところが事実は違っていら。支石墓の主体部から発掘された人骨は、例外なく縄文人的特徴を色濃く残していた。、 |
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石崎曲り田遺跡−弥生早期提唱のもとになった稲作開始期の集落跡
注目されるのは、それまで板付遺跡等で知られていた稲作開始期の土器よりもさらに古い土器群(曲り田古式土器)と共に稲作の始まりを裏付ける大陸系磨製石器などの遺物が発見されたことである。
大陸系磨製石器とは、弥生時代の朝鮮半島に源流を求められる石器群のことで、磨製の石斧、石包丁、石剣、石鍬などで、その多くは稲作技術と共に伝わって来たものと考えられている。
この発見により、弥生時代(稲作開始)は500年さかのぼり紀元前5世紀と学会に提唱され、改正されることとなった。 |
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弥生時代前期の8基の甕棺が出土し、復元されている。 |
竪穴式住居30棟、支石墓1基も見つかった。
稲作開始期の集落遺跡である。 |
甕棺墓(紀元前200年頃、弥生時代中期)
弥生時代の北部九州の墓制には支石墓、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓、甕棺墓などがある。中でも大型の甕を棺として利用する甕棺墓は、北部九州に特有の墓制であり、縄文時代晩期の壷棺葬にその起源を求めることが出来る。
甕棺墓は、弥生時代前期末に棺専用としての甕が作られ始めてからは、中期以降爆発的に増加し、100基以上密集して集団墓を形成する場合が多い。しかし弥生時代後期から衰退し、末期にはなくなった。 |
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今山遺跡−弥生時代のブランド石斧製作場跡
標高80m今山は、玄武岩が露出している。弥生時代前期末から中期にかけて、今山遺跡では、この玄武岩を利用して大量の石斧が生産されていた。
一大ブランド品であったと見られ、東は豊前、西は佐賀平野、南は熊本宇土半島までの広い範囲の遺跡から出土している。
石斧生産の専業集団とその統率者が存在していたことが伺える。
三雲、伊原遺跡の首長は広い交易圏を確立し、富を蓄え、権力を高めいった。この遺跡で伊都国が台頭するきっかけを財政面で与えた遺跡である。 |
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大型の蛤刃石斧の製作過程
蛤のような刃をしている。大きい物は2Kgもある。
柄をつけて木を切り倒していたと想定されている。
(伊都国歴史博物館より) |
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伊都国−魏志の倭人伝の世界
後漢書東夷伝に、『57年、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす』とある有名な『漢倭奴国王の金印』がある。それに続く『永初元年(107年)、倭国王帥升(すいしょう)が後漢へ生口160人を献じ、謁見を請うてきた』とあるが、これが帥升に関する史料の全てである。帥升には倭国王とは認めたが、印綬がなされなかった。帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。そのため、帥升が日本史上に現れる最初(最古)の人物とされている。帥升の次に現れる人物は239年卑弥呼である。中国王朝が公認した初の倭国王は帥升だったとし、107年頃から帥升の王統が開始し、70〜80年後の180年〜190年頃に王統が断絶したことになる。ただし、魏志倭人伝に見える男子王を帥升に同定することに否定的な意見もあるが、伊都国王だったとする説がある。 |
魏志の倭人伝(晋265〜316年の陳寿がまとめた書物−日本で文字による記録が残されるのは奈良時代になってからで、3世紀頃の倭国の様子を記録してある唯一の資料である)には、伊都国について、『末廬国に着き、陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。官を爾支(にき)といい、副官を泄謨觚・柄渠觚(せもこ・へここ)という。千戸余りある。代々王がいるが、みな女王国に属している。帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する。東南の方に百里行くと奴国に着く。』と、また『女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。諸国は指令官を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。王の使いが魏の都、洛陽や帯方郡や韓国から帰還した時、また、郡の使節が倭国へ行く時はみな津で文書とか送り物とかを点検し、不足や食い違いがないようにしてから女王のもとに運ばせる。』と記載されている。
伊都国が倭国の外交上の重要な位置にあったことが伺える。すなわち、 @王の存在が記されているのは、伊都国と邪馬台国、狗奴国の3つの国だけである。A伊都国に帯方郡(魏の朝鮮半島南部や倭に対する外交政策の拠点であった)の使者が来た時には、常に伊都国に滞在する。伊都国には迎賓施設があったものと推測出来る。B伊都国に一大率と言う指令官を置いて、邪馬台国連合を監視している。C中国や韓国へ往来する時には、伊都国の港で文書とか送り物の点検をしてから、外国へまた女王(卑弥呼)の元へ運ばせる。 |
伊都国の王都−三雲遺跡
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この遺跡からは、縄文時代から中世にかけての住居や墓などから多くの貴重な遺物が出土している。
伊都国は代々王が統治する王国で、ここが伊都国の王都であり、わが国の中国外交の拠点であったとされる。またここは弥生時代のわが国の都であったといっても過言ではない。このことを裏つけるように、国内各地からもたらされた土器、宝飾品にとどまらず、中国、遠くは地中海沿岸からもたらせれたガラス細工などが出土している。
大量の楽浪土器、三韓土器の出土は、中国や朝鮮半島の人々が生活していた可能性が考えられる。また帯方郡からの使者が滞在した施設もあったと考えられる。
漢字の読み書きが出来る人が既にいたことも推測される。
王墓は平原遺跡と三雲南小路遺跡、伊原鑓溝遺跡に存在が証明されている。
紀元前1世紀から約200年間、代々王墓が築かれ、その繁栄ぶりが伺える。3つの王墓からは、120枚の銅鏡が出土している。その多くは中国製であった。
弥生時代の大規模な集落は、古墳時代に入る直前に衰退、消滅する場合が多いが、三雲、井原遺跡では、古墳時代後期まで存続した数少ない大規模集落だ。 |
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ここは、伊都国最大の集落遺跡である。伊都国の王の墓とされる三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡もこの遺跡群の中に築かれている。
伊都国は弥生時代の我が国の都であったと言っても過言ではない。 |
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三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡 |
築山古墳:前方後円墳 |
世々王あり=王のあかし
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ガラス壁(左)と金銅四葉座飾金具(右)は中国の皇帝が位の高い臣下の死にあたって下賜したものである。
伊都国王と中国皇帝との深いつながりを示す重要な手掛かりとなる。 |
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また銅鏡は2基の甕棺から57面出土している。 |
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2基の甕棺が納められていたが、1号甕棺は盗掘により棺は残っていない。
2号甕棺は全長2.5m,内側は赤色に塗分けられていた。小型の鏡やアクセサリー類が副葬されていたことから、女王の墓と推定されている。
1号甕棺は、大きく、武器類と大型の鏡が副葬されており、王の墓と推定されている。 |
三雲南小路王墓出土甕棺(上甕と下甕) |
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平原遺跡−伊都国の女王墓=もしかして卑弥呼の墓かも?
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1号墓は、周りに溝を巡らす墳丘墓。46.5cmの日本一の大きい銅鏡を含む40面の銅鏡、そしてこれらの銅鏡はすべて割られていた。棺内には大量の水銀朱が詰められていた。そして玉類(ガラス玉、メノウ管玉など)、太刀などが棺内から出土した。ガラス連玉は中国で作られた珍しいもの。メノウ管玉は現在のピアスで漢時代の貴族の女性が身につけていた、日本でただ一つの発見例。メノウ管玉は鮮やかな赤色で朝鮮半島で作られたもの。弥生時代では日本でただ一つの発見例。)。武器が含まれていなく、これらの副葬品から女王の墓と断定されている。 |
平原1号王墓から出土した直径46.5cmの内行花文銅鏡。
銅鏡は王墓である平原遺跡からは40枚、三雲南小路遺跡からは57枚、伊原鑓溝遺跡からは21枚が出土している。 |
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国宝鉄製の素環頭太刀
全長120cm、中国製で海を越えて持ち込まれたもの。 |
国宝ガラス勾玉(まがたま) |
メノウ管玉(くだたま) |
再現した1号墓の墳丘 12m×10mの墳丘の周りには周溝を巡らせる方形周溝墓といわれるものである。 |
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平原遺跡は他の二つの王墓とは、その立地条件、埋葬主体など異なる。墓の17.5m離れた所に直径70cm,高さ20mの巨大な柱が建てられている。それぞれの節目から日の出を拝むと、一連の稲作作業に欠かせない年中行事の時期を表している。単なる墓として築かれたのではない。つまり歴代の王とは違った指導者であった事を示している。
となると、この墓は、誰だろうか?原田大六氏はおおひるめのむち(天照大神)と、またある人は卑弥呼の墓だと唱えている。金印、銀印の発見が待たれる。 |
上鑵子(じょうかんす)遺跡
魏志倭人伝によると、『男は、大人も子供も、皆顔に刺青をして体に文字を書いている。昔夏王朝の少康王の子は、会稽の領主にされたとき、髪を切って、体に刺青をして、咬龍の害を避けた。今の倭人は、魚やはまぐりを捕るために好んで潜ったりするが、体に刺青をするのは大魚や水鳥を追払うための呪いとしている。国によって体の刺青の模様が違う。身分によっても左に右に、あるいは大きく、小さくと差がある。一重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服とする』と記されている。
上鑵子遺跡から出土した人物線刻板(右)は、この男性像に刻み込まれた入墨は、魏志の倭人伝記載文を実証している。 |
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伊都国歴史博物館 伊都国歴史博物館
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伊都国の王墓からの出土品である銅鏡、アクセサリーなどを中心に展示してある。 復元した大鏡 |
伊都国があった時代の全国各地の主な集落の大きさを比べて見ると、三雲井原遺跡がもっとも広い。 |
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道具と物の移り変わり |
山陰(碧石)、北陸地方(ヒスイ)、東海地方(土器)との交流も証明されている。 |
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平原遺跡より出土した日本最大の銅鏡 |
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首飾りをした伊都国女王。男性は袈裟衣、女性は貫頭衣であった |
その国はもともと男子を王(後漢書記載の師升を特定する説もある)としていた。七・八十年前、倭国は乱れ、何年もの間攻撃しあっていた。そこで、(238年)国々は協議して一人の女子を王にした。名前を卑弥呼という。鬼道を行って良く人々を惑わせた。歳はすでに長大であるが、夫や婿はいない。弟がいて政治を助けている。卑弥呼が王になってから、卑弥呼を見たものはいない。千人ぐらいの召使が身の回りの世話をしている。男一人が、食事を差し入れたり、命令を伝えたりするために、出入りを許されている。宮殿には楼閣(たかどの)や、城柵などが厳重につくってあり、警備兵が常に武器を持ち守衛している。
239年6月、倭の女王卑弥呼、使いを帯方郡に派遣し、魏の明帝への奉献を願う。帯方郡の太守、使いを魏の都洛陽へ送る。12月、明帝は詔して、卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を授ける。また銅鏡100枚などを授ける。難升米には位を与え、銀印綬(青い組みひも)も与える。
243年倭王、大夫等を使者に、生口・倭錦などを献じる。12月、魏の少帝、使者を送り、印綬を授ける。
245年魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする。
247年倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と対立していたが、倭の使者を帯方郡に派遣し、狗奴国との交戦を告げる。魏は使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を難升米(なしめ)に与え、檄をつくって告喩する。
248年この頃、卑弥呼死ぬ。径100余歩の冢をつくり、奴100余人を殉葬する。男王を立てるが、国中服さず、誅殺しあい、1000余人が殺されたという。卑弥呼の宗女、壱与(いよ又は台与・とよ)が女王となり、国中治まる。魏の使者は、檄をもって壱与に告喩する。壱与、倭の大夫ら20人に、魏の使者を送らせ、生口30人、白珠5000孔などを献じる(『魏志』倭人伝)。
その後、350年頃大和朝廷が中央政権として国家を統一する。391年倭は新羅、百済を従え高句麗と戦し、朝貢外交を行って行く。 |
志摩町歴史資料館
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志摩半島では多くの製鉄関係遺跡が見つかっている。
青銅とは、銅と錫の合金で、銅だけでは柔かすぎるので錫を14%加えると固くて鋭利な農耕具や武器類になる。記録では692年に因幡と周防から、708年に武蔵国秩父から銅が産出されたとある。後者の献上により元号を和銅と改めたことは良く知られている。しかし青銅器の精錬はもっと古いと思われる。一方鉄製品は燃焼温度が1000度と青銅より高い為に、精錬技術の習得に時間がかかったと思う。
鉄は国家の盛衰を左右するほどの利器であり、その生産方法は一部の人間だけが握っていたと考えられる。その技術が盗まれない為にも森を求めて移動した製鉄の民は、その痕跡を潰していったことも想定出来る。よって製鉄の遺跡は見つかり難い。
鉄を造るには、砂鉄と木炭そして製鉄を良く知る技術集団が必要である。 |
6世紀の倭国の朝鮮政策の失敗を機に、新羅の台頭、660年百済の滅亡、百済再興をの為に白村江で戦うが敗退し、以後、唐と新羅の連合軍に脅えて、政府は国土防衛の為に鉄の生産と兵器調達の命が下った。そしてここは一大官営製鉄工場となっていった。 |
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貨泉は、中国で紀元前14年から紀元40年頃まで鋳造されたお金。このお金が日本で初て御床松原遺跡から発見された。これにより弥生時代の年代がはっきりした遺跡である。 |
鎮懐石(ちんかいせき)八幡宮
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九州最古の万葉歌碑。この歌は山上憶良が筑前国司として赴任していたおり、当時伝説とされていた鎮懐石がここにあることを聞き、感銘した詠んだとされている。
1859年中津藩の儒学者日巡武澄によって書かれたものを刻んだものである。 |
鎮懐石とは、神功皇后が百済を救援するために新羅攻略に出兵する際に、応神天皇を懐胎しながらこの地を通って新羅へ向かって兵を出された。卵形の美しい石2個を肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られた石。願いは叶って帰国後宇美にて応神帝をご安産されたのである。そこで皇后はこの石をこの丘の上に拝納されてより、世人はその奇石を崇拝するようになった。 |
宇美神社
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上宮と本宮があり、上宮は神功皇后が大臣武内宿称に命じて仲哀天皇の陵を築かせ、棺を納めたとする。本宮は神功皇后が三韓へ渡航中の船上に現れた新羅の神を、帰途に当山に奉ったとする。
宇美八幡宮本殿を中心にして南北に伸びる丘の上に総数14基の古墳が築かれており長嶽山古墳群という。 |
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3世紀後半古墳時代
西日本を中心とする国内の勢力が一つにまとまり、大和政権が誕生すると、古墳時代の始まりである。糸島地方では、大小60基ほどが分布している。大和盆地の古墳から出土する木製埴輪が、糸島からも出土することは、被埋葬者と大和政権との関係を証明している。また埋葬品から、玄界灘を舞台とした大陸との交流も証明されている。
4世紀の終わりころになると朝鮮半島から横穴式石室という新しい埋葬手法が伝わった。これは石室の横に出入り口が設けられ、何度も追葬が出来るようになり、糸島ではこの石室の作り方をいち早く取入れた。その後周辺地方に広がり、6世紀になると我国では横穴式石室が主流になった。 |
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長嶽山(ながたけやま)古墳群
宇美八幡宮周辺には14基の古墳が築かれている。今から1400〜1600年前にこの一帯を治めていた首長の墓所であったと考えられている。 |
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高祖山
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663年百済と倭国連合軍は白村江での戦で大敗すると、新羅の反撃を恐れた大和朝廷は、大化の改新の詔で防人と烽を制定した。
しかし旧百済領をめぐって唐と対立する新羅は、日本に朝貢せざるを得なくなる。そして毎年朝貢していたが、8世紀になると唐との関係が好転すると、新羅は日本に対して対等を要求し、737年には遣新羅使が冷遇され、征新羅論も起こる中753年には新羅国王が遣新羅使に会見せずに帰国させられた。758年新羅征討計画が発議された。この状況下で756年から12年の歳月をかけて、吉備の真備が責任者となって怡土城が築かれた。 |
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深江駅家(塚田南遺跡7〜8世紀後半)
律令制を導入した中央政府は、二つの大きな問題に直面する。一つは、国際紛争の緊張、もう一つは国内の地方統制である。これらを包括した体系的な通信手段として制定されたのが、『駅伝制』と『烽制』である。
奈良時代を前後して、都と各地との連絡体制を整えるために駅伝制を敷き、各地に駅路(えきろ)と駅家(うまや)を設置した。全国に張り巡らされた官道(駅路)に沿って置かれた役所である。駅路には30里(16Km)ごとに駅馬(えきま)を常駐した駅家を設置していた。緊急を要する事態が生じた場合等は、疲れた駅馬を新しい駅馬へと乗り継ぎながら情報を伝達していた。また駅家は、沿岸に到来した外国からの使者をもてなす宿泊所としても用いられた。
一般民衆の通行は禁止され、国司の許可を得たものだけが通行を許可された特別な道路であった。 |
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直線的な幅6mの両側に側溝をもった古代道路(7〜8世紀後半)とそれに沿って建てられた巨大な柱穴を持つ掘立柱建物跡群等が見つかったことから、万葉集にも記載されている『深江駅家』跡であると推定されている。 |
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二丈町ホームページ |
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