Q5.佐賀県立名護屋城博物館では『文禄・慶長の役を侵略戦争と位置付け、その反省の上に立って、』と説明の後に、『三別抄の協力要請に対して、日本側は返事も出さずに何の手も打たなかった.また三別抄が戦ったが為に、日本への侵略が遅れた』と記載してあり、日本が援軍を出さなかったのが悪いと言ってるようであるが、何故日本は援軍を出さなかったのだろうか?
1268年の国書の内容は、以下のとおりである。
天のいつくしみをうけている大蒙古国の皇帝が、書を日本国王に奉る。
朕が思うのに、昔から小国の君主で国境を接しているものは、音信を交わしあい、仲よくしあうよう努めている。 ましてわが祖先は、天の明命を受けて天下を領有している。 その威を恐れ、徳を慕ってくる遠い異国のものたちは数えられないほどである。 朕が即位した初め、高麗の無辜の民が戦争によって久しく疲れていたので、朕は国境より兵を引き揚げ、老人子供を帰した。 (それにより)高麗の君臣は感激して来朝した。(蒙古と高麗は)君と臣の関係ではあるが、親子のように仲が良い。
日本国王もすでに知られていることであろう。高麗は、朕の東の属国である。日本は高麗とは近い仲であり、日本の開国以来、時に中国とも交通をしているが、朕が即位してからはまだ一度も使いを送って和交していない。日本がこの事を知っていないことを恐れ、故に特に使いを遣わして書を持たせて朕の志を布告させる。願わくば今よりは好を通じて親睦をするように。また、聖人は四海をもって家となさん。互いに交流しないのは一家の者らしくないことである。兵を用いるに至るなど、誰がそれを好もうか。 日本国王よ、これを図れ。
このような国書が高麗を介してから送られてくる時機に、鎌倉幕府が反乱軍の汚名を着せられた三別抄に援軍を出すはずが無いと推測する。鎌倉幕府は本土防衛が精一杯で、対馬や壱岐さえも守れなかった。かくして反乱軍は、1273年鎮圧され、翌年高麗軍と元軍が日本を襲撃する。
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