潮待ちの港
潮待ちの港 牛窓
風待ちの港
牛窓の 波の潮騒 島響き 寄さえし君に 逢わずかもあらむ  柿本人麻呂
 日本のエーゲ海ー牛窓は”美しい窓”ーとたたえられ、古くは万葉集にも詠まれているように古代からその名が知られており、中世には風待ち、潮待ちの港として栄えた。牛窓を訪れた詩人、歌人は数多く、風景を賞賛しこれらの詞あるいは歌が今なお多く伝えられている。1420年には朝鮮使節が停泊しており、1467年には牛窓の代官が使いを朝鮮に遣わしたことが記載されている(海東諸国記)。また江戸時代には、参勤交代の大名やまた、鎖国の日本と朝鮮の間には交隣の友好が結ばれ、朝鮮通信使の一行が寄港(鞆ノ浦→牛窓→室積)し、当時の歴史的文化遺産も数多く残されている。牛窓では、”唐子踊り”として親しまれている。牛窓町は2004年11月1日に牛窓町、邑久町、長船町が合併して瀬戸内市となった。
牛窓の港の全景(左遠方の島は、香川県小豆島、手前の島は前島)
牛窓オリーブ園から日本ののエーゲ海と呼ばれる牛窓湾を望む


朝鮮通信使
赤線は、朝鮮通信使の通った航路
鞆ノ浦、下津井、牛窓、室津へ



牛窓港の灯台跡          ↑ともずな石

               →灯籠堂
 優しい光で海行く船の安全を見守ってきた灯籠堂は明治時代になくなり、昭和63年に再建された。



天神社境内の菅原道真の歌碑

牛窓の町で見かけるこの護符
は人々を悪魔から守っています。
”磯山の 峯の松風 通い来て 波や引くらん 唐琴の迫門(せと)”



潮待ち唐琴通り(古くから潮待ち、風待ちの港として、船出のタイミングを待って滞在した国際都市)
白壁の土蔵、格子戸の家がかつての繁栄を物語り、古来から異国文化と接してきた牛窓の歴史を感じます。


朝鮮通信使

当時の牛窓の屏風絵

初期の通信使と刷還の様子が伺える
 朝鮮通信使第1〜3回は回答(幕府の使節派遣に対する回答)兼刷還使(秀吉の朝鮮出兵の時、連れて来られた捕虜を連れ帰る)と呼ばれている。
 刷還の様子は、1607年第1回の海槎録(復路)には、『6月12日夜明けに刷還使船8隻を一時に海に出させた。東風が順調で船は飛ぶように進み、兵庫、明石、高砂などの村を過ぎ、室津に到着したが、日は正午になった。対馬島の船および刷還人の乗った多くの船が落後したので、やむをえず逗宿した。14日雨、朝食後風勢が順風のようなので帆を上げて船を出す。』とある。
 刷還船は釜山を発した時は6隻であったが、8隻になっている。2隻を対馬で雇い、拉致された人を連れ帰っていることが解る。また『対馬島の船および刷還人の乗った多くの船が落後したので』は、朝鮮通信使の船は木綿帆であったが、倭船の対馬藩と刷還人の乗った船は、ムシロ帆の船であたので、船足が遅かったことが伺える。
 1617年第2回復路『9月19日雨、牛窓に逗留する。対馬島をして船2隻を雇い、崔に3名、対馬島日本通事を連れて、先に西海道小倉、筑前、博多などの地に行き、執政の文書を掲示して、捕虜となった人を刷還して、壱岐島か対馬島などの地で会うように約束して、また康をして3名を連れてこれから経由する山陽道備前、広島等の地に先に行き、捕虜になった人を捜し出して途中で会うようにした。捕虜になった人、一人が来てお目にかかり、『帰りたいのだが、主人の日本人がその妻を出してくれない』と言うので、すぐに訳官をして地方の人に言わせると、互いに責任をなすりつけて言い訳をした。表面では力を尽くした振りをして、その実、地方の人と互いに表裏をなしており、その情態の憎むべきことは一つだけではなかった。将軍が既に令を下し、執政の文書があっても、本人が自ら帰ることを願っても、また刷還することが出来なかった。そのこことについて問いただすと、すぐに嫌な顔をして、懇切にいい聞かすと、互いに責任のがれの言い訳をするのが、いっそう腹立たしいことであった。』と扶桑録に記されている。

 第1回と2回は『島主と調興が言うには”風勢がはなはだ良く、牛窓はまた食事を供する所ではないのでただちに室津へ向のが良い”とのことでしばらく帆を降ろし、水を汲んで室津に向かった。』と、記されており、通過している。第1回、第2回の刷還使の時は、摂待の準備は全くされた様子はない。双方には不信があり、朝鮮側は捕虜の探索と送還が目的でありに、各藩としては通信や摂待どころではなく、早く領地を通過して出て行って欲しいのが本心のようだ。第3回から牛窓が宿泊所に指定された。

海遊文化館
旧牛窓警察署本館を利用。樹齢150年と推察される大蘇鉄と玄関のステンドグラスに文明開化の頃の浪漫が漂う白い建物。
 江戸時代に幕府の表敬訪問に海を渡っり、ここ牛窓に寄港したという朝鮮通信使節団に関する資料が数多く集められている。
 当時はここに対馬藩主の宿舎にあてがわれた館があった。
朝鮮通信使節団の衣装や当時の町の様子を描いた絵画など貴重な資料が展示され、目にも鮮やかな極彩色の展示品


朝鮮通信使の再現模型
        唐子踊り
 摩訶不思議な神事。異国情緒あふれる衣装をまとった2人の男児によって、代々踊り伝えられてきた踊り。一説によれば朝鮮通信使がもたらしたといわれる起源をはじめ、独特なメーキャップ、典雅な所作、奇妙な口上、囃し方など、その意味はまったく不明で実にミステリアス。第9回の朝鮮通信使には、19名の小童が随行し、二人の童子が対舞したと記されている。
舟型だんじり
岡山県の重要無形民俗文化財の指定を受けている山車(だんじり)8基のうちの3基が展示されている。江戸末期から明治時代初期に造られ、中国の”四霊”(麒、鳳、亀、竜)などをモチーフとする精巧な彫刻が施されている。



本蓮寺
                     法華宗の古刹

国指定朝鮮通信使遺跡の碑

寄棟造本瓦葺の室町時代建立の本堂 祖師堂

通信使の牛窓寄港
 3回の朝鮮通信使から牛窓で摂待が行われるようになった。
 摂待は次第に豪華になり、財政を圧迫するようになった。1711年新井白石の改革「正徳の治」により、現場は混乱する。
 1719年には白石失脚により、再度豪華になり、1811年には対馬で聘礼式が行われた。この対馬での聘礼式を最後に、経済的負担を理由に、通信使外交は終わりとなった。
年 度 往路 復路
1607 通過 船中
1617 通過 船中
1624 本連寺 船中
1636 本連寺 通過
1643 本連寺 通過
1655 本連寺 通過
1682 茶屋 通過
1711 茶屋 不明
1719 茶屋 茶屋
1748 茶屋 茶屋
1764 茶屋 船中
1811 対馬止まり
三重塔は海辺に映える全国唯一の塔(国重文 元禄3年1690建立)

                              小堀遠州作の見事な庭園や多くの文化遺産が残る寺
 1624年第3回から1655年第6回朝鮮使の往路(復路は通過)の寄港の折、ここの客殿が4度接待所にあてられた。1682年第7回から、藩主の別荘として建てた『お茶屋』(270畳もある豪華な建物)を接待所として使っている。

 1719年の第9回朝鮮通信使の摂待の様子は、岡山藩朝鮮人来朝記によると、一行を迎える準備は他藩と同じく半年前から始められ、対馬藩から宿検分役が来る5月16日までに、お茶屋など宿舎の修理及び調度品の備付を終える。このほか対馬藩主一行や岡山藩接待役の宿舎も用意され、波止場からお茶屋までの沿道の家々や道路の補修もなされた。
 6月下旬に通信使の対馬到着が通報されると、連絡用の継船、飛脚船25隻が配置につき、烽火台(壱岐勝本から牛窓上山)の点検にかかる。その後通信使の動向が逐一報告されるが、一行が相ノ島に入ったことが8月4日に報告されると、全員配置につく。そして8月20日鞆ノ浦に到着の知らせが入ると、119隻の船が岡山藩内の定められた場所に行く。食物を送る支給船は下津井港で待機する。船奉行は護行船団を率いて福山藩との境まで出向き、一行の船団を牛窓まで護航する。
 護航船団の編成は、正史船に44隻、正史従船39隻、副史船44隻、同従船39隻、従事官船44隻、同従船39隻、通詞船81隻、対馬藩船160隻が付き、総計845隻、船頭や水兵は3707名である。
 9月1日船団接近の烽火があがると、牛窓では船着き場からお茶屋までの沿道の民家は雨戸を締めて幕や簾で囲み、道路にはムシロを敷き、提灯が掲げられる。夕方千隻の船団が岡山藩の先導で牛窓に入港する。三使船は船着き場に新設された桟橋に横ずけされ、まず三使が上陸する。対馬藩主に続いて、正使、副使、従事官、上々官を載せたきらびやかな輿がお茶屋に向かう。
 製述官、申維翰シンユハンは海游録で『食事が終わると、雨森芳洲らが備前州の文士を案内して来きた。筆硯と紙幅を置き、長編短律をもって互いに唱酬した。  その言は、はなはだ才致がある。夜半も過ぎて別れた。』と記している。




東備の鎮守・牛窓神社


社伝によると1012年宇佐八幡宮より勧請したとありその歴史は古く、かっては牛窓明神、八幡宮、牛窓村八幡宮と呼ばれていたが,
明治初年に牛窓神社となり、御祭神には、牛窓の地の神霊及び代々世々の祖先の神霊が祭られている。
由緒ある御本殿のたたずまいには、庶民の幾多の思いが託されているかのような格調がにじんでいる。




牛窓オリーブ園
澄み渡った空の青さと清涼感あふれるオリーブの緑。穏やかな瀬戸内海ではセーリング。



ミティリニ広場
昭和57年(1982年)7月6日、日本とギリシャ国間の
最初の国際友好都市縁組が牛窓町とギリシャ、
レスボス島のミティリニ市の間で調印されました。
 ギリシャの神殿跡をモチーフにしたこの広場は
友好都市縁組15周年を記念してオリーブロード沿いに
平成9年(1997年)に整備されました。


     塩田跡
 かつて錦海湾と呼ばれた美しい海は江戸時代から始まった塩田開発と干拓事業によって姿を消した。
 また塩田自体もイオン交換樹脂膜製塩法の開発によりその使命を終えた。(1970年頃)
 現在、長大な締め切り堤防は絶好の釣り場に、広大な塩田跡地は野鳥達の宝庫になっている。

朝鮮人来朝覚備前御馳走船行烈図
                                           1740年第10回朝鮮通信使が鞆ノ浦から牛窓にかけて進む様子を描いている。
  警固を担当するのは備前藩で300隻が描かれている。大きな朝鮮通信使の船を曳くのが、日本側が用意した関船、小早、漕船などである。この図から当時の航海は大変困難であったことが伺える。
行列の先頭は船奉行の乗船、続いて海上案内名主の小舟、中型船など18隻。正使官船と記された大船が綱で引かれている。正使船の舳先に旗を立て、水先案内人らしい一人の日本人を交えて、水夫やラッパを吹く楽人、踊る童子、官人らが甲板上に描かれている。『帆モメン』と注記してあるのは、当時の日本ではムシロの帆が普通だったので、官船の木綿の帆が珍しかったからである。この正使船には、補水船など17隻の小舟が従っている。
次の2隻は名主の舟、足軽の舟と続いて、中小12隻の舟で正使の卜(ぼく)船(荷物を積んだ船)を引いている。卜船には浦舟、火消道具船、水船など16隻が従っている。
副使船と卜船を曳く船団、
従事官船と従船、信使奉行船、通詞乗船、対馬藩主船それらを曳航する舟が描かれている。


ホテルリマーニ(ギリシャ語で”港”という名のホテル)

潮待ちの港
釜山・対馬相島赤間関・中関・室積上関沖の家室津和地
蒲刈御手洗・鞆ノ浦・下津井・塩飽本島・牛窓赤穂室津兵庫津