風待ちの港
潮待ちの港 津和地
風待ちの港

 怒和(ぬわ)島諸島とは、愛媛県の中島、睦月島、野忽那(のぐな)島、怒和島、津和地島、二神島と山口県の柱島を称し、中世これらの島々を支配した怒和水軍の一族の名前から付けられた。津和地島は、面積3kuに足りない小島だが、忽那諸島の中でも最も活気がある。それは良港が有って、漁業が盛んだからである。津和地港は、前に怒和(ぬわ)島の島影を、東に面して大きく湾入し、帆船時代には瀬戸内海の要港として知られた。木江、御手洗とともに、帆船が帆をあげたままで入ることが出来た港だったという。そのために参勤交代の諸大名たちの船や、幕府の公用船が立ち寄り、朝鮮通信使、琉球使節の船も風待ちで立ち寄ることもあった。松山藩はここに、そうした船の人々を接待するためのお茶屋(公儀接待所)を置いた。江戸時代、瀬戸内海航路の要衝として栄えた島だが、これ程史跡が保存されてない島は少ない。何故だろうか?
 現在では農業と漁業が島を支え、山には蜜柑畑が、畑作のタマネギ・スイカも栽培している。漁業は蛸や鯛などが水揚げされている。2005年1月松山市に合併された。


   赤字は地乗り航路
津和地へは松山からのみ船が出ている。
公共機関の利用では、柳井港からフェリーで2時間50分、松山から2時間。片道合計5時間の船旅になる。
 ならば船をチャーターして津和地へ出航、白波が立つ瀬戸内海を航行する。時速60数キロで走る。上関と沖の家室で小休憩を取る。沖の家室を過ぎると、白波が立ち船は揺れる、捕まっていないと床に叩きつけられる。2時間が過ぎ、やっと津和地が見えてきた。ここは山口、広島、愛媛の県境。遠い!
帰っても未だ頭と体は揺れている。

朝8時周南市のマリーナシーホースを出航 徳山港を出て左に粭島、正面に防府市の野島、右に大津島を見ながら南に進む

針路130度。左前に下松市笠戸島日振岬。これを過ぎると、
上関へ針路100度を取る。
9時上関を通過


9時30分沖の家室を通過 白波が立ち、フロントガラスは潮水を被る。やっと正面の灯台(柳井〜松山航路)に辿り着く

左に津和地島、右に怒和島を見ながら、津和地瀬戸に入る。 10時にいよいよ津和地だ



津和地へ上陸。港では
港で歓談中の老人は、”子供の頃の小学生は300人いたが、今は8人しか
いない。若い者は松山に住んでいる”と言った。そして島を案内してくれた

蛸壷。先週に海に入れて、現在は少ないとのこと 魚の干物を作っている。

『この浜から、潮待ちする人達が上陸し、この背後にお茶屋が有った』と島の老人は言う。 島で唯一残る史跡、”お茶屋跡”の碑

お茶屋が使っていた井戸。後ろの老人が案内して下さった。

町並み
島の西側のメインスツリート。 木の電信柱      立派な門構え、中庭があり、奥に母屋がある、
うなぎの寝所のように窓口が狭くて奥に長い家が多い。

節分の魔よけが家々の玄関に掲げられていた





島の東側の”新地”と呼ばれているメインスツリート。
当時は遊郭や飲屋があったそうで、
”風待ち、潮待ち”の人々で賑わったそうです。


ふくみ旅館にて昼食
鯛そうめん(美味しかった) 新鮮な魚 蛸ともずく。やはり蛸はここの名物、美味しい

島の頂上まで延びる蜜柑畑、整備された段々畑にはリフトが付いている。
自費で作ったものだろうか?離島振興策の補助金事業だろうか?

島の老人が”午後には風が止み、波が穏やかになるよ”と言うとおりとなった。
島の人達の人情に触れ、美味しい魚と空気を吸って、帰途についた。帰りは35ノットで航行


津和地を紹介して下さった葛原さんのHPつわじドットコム
潮待ちの港
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