1大陸文化の倭国への中継地
2国境の悲運と宗氏の功績
3朝鮮通信使
4要塞の島・対馬
風待ちの港
潮待ちの港 対馬N01
風待ちの港

 古くから大陸文化は、朝鮮半島から対馬を経由して運ばれきた。また対馬は、外敵の侵略を受けた受難の地にもなった。対馬の先住民は大陸から歩いて、また弥生人は49Kmの対馬海峡を船で渡って来た。国境の無い時代、対馬の人々は自由に海を渡り朝鮮半島と往来をして、生活をしていた。
 57年〜266年後漢書と魏志倭人伝に出てくる邪馬台国から中国皇帝への朝貢に行く人達が通過し、倭軍は391年〜任那へ進出し、新羅と戦い、そして663年百済が滅亡すると、大和朝廷の朝鮮半島からの撤退する倭人と疎開する百済の人々が通過し、607〜614年遣隋使、630年第1回〜667年第5回遣唐使、668〜779年新羅使と遣新羅使も往来した。
 このような歴史を見て来ると、大和朝廷は、自らの過去を否定した国書を作ったことが想像出来る。古事記(712年)や日本書紀(720年)には、今、日本を支配しているのは朝鮮半島からの移住者ではなく、高天が原から天下りした神々の子孫であると断言し、朝廷(天武天皇)の強力な支配体制の確立により、朝廷の意図した意識改革(聖徳太子の”篤く三宝を敬え”式の仏教興隆政策を改め、仏に代えて神の概念を樹立し、天照大神を天上界の最高の神に祭りあげ、日本を統一する天皇の権利は天照大神から授かったものとして、歴代の天皇はその神の血統に連なるのもである)を進め、創作は神話に昇華したようだ。
 対馬は、室町時代1441年から1971(明治4)年まで倭館を釜山に置き対朝鮮外交と朝鮮貿易で活路を開いた島でもある。朝鮮通信使(1607〜1811年12回)は対馬藩の尽力により実現し、対馬藩は江戸までの先導役を勤めた。日韓両国の狭間で苦悩し続けた対馬藩主の国書の改ざんや、それを支た雨森芳洲と釜山訓導の玄徳潤の二人が導き出したものは、『誠信の交隣』であった。
 一方、国境の島の悲劇は、894年新羅の賊船100隻2500人が佐須浦に攻めて来た。1019年刀伊の入寇や、元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)と呼ばれる蒙古軍の襲来、1419年には李氏朝鮮軍の応永の外寇を受け、一時的にせよ占領され、壊滅的な被害を被った。1861年には、ロシア艦ポサードニク号が半年にわたり、不法に占拠した。
 一方秀吉の朝鮮出兵(文禄1592年、慶長1596年の役)や朝鮮併合と称した植民地支配(1910〜1945年)など朝鮮国民から怨まれても仕方がない行為をして来た。
 明治時代には、勝海舟、初代朝鮮総督伊藤博文、皇太子の大正天皇も対馬に立ち寄っている。日露戦争では、第3艦隊旗艦・厳島は対馬から、水雷戦隊は万関運河を通り出撃して、バルチック艦隊を1日にして撃沈させた。戦前には、軍縮条約により巡洋艦赤城の40cm連装砲塔が豊砲台に、竜ノ崎砲台には戦艦摂津の30cm連装砲塔が設置された。そして太平洋戦争中は、対馬は軍事要塞の島と化し、約1万人の兵士が駐屯した。よって島の地図は超軍事秘密として公にされることはなかった。
 第2次世界大戦後、日本人は韓国を憎むようになった。その理由は第1に、李承晩政権(韓国初代大統領、1948〜1960年在任)が徹底した反日教育を国民に実施し、『反日』、『悔日』を基本政策としたことにある。第2は1952(昭和27)年悪名高き李承晩(韓国では平和と呼ぶ)ラインである。これは一方的に公海上に線を引き、対馬と竹島の占有を主張し、公海での韓国籍以外の漁業を禁止した。1965(昭和40)年に廃止されるまでに、日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶は328隻、死傷者は44人にも達した。
 対馬は、『山険しく、深林多く、良田無く、、、』と記されているように開発が困難であり、また基地の島、秘密の島として開発と公開が遅れている。現在も国境の防備の要として、陸海空の自衛隊約700人が日夜警戒を続けている。平成16年3月1日一島一市体制が敷かれ、対馬市が誕生し、40,031人(平成17年6月末)が暮らしている。それゆえ、日本文化のルーツを知る歴史や遺産が数多く残され、正に歴史の宝庫と言える。

 博多と釜山は玄界灘を隔てて、約200Km。対馬は博多港から138Km,釜山から50Km,対馬海流は3ノット(5.6Km)/時で北東へ流れている。晴れた日には、対馬の北側から朝鮮半島の山々や建物を望むことができる。この海は壱岐、対馬を挟んで常に陸地を見ながら安全に航行出来る航路であった。対馬は、魏志の倭人伝、古事記、日本書紀にもその名を記され、また鎖国下の日本で幕府からも国際貿易を公認されるなど古くから大陸との中継地としての役割を果たして来た。
  対馬は、佐渡、奄美大島に次ぎ日本で3番目に大きな島。東西18Km,南北82Km、面積708Kuの本島と大小107(有人4)の島々からなっている。島は、89%が山林で、急な深い山々が連なって海岸まで続き、大陸系の動植物が生息している。
 

対馬空港へ
福岡空港からANAボンパルディア74人乗は30分で対馬空港に着く。懐かしいプロペラ機だ.
 対馬へは、福岡からANAが1日6往復
厳原へは、博多港から九州郵船のジェットフォイルが2往復と、フェリーが3往復運行されている。博多港からの客は殆どが壱岐で下船して、対馬まで来る観光客は僅かである。
釜山からも高速艇が就航して、1時間で対馬に着く。
 空港に着き異常に思えるのは、日本語とハングル語の説明看板だ。島内の案内板は日本語と英語では無く、韓国語で書かれている。
 日本人観光客の数倍の韓国人観光客がいる。どこか変だなあ、、着ている服装の色彩感覚が違うと思っていると、孫曰『爺ちゃんあの女の人、男座りをしているよ、あっちの人は片足を立てて座っているよ』とか『言葉わからないねえ』と言う。韓国観光客の多いのに驚く。『厳原のホテルの宿泊客は、私達以外は全部韓国人ですよ』とJTBに云われたのを思い出した。
 対馬では、より韓国との親密さを増すように努力していることが案内板や地元発行の本で解るが、島外者からは少し異常な対応に映る

先史時代
 対馬の誕生
 対馬は、3〜4万年前大陸と陸続きであった。その後、東シナ海がだんだん浸入してきて、およそ1万年前に氷河期が終わり、地球の気温が上昇し始めると氷河が溶けて、現在の朝鮮半島と日本列島との間が切れて、それまで大きな湖であった日本海が東シナ海に通じた。この時、対馬は島として誕生した。
 現在と同じように温暖湿潤なモンスーン気候が広く日本列島を覆った。各地に実り多い恵みをもたらす森林が発達した結果、陸海のさまざまな食料資源を活用し、豊かな文化を育む縄文時代人の生活が始る。
 縄文時代
 約1万2000年前から、水田稲作農耕が始まる約2300年前までの、採集経済のもとで定住生活をおくった時代を「縄文時代」と呼んでいる。対馬では、上県町の志多留貝塚や峰町に佐賀貝塚などがあった。
 弥生時代
 およそ2300年前に中国や朝鮮半島から渡来してきた弥生人は、長く平坦な顔で、大柄な身体つきをしていた。彼ら渡来系弥生人は、九州北部から日本列島各地に広がり、縄文人と混血しつつ、本土人の主体を形成した。
 弥生時代になると人口が急増するが、これは海を渡って来た渡来人の移動を物語っている。彼らと共に渡来した文化は、在来の縄文文化と融合して、弥生文化を生み出した。
 中国の金属器は土地を耕したり、水路を溝を掘ったり、山間にも田を開くことが出来るようになった。水田稲作技術は、食生活だけでなく、日本人の意識をも変えていった。
 青銅の鉾と鉄器は対馬島内各地の遺跡で発見され、三根浦や仁位浦に遺跡が多く分布しており、上対馬町の塔ノ首遺跡や豊玉町の住吉平貝塚などから発掘されている。根曽古墳群は5〜6世紀の3基の前方後円墳と2基の円墳かある。
 魏志の倭人伝
 『三国史・魏書・東夷(東の未開人国)・倭人の条』(280年〜290年に書かれたとされている)には『倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗(ひこ)と日い、副を卑奴母離(ひなもり)と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき:商売をして米などを入手して暮らす)する。』と記載されている。
短い文章ではあるが、対馬の特色を良く描写している。
 対馬は、農地が極めて少なく平成15年の統計調査によると、耕地面積は1014ha、総面積の1.4%、農家戸数は1604戸である。対馬市の島内自給率は米が42%、野菜41%と、島外に依存している。『船に乗りて南北に市糴する』は、昔も今も同じである。。
またここに書かれている対馬の王都は、まだ特定されていない。



          青梅の里(三根町)
 空港には レンタカーが待っていた。 車を運転中、道路に”とんび”が多い、飛んで逃げないのでひきそうになる。孫たちは、『トンビ逃げろ』とか『トンビを追っかけろ』とか叫んでいる。そのうち”高麗きじ”もいた。
 魏志の倭人伝のとおり、国道とて1車線のところもあり、国道を外れると『土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径の如し。』であった。自動車が厳原〜上対馬間で通行可能となったのは、昭和43年であり、この道路が、対馬唯一の国道382号線に昇格したのは、昭和50年であった。
 何故、このように開発が遅れたのであろうか?平成15年度までに対馬への補助金は、離島振興事業費4兆2935億円、またまちづくり推進総合支援事業費も交付されている。離島振興法に基づく交付金は何に使われたのだろうか?道路よりも、水産基盤に使われている。
対州そばは、ネパールのそばと類似しており、日本に伝わって来たもののうち、もっとも起源型に近いと推測されている。そばの作付面積は87haで年間収穫量は26tしか採れない
田畑が少ない対馬では、段々畑の様子は、ここでしか見られない。
 30mを越える断崖絶壁、よく手入れされた段々畑はその背後に広がる荒々しい海とのコントラストが美しい景色を見せる。また、この集落には両墓制という珍しい習俗があり、海岸に「埋め墓」お寺に「拝み墓」と二つの墓が造られている。


烏帽子岳展望台からを望む浅茅湾
360度の展望は幾重にも重なる山々、海に浮かぶ無数の島々、リアス式海岸の波静かな海、その眺望は雄大で美しい。


浮御堂をイメージした韓国展望台(上対馬町) 異国の見える丘展望台
 鰐浦は、対馬の最北端に位置し、朝鮮への船泊まりとして知られ、改番所としての役割をもっていた。
 今もなお対馬北部の漁業基地として活況をていしている。この周辺は最高級のウニ、アワビ、サザエ、ワカメなどの好漁業である。
 港には国の天然記念物の『ヒトツタバコ』が群生し、5月には白い見事な花を一斉に咲かせる。
 千俵蒔山を周回するようにアジサイロードが走り、その峠付近に展望所があり、海上に広がる大ハパノラマは壮大で、漁火や気象条件しだいでは釜山市の町並みをはっきりと見ることができる。

韓国展望台から釜山を望む
       韓国(釜山)の夜景(観光ガイドブック対馬より転写)
手前の島は日本防衛の最前基地である海栗(うに)島。島全体が航空自衛隊のレーダーサイト基地である。航空自衛隊第19警戒群(全国に28カ所のレーダーサイトで監視を行っている。)基地は、今日も監視を続けている。100人以上の隊員が勤務し国の所管になっている。350Km(朝鮮半島の半分)をカバーし、ソ連機を主に監視し、ここの情報は、福岡春日基地にある西部航空警戒管制団に送られ、築城新田原からスクランブル戦闘機が発進されている。

女連(うなずれ)の海岸。

左は、琴の大銀杏
   樹齢1500年と言われ、幹のまわりは14.2m、高さ40m


大和朝廷と対馬
5世紀のアジア
加羅カラ)は、古くは、伽耶もしくは任那東部の日本及び中国における呼び名で、現代は韓国でも使われる。しかしながら、史書では任那と加羅を分ける事も多く、別の国であるか、任那と呼ばれる地域の一国であった可能性が高い。
三韓 弥生 57 倭の奴国が後漢に朝貢し、印綬を授けられる。(漢倭奴国王)
2世紀 塔の首遺跡(石棺群)
247年 邪馬台国卑弥呼没する。
三 国  時  代 古  墳 350年頃 大和朝廷が中央政権として国家を統一した。
対馬は国に準ずる扱いを受け、対馬国と言われた。
391年 倭は新羅、百済を従え高句麗と戦う
418年 新羅国使殉難の碑
5世紀中期 曾根1号古墳(前方後円墳)。朝日山古墳(上対馬町)
538年 百済より仏教伝来
589年 隋が南北朝を統一し、高句麗に出兵
 飛  鳥  時  代 600年 境部臣を大将軍とした新羅遠征軍が新羅を撃破する
608年 遣隋使として小野妹子を派遣〜614年まで4回全て対馬に停泊
630年 遣唐使(669年5回まで対馬を経由)対馬に停泊
646 大化改新の詔
660年 唐は13万の軍を派遣し、新羅軍と連合して百済を滅ぼす
662年 百済王子豊しょうを日本より百済に返し、援軍をもて再興を
663年 百済支援に向った日本の水軍は、白村江で唐、新羅連合軍と戦って敗れ、朝鮮半島から撤退した。
664年 唐、新羅が逆に日本を攻撃する危険が生じ、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽(とぶひ)を配置した。対馬に烽台を8カ所設置
668年 新羅は高句麗を滅ぼす。新羅使、遣新羅使が始まり779年まで続く
667年 対馬に金田城を築き、防衛、侵攻の最前線基地とした。
674年 対馬厳原町に国府を置く。
統 一 新 羅 676年 新羅統一誕生
701年 対馬で産出したと称する金を朝廷に献上する。 日本最初の金の産出を祝って年号を『大宝』とする。倭国を日本改める
奈良 736年 遣新羅船が対馬竹敷浦に泊し、大使阿倍継麻呂が歌を詠む。
741年 国分寺建立の詔
平 安 805年 第16次遣唐使船に同行の最澄が阿連に帰着
963年 高麗王朝成立
837年 和多都美神に神位が授けられる

古墳時代中期(5世紀)の朝日山古墳群(上対馬町)
    対馬の遺跡
 縄文時代の遺跡は、上県町の越高遺跡、志多留貝塚。峰町の佐賀貝塚、吉田貝塚。豊町の加藤遺跡などがある。
 弥生時代の遺跡は、朝日山古墳群以外に、豊玉町住吉平貝塚、上対馬町塔の首遺跡(石棺群)がある。
 入江に霹靂神社があり、裏山は朝日山と呼ばれている。
 古墳時代中期の漢鏡、鉄の剣、刀、斧、鍬、須恵器などが出土した。金海式土器が学会で問題になったものこの朝日山出土器が知られてからである。

根曽古墳群
根曽古墳群は
け(けち)浦の半島の上に、5〜6世紀の3基の前方後円墳と2基の円墳からなっている。前方後円墳は地域を治める豪族の墓であるが、対馬ではけ知浦地区に集中していることは、日本書紀にある『対馬県直』一族の本拠地として重要な位置に有ったことを物語っている。


418年新羅国使殉難の碑
 東アジアが激動の時代であった5世紀初頭、倭国と新羅国は通交関係にあり、新羅は親善の為に奈勿王の子末斯欣を倭国へ送ったが、その後この王子の帰還を要請して、王使毛麻利叱智を倭国に派遣した。418年王子末斯欣と新羅国使一行が帰国の途中、対馬の上県町の佐護湊においてトラブルが起こり、毛麻利叱智は、王子を無事帰国させたが、自身は捕らえられ、使命に殉じて果てたとされている。この毛麻利叱智の忠節を称えた殉国碑。


538年梅林寺
  梅林寺
  538百済の聖明王が仏教、経典を伝えた仏教公伝ゆかりの地に建立された古刹。
 この寺は南北朝時代に造られた。貴重な大般若経597帳があり、また統一新羅時代末期の製作と云われる古い仏像がある。
 1443年朝鮮との通行条約が結ばれ、日本から朝鮮へ渡航する者は、対馬藩主の文引(出国ビザ)を必要とし、この文引を発給する事務を行ったのが当寺であった。



663年金田城跡                                 
  海原渡る 父母をおきて 大君の 命かし
こみ 磯にふり
 天智2年(663)日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた倭国は、大陸からの侵略に備え、浅茅湾の南岸にそびえる城山に朝鮮式山城・金田城を築き防衛の拠点とした。
 この城に防人が常駐し、有事の際は島民と食料を収容して防衛に徹することを使命とした。対馬の防人たちは、遠く東国から徴兵された若者達で、彼らの任地で詠んだ望郷の歌が、万葉集第20巻に多く収められている。万葉集第20巻防人の歌4328
 標高276mの山頂は天然の絶壁で、浅茅湾に面した山の中腹に高さ2〜5mの絶壁が、5Km余りにわたって残っている。明治33年山頂付近に砲台が築かれた。昭和57年3月、県内で最初に国の特別史跡に指定された。
     →城山と浅茅湾。 右上は現存する三つの城戸とそれを取り巻く石塁がよく残っている。

案内板には、日本語と韓国語で書かれている。
 664年大化の改新の詔で防人と(とぶひ)を制定した。
千俵蒔山 
 新羅の反撃を恐れた大和朝廷は、664年大化の改新の詔で防人と(とぶひ)を制定した。対馬には烽を6カ所設置した。
 千俵蒔山がその烽火リレーの起点であった。
朝鮮海峡に異変を発見すると、山々をリレーして壱岐、肥前、筑紫を経て太宰府へ知らされる仕組みになっていた。
 烽とは狼煙のことで、昼は煙を、夜は火の光によって危急を知らせた。使船の来航は1炬、賊が来た時は2炬、200隻以上の賊は3炬を放つと決めていた。対馬の狼煙を、壱岐へ、そして筑紫へと伝えられる。

 対馬では珍しく、全山草地でおおわれ、その昔、朝鮮から対馬に向う船の目標になった という。

 現在は、高いアンテナが立っている。海上保安庁のデッカ局だ。航行中の船舶に位置を知らせるための電波を送っている。風力発電所の2機の風車が、自然にやさしいエネルギーを生み出しています。

棹崎公園
 怒涛に切り立った断崖の上に建つ、日本の最北西端の碑と烽(とぶひ)
 韓国まで49.5Km

 近くには、対馬野生生物保護センターが設置され、平成15年12月にはツシマヤマネコの一般公開が開始された。



和多都美神社  
 波静かな入り江に立つ鳥居は、竜宮伝説そのものであ。海神神社の一の宮として、遠く神話の時代、彦火火出尊が失った釣り針を求めてこの海宮を訪れ、豊玉姫と結ばれたと伝えられている。
 本殿正面の、波静かな浅茅湾の入江に立つ大鳥居は、海の干満によりその様相を変え神秘の環境の中にある伝説の神社である。
祭神である豊玉比売命。その姿は龍蛇の女神。
全部で5本の鳥居が建っている。満潮時にはこのように鳥居の土台が海に沈み込み、境内のそばまで海水が流れ込んでくる。。 和多津美神社の神殿。

銅造如来座像(統一新羅時代、8世紀)
    黒瀬観音堂。
 この中に統一新羅時代(8世紀)に造られた渡来銅造如来座像がある。
 法衣を左肩にかけて右肩を脱し、左手は胸前で掌を外に向けて、蓮華座に座った如来座像で、形容は阿弥陀仏と思われる。像は火災にあって割れや歪曲が甚だしいが、8世紀新羅金剛仏中最高の出来栄えを示すもので、このような作例は外にはない。
美津島町教育委員会より転写
736年遣新羅使

 新羅使は668〜776年、38回、遣新羅使は27回(対馬百科による)派遣されたと言われている。(対馬百科より)
 万葉集には、遣新羅使の対馬にかかわる歌が第15巻3697〜3722ある。
 その中でも、736年遣新羅使大使となった大使阿倍継麻呂が、浅茅の浦で船が停泊した折りに詠んだ歌が、有名である。
 
秋されば 置く露霜に 堪えずして 都の山は 色づきぬらむ
竹敷の黄葉 我きて帰り来るまで 散りこなすゆね
(副使である大伴三中)
 同使節は、難波を4月に発ち、瀬戸内海で夏を迎え、唐津から壱岐へ渡った時は秋だった。通訳の雪連安満が天然痘の為に急死し、ここ小船越を越えるころには晩秋になっていた。新羅までたどりついたが、外交的には何の成果もなく、翌年春1月に奈良に帰国したが、大使阿倍継麻呂は帰路対馬で死亡した。この間、三度の嵐に遭遇したり、痘瘡(天然痘)の流行があり、一行のなかにもかなりの病死者が出たと想像され、全く不運な旅であった。
(観光ガイドブック対馬より転写)

大祝詞(ふとのりと)神社
     太祝詞神社
 祭神は、雷大臣命(いかつおみのみこと)とされ占いの神様(ト神)。
 太祝詞神社は奈良や京都にもあると言う。本社は対馬のここで、対馬の占い(亀ト)が大和に伝わったと云う。加志の地では亀卜を行っており、都で占卜(せんぼく)が行われる時、対馬から10人、壱岐から5人、伊豆から5人が神祇官として招かれたという記憶が残されている。

海人神社
 
 海の守護神豊玉姫命を祀り、対馬国一の宮の称がある。
 平安時代の『延喜式』に記載された社格のいわゆる式内社として知られている。

 宝物館には国指定の重要文化財の銅造如来立像を始め多くの貴重な遺物や文物を収納している。
 また、対馬の一の宮「海神神社」のある木坂は、神地として往古より著名であり、八幡宮の起源は対馬とされている。
(観光ガイドブック対馬より転写)



741年国分寺建立の詔
 国分寺は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国を守ることを目的に建てられた官寺の一つである。
 山門は対馬隋一の四脚門で、文化4年(1807)の建立。 これは徳川家斉の将軍襲職を賀す朝鮮使の聘礼式が、対馬府中で挙行されることになり、国分寺に客館が新築されたので、このとき山門も同時に建立されたものである。その費用は幕府からの下賜金により、藩の公費で賄われた。
 客館は明治になって解体され、国分寺は火災で炎上したが、山門だけは類焼を免れたもので、江戸後期(化政時代)の建築様式をよく留めている。

805年遣唐使
          805年6月5日第16次遣唐使に同行した最澄が阿連に帰着した
607年小野妹子を正史とする遣隋使が初めて派遣された。その後遣隋使は3回派遣されたが、全て対馬を通って朝鮮半島へ渡り、そこから黄海をを渡って中国に行った。
隋が滅び、唐が興ると、630年の第1回遣唐使から665年の第5回までは、対馬を経由するコースが取られていた。

1大陸文化の倭国への中継地
2国境の悲運と宗氏の功績
3朝鮮通信使
4要塞の島・対馬
潮待ち・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐末盧国伊都国相島赤間関・中関・室積上関沖の家室津和地蒲刈御手洗・鞆ノ浦塩飽本島下津井牛窓赤穂室津兵庫津