瀬戸内海地方は、昔から我が国の政治、経済、文化等の分野でいつも先進的な歩みを進めて来た。この大きな要因として、外国の文化が、主として瀬戸内海を通って、大和地方や、京都、江戸へ伝えらて来た。瀬戸内海は、4つの海峡(2つの海を連絡する狭い海)すなわち、関門海峡、豊予海峡、紀淡海峡、鳴門海峡を通り、干潮から満潮まで鞆ノ浦に向かって潮が流れ込んで来る。また満潮から干潮にかけては鞆ノ浦から潮が4つの海峡に向かって流れ出る。潮待ちとは、潮流を利用して航行する船が潮流の向きが変わるのを待つことです。各地に潮待ちの港が出来、歴史に残る出来事により潮待ちの港は益々発展しました。その主な出来事は、大和王国による朝鮮出兵(396年高句麗に破れる)、任那(みまな)統治(390年頃〜562年新羅により滅ぼされた)、遣隋使(607〜614年3回)、遣唐使(630〜894年16回、804年空海、最澄も唐へ)、平清盛日宗貿易(1172年)、屋島の合戦、壇ノ浦の戦い(1185年)、元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)、明との勘合貿易(1404〜、1483年大内氏が〜1551年)、厳島の戦い(1555年)、秀吉の朝鮮侵攻(1592年)、朝鮮通信使節(12回、通信とは信義を通じ合う))、琉球慶賀使と琉球謝恩使江戸上り(18回)、出島のオランダ商館長の江戸参府(166回)、北前船(1638〜1900年)など数えばきりがありません。
これらの潮待ちの港を訪ねてみました。 |
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瀬戸内海の主要航路
1.陸地沿いの地乗り航路:瀬戸内海では一日に2回の干満があり、6時間毎に潮流が逆転する。逆潮を避けるためにまた潮に乗るために潮待ちの停泊があった。そのためには、陸地沿いや島々の間を通り、かつ潮流の速い山陽沿岸(大畠の瀬戸、平清盛が開いた音戸の瀬戸)沿いが東西を結ぶ幹線航路に選ばれた。そして潮待ちのためには一定の距離毎に港が出来た。赤間関(下関)、中の関、室積、上関、沖の家室、津和地(松山市)、蒲刈(三ノ瀬)、尾道、鞆ノ浦、下津井、牛窓、室津、兵庫、大阪への航路が主流となった。航行は、潮の流れと櫓、帆を漕いで進んでいた。
2.沖乗り航路:
沖乗り航路は、江戸時代の17世紀後半になると、木綿帆が使われるようになると、帆走能力が高まった。それによって潮流の穏やかな沖合を多少の逆潮でも風さえよければ、航海することが可能で、沖合を一気に駆け抜けることになった。上関から沖の家室、津和地(松山市)、御手洗、鼻栗瀬戸(伯方島と大三島との間)、岩城、弓削瀬戸から鞆ノ浦へと往来するもので、瀬戸内海のほぼ中央を航行する。
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日本と朝鮮
633年、白村江(はくすきのえ)の戦いで倭国と百済同盟軍が唐と連合した新羅軍に破れ、百済が滅亡した。その後、日本は唐と関係を深め、日本と新羅(朝鮮)との関係は途絶えていった。
周防の国の大内氏は独自に朝鮮との外交権を有していた。
平清盛は、日宋貿易により莫大な利益を得て、平家の勢力を拡大した。航海安全を祈願して宮島を建立し、音戸瀬戸を開削した。
1404年3代将軍足利義満によって両国の関係が再開された。
室町時代には、6回にわたって使者が来日した。来日の理由は、倭寇禁止の要請、日本の要請に応じて大蔵経や諸経を贈呈、北方より侵入する後金の圧力に対し南方日本との和平保持などが目的だったようです。
1592年天下を統一した豊臣秀吉は、朝鮮に侵攻したが、秀吉の死により撤退した。
徳川家康は、対馬藩に朝鮮との和平交渉を命じ、1607年467名の朝鮮外交使節団が初めてやって来た。以後、朝鮮通信使は徳川幕府の将軍がかわる度に、1811年まで来日した。 |
朝鮮通信使 (対馬アリラン祭り、朝鮮通信使行列VTR)
は、1607年から1811年まで12回来日した。初期には、回答(幕府の使節派遣に対する回答)兼刷還使(秀吉の朝鮮出兵の時、連れて来られた捕虜を連れ帰る)と云われ、第4回(1636年)から通信使(信義を通じるの意)となった。幕府は老中を総責任者とし、沿道の各藩に最大限の饗応をするように指示した。通信使に投じた費用は、毎回百万両にも上り、動員された人足は33万人とも言われている。首都漢陽(ソウル)を出発し陸路を釜山へ、釜山を出航した後、対馬、壱岐を経て、筑前の相島、赤間関(下関)に到り、そこから瀬戸内海に入り、(室積)上関、(沖の家室)、蒲刈、(尾道)、鞆ノ浦、牛窓、室津、兵庫の港で接待を受けながら、大阪に上陸し、川御座船に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀から陸路江戸に向かった。この航路が、江戸時代の公定の航路とされていた。通信使の一行は300人から500人で、釜山から6隻の船に分乗し舟人の漕ぐ力と帆に受ける風と潮の流れを駆使して遥かな海を渡って来た。それに先導役の対馬藩、迎接担当の諸藩の藩士を含めるると1000人を越える人が寄港地に滞在した。そのために各藩迎接の為の施設を整備することが求められ、どの藩も威信と名誉をかけて、既存の施設の増改築や新築がなされた。日本各地では、世界文化の最先端を身に触れることの出来る文化交流使節として歓迎され、今の公共事業に近い効果があった。今でも当時の行列を再現するものや、踊りなどがお祭りとして受け継がれている。小泉総理は『中近世になって、韓国の文化の高さを日本に知らしめたのは、15世紀から19世紀の長きにわたて続いた朝鮮通信使でした。 江戸時代には、朝鮮通信使が江戸まで往復する六ヶ月の間、各地で日本の儒学者や文人、画家、医者などと交流し、当時の我が国の文化人や庶民達に大きな影響を与えたのです。』と2002年3月22日演説している。
疑問点
1.学校では朝鮮通信使を習った記憶がない。何故だろうか?
2.1607年に開始された朝鮮通信使の目的は何か? |
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歴史的背景:豊臣秀吉は、朝鮮半島に兵を送って、1592年文禄の役、1597年慶長の役(朝鮮征伐と習った)戦争をしたが、1598年秀吉が死亡すると、撤退した。よって日朝関係は最悪の時代であったはずだ。
日本側の情勢:朝鮮との貿易に藩の命運をかける対馬藩は、秀吉の朝鮮撤退後交易の再開を求めて積極的に朝鮮に使節を派遣している。また1600年関が原の戦いに勝利した徳川家康も幕藩体制の確立には諸外国との対立は避けたいと考え、対馬藩の交渉を認め、日朝関係の安定を図った。回答使と云う呼名から、日本側からの国交回復を求めた働きかけに対する回答使であったことが伺える。
朝鮮側の情勢:朝鮮半島では、北方の女真族(後に明を滅ぼし清を建国した)が勢力を伸ばしつつあり、南北から挟み撃ちにされそうで、南方の日本との関係を修復したいと希望していた。秀吉の苦い経験から、日本国の情勢観察(スパイ)と云う指命もあった。
第2回(1617年)朝鮮通信使復路”扶桑録”によれば、『捕虜になった全開金という人が来て、12、3才の時に捕虜になって日本に来たというが、、再三言い聞かせ、、、その地に妻子がいたり、財産があったりして、既にその生活が安定している者たちは、帰る意志が全くなく、憎むべきことである』と記載されてある。萩焼のしおりには、『一楽、二萩、三唐津といわれ、茶陶として支持されてきた萩は古くは16世紀に毛利輝元が文禄慶長の役に際して朝鮮から連れて帰った陶工李勺光兄弟が始めたといわれます』と記載されてある。また刷還使と云う呼名からも秀吉の朝鮮撤退の時に連れて帰った捕虜、出稼ぎ者の発見と朝鮮への帰国が目的の一つであった事が伺える。 |
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琉球慶賀使と琉球謝恩使
江戸時代薩摩藩は、1609年琉球を侵略し、王を虜にして帰って来た。これは琉球を附庸国とすることにより、日本と明国との貿易復活の仲介を琉球に取らせるのが目的であった。虜にした琉球王を伴って、江戸の将軍に謁見させ、入貢を誓わせた。これが琉球使節の江戸への旅の始まり云われている。幕府は、薩摩藩を仲介者として琉球国を掌握、支配した。その隷属策の一つとして薩摩藩の命令、監督の元に日本の将軍の襲職に対して慶賀の使節を、また琉球国王の即位を感謝する意を込めて謝恩使を江戸へ派遣することとした。江戸への旅は、琉球国王の1世1代の儀礼としてとらえ、”江戸上り”と称した。1634年から1850年まで18回の慶賀使、謝恩使が江戸に上った。使節は63名から170名で、慶賀使と謝恩使が同時に江戸へ向かうことも4回あった。行路は、6、7月に那覇から鹿児島山川港へ陸路鹿児島城下で2、3カ月滞在し、使節は薩摩藩主の参勤交代に率いられて海路を平戸、小倉へ、使節は必ず瀬戸内海(朝鮮通信使と同じ航路)を進み大坂に上陸し、大坂薩摩藩屋敷に2、3日滞在した。時に薩摩藩主のみ陸路をとることもあったが、小倉と大坂では合流した。大坂から川御座船で京都伏見へ、数百名の行列で東海道を江戸へ向かった。那覇を出てから4〜6カ月を要した。 |
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御浦触書を見ると、朝鮮通信使に対しては国を上げて、藩を上げて失礼、失策、事故の無いようにを基本として迎えたが、琉球使節に対しては、薩摩藩の附庸国であるということから、失礼の無いようにとの意図だけのようであった。 |
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オランダ商館長の江戸参府
江戸時代、平戸及び後に長崎にあったオランダ東インド会社の日本支店をオランダ商館といい、この館長が通商免許のお礼のため、江戸に上って将軍に拝謁し、献上品を贈ることで、お礼参り、参府などと呼ばれていた。オランダとの通商は1609年に始まり、その後一時中断していたが、1633年から恒例化され、毎年参府するようになった。1790年までに153回を数えたが、この年から4年に1回となり、1850年の最後の参府までに166回の参府があった。
初期の頃は、前年の冬に長崎を出発して、翌年正月に江戸で礼拝を行っていたが、1661年より2月に長崎を出発し、普通90日(最短は67日、最長は143日)を要して江戸に着き、江戸滞在は2〜3週間とされていた。メンバーは商館長、書記、外科医、通詞、長崎奉行所役人など総勢60余名であった。
経路は、海路で長崎、小倉、下関、上関、家室、御手洗(又は蒲刈)、鞆ノ浦、牛窓、室津、兵庫、大阪へ。兵庫または大阪から陸路を江戸に至った。
『1646年12月9日、日の出後22マイルの相の島、正午頃小倉を過ぎた。正午過ぎ下関に着いた。ここから7マイル進んで、強い東 |
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よりの風となったので、危険を避けるために引き返して夜遅く下関に着いて停泊。10日日の出の半時間前、出帆、日没半時間前上関を過ぎた。夜半頃上関から10マイルの由宇に停泊。11日日の出前出帆。住民のかなりある蒲刈を通過、午後忠海を過ぎた。夜半頃鞆を過ぎ、多数の島があり断崖が多く、潮流が速い所を暗夜に進んだ。12日風に逆らって多数島の間を進み、正午頃牛窓を過ぎた。運河に沿うて立派な家が数件ある。夜に入る前に室に着いた。13日日の出約3時間前に多数の船と出帆、10時頃明石を過ぎた、ここの城は広大壮麗で、多数の塔を備えた立派な建築である。正午兵庫に投錨し、後の船を待って出帆、兵庫から5マイルの西宮に停泊。14日日の出前に大阪に向かった。河に着いて、水は浅く河岸が湾曲しているために、進行は危険であった。平底船に移って正午過ぎ宿に着いた。長崎を出発してから丁度11昼夜である。速やかに奉行に謁し、参府の旅につくために進物を取りした。』(第14回江戸参府商館長日記より)
日本研究と日本の学問発展、厳しい監視、制限の中で、顕著な業績をあげたのは、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトの3人が上げられる。この3人は、オランダ商館付医師として来日し、長崎出島に滞在、商館長の江戸参府に随行し、多くの日本人と接触、資料を集め、多くの研究成果を表した。また日本の蘭学者は学び取ったオランダ語や研究の進め方から、”西洋紀聞”、”解体新書”の翻訳を完成し、。医学者は、西洋医学、植物学、理学を学んだ。鎖国の日本において、外国における各分野の進歩の状況、学術研究の方法などを知り、それがやがて日本における西洋科学の発展に繋がっていった。
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北前船
北前船とは、@北を前にして進んだから、北前船と呼んだA北回り船の呼び名が変わって北前船になったB北海道松前から来る船を略して北前船と呼んだ。C北の米(きたのまい)が変わって北前船になったなど、いろいろな説があるようですが、大阪の人たちは、北からやってくる船のことを「北前の船」と呼ぶようになった。
初めは、加賀藩のお米を大阪まで安全に運ぶことが、第一の目的でした。そのルートとしては、加賀藩のお米を、富山港から福井の敦賀まで船で持って行き、そこから陸にあげて琵琶湖を渡り大阪に運んでいたが、荷物の積み卸しが大変だったことと、運賃が高くついたという理由で、加賀藩前田利常は1638年に、少し遠回りだが、試しに津軽海峡を回って大阪に船で運んでみたところ、無事に大阪の堺の港に着くことができ、その東回り航路(太平洋航路)は、江戸まで近いという利点はあるが、東北沖の速い潮の流れに流されてしまう危険があるため、あまり使わなかった。
木綿帆が使われるようになた1672年、河村瑞軒によって酒田から下関をまわって大坂を結ぶ航路が開拓された後に、北海道から日本海廻りで大坂を往復する大規模な商船である。この船の形を”弁財船(漕ぎ人が要らなく風だけですすむ。反面、風が吹かないと何日もその場所から動けないという欠点。 また、荒波に押し流され、もう助からないと思った時、最後の手段として、船の中の荷物をすべて海に投げ捨て、帆柱を切って、転覆しないようにしたそうです。)”などとも呼ばれ、また、俗称として”千石船”とも呼ばれている。北前船とは、近江・加賀・越前・能登・大阪等の廻船問屋が大阪に根拠を定め、大阪と松前間の貨物の運搬に使用していた船を言うようになった。 |
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北前船の商品は、夏に北海道の昆布、鰊を積んで、酒田では米、紅花などを積んで、秋に瀬戸内海に入り、各地で売却し、大坂で一冬越した後、翌年春には米、塩、砂糖、干鰯、木綿、古着、畳表、米、煙草など産物を買い入れて北国へ向かう。晩秋には北国に戻る船もあった。北前船の最大の特徴は、それぞれの寄港地で積荷を売り、新たな仕入れをもする、云わば総合商社であったと云う点です。遠く北海道の産物を積んで群れをなすように来航し、それを買い入れようと各地の港が一気に賑わう姿は、季節の風物詩であった。北前船によってもたらされたものの中には、商品だけでなく、文化も風に乗り、潮に乗って各地に伝わりました。明治の半ば、汽船や鉄道によって速く、多量の物資輸送が可能となり、衰退して行った。 |
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