播磨 潮待ちの港
潮待ちの港 室津
風待ちの港
 室津は、713年播磨国風土記には、『此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す』と記されているように、三方を山に囲まれ、古来より天然の良港として有名であった。そして、奈良時代には、高僧行基によって摂播五泊ー河尻(尼崎)、大輪田(兵庫津)、魚住(明石)、韓(的形)、室津ーの一つに定められた。それ以後海の駅として栄え、多くの人々と文化や物資がここを通り過ぎて行ったという。
 高倉天皇に従って厳島神社に参拝する平清盛が寄港し、賀茂神社に海路の無事を祈った。讃岐に流される法然上人は、往きと許されて帰りの二度立ち寄る。戦の途中の足利尊氏は、見性寺で作戦を立て直した。そしてその孫義満は、厳島神社参詣のために寄港した。
 江戸時代になると、1607年第1回の朝鮮通信使が来た。姫路藩はここ室津で接待し、その設備(藩の公共投資)により室津は国内有数の港町として発展して行く。奉行が政治を行った政所を朝鮮通信使や大名の接待用の御茶屋に改装した。1635年参勤交代が制度化されると、九州、四国、中国地方の西国大名は海路を利用し、ここ室津(江戸中期までは明石海峡で遭難が多かった為)から陸路で江戸へ向った。単なる寄港地ではなく、乗船あるいは上陸地点である室津は、大名行列で大変な混雑ぶりとなった。小藩で200名、大きな藩になると400人を数えたという。港口番所(今の港湾事務所)も立派になり(東西110m、南北18m)灯籠合も建てられた。武士だけでなく、干いわしなどを満載した北前船も続々入港、景気の良い活気を町にもたらし、諸大名が宿泊する本陣が六軒、脇本陣を兼ねた豪商の邸、宿屋、揚げ屋、置屋など、軒をつらね、文字通り「室津千軒」のにぎわいであったという。おそらく、賀茂神社をいだく社領として、大名や幕府に屈することのない、自由都市のような雰囲気の町だったのだろう。また室津は、遊女発祥の土地としても有名である。
 しかし明治になると、海上交通に代る陸上交通の発達などの時代の波には、歴史の重みなどひとたまりもない。室津はみるみるうちに衰退の一途を辿っていった。2005年10月御津町は、『たつの市』として合併した。
  室津という港町との出会いが、井原西鶴、近松門左衛門、谷崎潤一郎と竹久夢二の小説となった。戦前、木村旅館に滞在した谷崎潤一郎は、「乱菊物語」を書き、同じく竹久夢二は木村旅館の女主人をモデルに「室津」を描き残した。この町は、芸術家達に創作上の何かを与えるところらしい。 瀬戸内海の太陽を浴びながら、風と海を感じながら、歴史ロマンに身を浸してみる。室津はそんな所、、、、


朝鮮通信使
 第1回(1607年)6月12日復路、晴、夜明けに刷還船8隻を一時海に出させた。東風が順調で船は飛ぶように進み、明石、高砂などの村を過ぎ、室津に着いたが、日は正午になった。対馬島の船および刷還人の乗った多くの船が落後したので、やむを得ず留宿した。地方官の御機嫌伺い、摂待に関することなどは、来るときと同じであった。13日終日風が吹き雨が降る。波濤は盛んに沸き立ち、船を出すことが出来ず、そのまま室津に逗留する。14日朝雨。遅くなって晴、朝食後、風勢が順風のようなので、帆を上げて船を出す。牛窓、下津井などの村を過ぎ、午後8時に鞆ノ浦に到着する。(海槎録より)
 第11回。江戸幕府の第10代将軍徳川家治が父家重より将軍職を譲られたのは1760年4月1日であった。対馬藩は外交ルートに従って朝鮮に大慶参判使を派遣して、将軍の交代を報告、続いて翌年10月に修聘参判使を朝鮮に送り家治就任、家重死去を朝鮮政府にきめ細かく伝えた。3年目に朝鮮通信使派遣が決定した。
 479人の使節団が10月6日釜山を出航した。一行は牛窓で正月3日を迎え5日間滞在し、池田藩の800隻を越える警固船に送られ、次の寄港地室津に向った。岡山藩と姫路藩の境には、姫路藩の案内警固船、漕船(曳船)、荷船、火消道具船など約800隻が海を覆うように待機している。室津に入港した通信使船は、青地に赤色で『正』字を染め入れた正使船を中心に船着場に係留され、対馬藩の川御座船並びに大小さまざまな船が湾内を埋め尽くし山を越えた大浦まで繋がれていた。三使らは、迎賓館となった藩主の別荘、お茶屋に、中官は浄静寺に、下官たちは寂静寺、徳乗寺に宿泊した。6日間室津に滞在し1月19日に出帆している。
 姫路藩の迎接に、正使趙は海槎日記に『牛窓、鞆の浦よりも全てにおいて勝り、正使付き添いの小童にまで饌果が出された』と記載されている。江戸時代の室津は、宿の風呂水が少ないことで有名であった。井戸を掘っても塩分の多い水なので、朝鮮通信使の来日に備えて飲み水の確保は近辺の島から集めて備前焼の大きな水瓶でたくわえた。(わが町に来た朝鮮通信使Tより) 室津を出ると、明石まで姫路藩の船が警固して行く。



室 津 港
三方を山に囲まれた室津港と漁船

室津漁業市場の魚魚(とと)市
土日朝10時から14時まで開かれている。      大漁旗が目印。     シャコが美味しい。



室津の町並み
参勤交代に使われた本陣が、6軒あったと言うが、1軒も現存していない室津の通り。

室津海駅館
回船問屋として活躍した豪商”嶋屋”の18世紀中頃に建てられた遺構を御津町が買上て、修復して1997年海駅館とした。
             2階の掛け縁と障子→

当時の室津の町の特徴が残る建物。
 ここでは、朝鮮通信使、廻船、参勤交代、江戸参府の4つのテーマに分けられて展示されている。
館 内では、1682年5代将軍徳川綱吉の将軍襲職慶賀のために来朝した通信使の正使を室津でもてなした料理が復元されている。また予約すれば、三の膳を基本に食べることが出来る。
↑尾形船の天井の間
20室145畳の大きな家
 床違い棚、出書院を備えた立派な『一之間』→


姫路藩主池田輝政(1564〜1613)によって建てられた。藩主の領内見回りの休泊所として、また朝鮮通信使など外国の賓客の接待に利用された。 本陣が6軒あったのは、全国で箱根と室津のみであった。


室津民族資料館
 老朽化し、次々に朽ちはてていく本陣を前に、町が家を買い取り、修理して資料館を誕生させた。屋号を『魚屋』と言い、江戸時代には苗字帯刀を許され姫路藩の御用達をつとめた豪商の家。室津には、現在の銀行組織のような銀元制度まであった。ここで金を借り、船を仕立てて大きな商売へ挑戦したのである。商売は繁昌し、大名にまで金を貸しつける豪商も誕生した。姫路藩主坂井家の魚屋に対する借金証文が数枚も残っている。大部分が200両の証文である。借金のかたに苗字帯刀を許し、三つ重ねの紋入りの酒杯、裃、提灯などを与えたようだ。このような現状を憂慮し、江戸後半には松平定信が『棄損令』を出し、借金棒引きにして、大名や旗本の貧窮を救おうとした。(御津町郷土の歴史より)
魚屋の向いには、高札場をはじめ本陣、肥後屋、肥前屋が軒を連ね、江戸時代の室津の中心であった。 一階奥座敷にて

        八朔の雛祭り        2階の部屋部屋数は23。箱階段や隠し階段など当時の繁栄が忍ばれる。
八朔の雛祭り:1566年桃節句に室津城主浦上政宗が孫の婚礼の酒宴をしている時、龍野城主赤松政秀はの夜襲に合い自害した。この悲しい思いでから、室津では3月3日にはお雛祭りをせずに、8月1日(八朔の日)にするようになった。(御津町郷土の歴史から)

港口番所跡
 秀吉の大阪城築城に際し、九州の大名が運ぶ途中に海中に落としたものと、言い伝えられている。昭和47年引き上げられた。

室津は姫路藩の飛び地で、昼夜行き交う船の監視の為に番所が置かれ、藩士の住居もあった。
江戸参府で室津に滞在したシーボルトが絶賛した播磨灘の風景が美しい


加茂神社
九州の大名が寄進したと言われる蘇鉄。
ここが蘇鉄の北限にあたる。
 本殿など五つの社殿はいずれも流造、桧皮茸で、国の重要文化財。千数百年前の室津開港とともに祀られ、京都より賀茂別雷神を奉遷して海路の安全を見守ってきた賀茂神社は、室津発展の礎となった神社だと言える。



遊女発祥の地室津
 江戸時代に遊郭が公に許されたのは、江戸の吉原、京の島原、長崎の丸山、室津など僅か25カ所であった。伝説の美女の室君、遊女の元祖友君などの話が残っている。
 遊女発祥の地と良く言われるが、最初に言った人は、俳人で小説家の井原西鶴(1642〜93年)だ。井原西鶴の処女作『好色一代男』は、色道の天才児、世之介の一代記です。この中で、都会で色道の修行をした世之介が諸国遊行興の旅に出る。もちろん室津にも来た。第5巻、31章は『本朝遊女の始まり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、今国々になりぬ(江戸の朝妻、播州の室津より始まり、全国に広がった)』との書き出しで始まっている。当時のベストセラーである『好色一代男』に書かれたので、それを信じた人が多かった。井原西鶴が『好色一代男』以外に室津を取り上げた作品には、お夏清十郎の『好色五人女』、『懐硯』、『好色盛衰記』、『新可笑記』などがある。なぜ井原西鶴はそれほど室津を取り上げたのだろうか?室津が海上交通の要衝として栄えた港町だったり、遊女の町として全国的に有名であったり、謡曲『室君』の地でもあるからだろう。
 室津の木村旅館に滞在した谷崎潤一郎は、「乱菊物語」を書き、昭和5年3月18日から9月6日まで朝日新聞に掲載され、昭和24年単行本として出版された。内容は,、室津、家島群島、京都をを舞台に、室町時代末期の播磨の大名が室津の遊女『かげろふ』を巡って繰り広げる波瀾怪奇な物語だ。昭和31年池部良、八千草薫主演で映画化された。

また近松門左衛門の『お夏清十郎』などがある。

浄雲寺法然上人25霊場の一つ
朝鮮通信使の中官たちの宿となった
『お夏清十郎』に関わりのある寺。
清十郎恋しさに狂乱したお夏は姫路の商家の娘だが、清十郎はここ室津の生まれ。造り酒屋の息子であったそうだが、今はお夏の像が残るばかりだ。
 法然上人は讃岐に流刑の途中、風待ちのため寄港した室津で遊女友君に逢う。上人の説法で友君は後年尼となるが、許されて京にもどる上人が再び立ち寄った時、友君はもう亡き人であったという。この友君は木曽義仲の思われ人だった山吹御前で、流れ着いた室津で舞いを見せ、日本の遊女の元祖と伝えられている。友君は美女、美才であったとか、、遊女に対する幻想が昇華したものだろう。


見性寺

  
   見性寺:
 室君(遊女)が建てた5カ精舎の一つ、969年天台宗の開基と言われる。1280年頃臨済宗として時の為政者である公武家の後ろ盾を得て再興された。1336年足利尊氏は九州を制覇して、体制を立て直し、海路を東進してこの寺で京都奪回の策を立てたと言われている。5月25日湊川の合戦にて新田義貞、楠木正成の軍を破った。、明治になり、檀家も少なく、栄枯盛衰を何度も繰り替えしたお寺である。
 1643年の朝鮮通信使の三使の宿泊は見性寺であった。まだ次回の1655年からお茶屋に泊まるようになった。




新舞子の懐石宿  潮里
木の温もりを満喫し、時間を忘れられる空間の宿 部屋からは室津、赤穂岬そして美しい島々や干潮の時の州の上で鳥が
遊ぶ風景が眺められ、瀬戸内の風に抱かれ、波の音聞こえてくる。
広々とした部屋の露天風呂、
波の音と瀬戸内の景色が楽しめる

国の登録文化財に申請中の露天風呂付き離れ
元皇族賀陽宮殿下の別荘を改築した落着いた部屋

お造りが奇麗に盛られ美味しい。
お造りはグレードアップした

 季節の懐石料理は播州の土地で育った野菜に、瀬戸内海の魚など、旬のものが奇麗に盛られ、器と調和し心が和む料理だ。

左は夕食     下は朝食



輿塚古墳
 揖保川流域最大の規模を有する輿塚古墳は、古墳時代前期(西暦4〜5世紀)の前方後円墳で、南北に主軸をおき全長約110m、現存する後円部が約60m、高さが9.2mもあり、後円部の頂には、長さ6m、幅0.4mの長大な竪穴式石室を構えている。


世界の梅公園
異国情緒あふれる中国風の建物と、約350種類の世界の梅が調和した風光明媚な公園です。
唐梅閣:唐時代の日中両国の文化、芸術、宗教などの交流を象徴して、唐梅閣と名づけられた。梅の古木が植えられ、中国の太湖の太湖石で峰を立てて中国風の趣を醸し出している。
 展望台からは潮風吹かれ、青い空・青い海の瀬戸内海が一望でき、室津の入り口にある唐荷島、赤穂岬まで見え、まるで別世界のようだ。



龍野城下
播磨の小京都と呼べれる龍野。現在の平山城は1673年に信州飯田から脇坂安政公が移って築城した。龍野の象徴として、本丸御殿、白亜の城壁、多聞櫓、埋門、隅櫓などが復元された。
大手門

上は武家屋敷跡。 下は『赤とんぼ』の作詞家三木露風の生家

 その昔、松平定信が来遊したとき、ここからの眺望絶佳をたたえて「聚遠の門」と呼んでから聚遠亭と名づけられた。心字池の上にある茶室は、庭園、池、杉垣根などと調和した書院造りを模した数奇屋風の建築。



そうめんの里揖保の糸
  遣唐使たちは、たくさんの文物を唐から持ち帰って来た。 優れた工芸品や香料・薬品・儒教・仏教など、遣唐使船は文字通り宝の船でした。 その中で、石臼・醤油・味噌・納豆・ごま油などとともにそうめんの原形といわれる 「索餅(さくべい)」も伝わったと言われる。
こしのある素麺と美味しいだし、さすがは、揖保の糸直営の食堂だ。

たつの市 
潮待ちの港
釜山・対馬壱岐相島赤間関・中関・室積上関沖の家室津和地
蒲刈御手洗・鞆ノ浦・下津井・塩飽本島・牛窓赤穂室津兵庫津