周囲16Kmの小さな島、下蒲刈島は広島県呉市の南東方に位置し、古くから瀬戸内海の要衝として栄えた町である。1389年足利義満が厳島参詣をした際の紀行文において”安芸国かまかりに御船をとどめられる”とある。
蒲刈島三之瀬は、幕府の全国統一にともなって航路が整備され、要所には海駅が設けられ、さらに継船の制度が設けられ、江戸幕府によってさらに発展し、本陣、番所、茶屋の3点セットを備えた海駅に指定された。この航路を利用して、西国大名の海路による参勤交替、長崎奉行の江戸への連絡、オランダ、琉球使節、朝鮮通信使の往来が行われた。その他諸国廻船の来泊も盛んであった。
朝鮮通信使は12回のうち11回往復ともに寄港した。浅野藩では、第8回の来日に警備や輸送、出迎えのために135隻の舟と接待役付759人を三ノ瀬に用意した。港の整備、本陣、御茶屋の新築、往復で改修するなど力を入れていた。住民に対しては触書を発している。第5次朝鮮通信使は”設備された物や接待のすべてが華麗でぜいたく。ここが最も優れている”。第11次朝鮮通信使は”波止場と桟橋が、上関、下関よりはるかに優れていた。行閣の左右の欄干には赤い毛氈が敷かれていた。”と、また”安芸蒲刈御馳走一番。其の飲食器皿も皆金色。日本好酒皆此州。安芸州之酒味為日本第一。”等と記録されている。このように日韓両国の資料から、浅野藩が想像を絶するような饗応をしていたことが伺える。
1764年第11回朝鮮通信使節を最後に、又17世紀後半から木綿帆が使われるようになると、船は蒲刈島の沖を一気に駆け抜けるようになり、三ノ瀬の港は衰退して行った。ここに代わって大崎下島の御手洗港が潮待ち、風待ちの港として栄えるようになった。
現在は、”ガーデンアイランド下蒲刈構想”が実現し、自然と歴史と文化を生かした”地域性豊なまちづくり”が出来つつある。人口2千余名の島に、これだけの公共事業が目白押し、離島振興などさまざまな補助金の名の下に公費が取れたものだと驚かされた。殆どは平成の建物であり、この地に現存する歴史的施設が数少ないのが残念に思えた。 |
下蒲刈島(三ノ瀬)を望む
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上蒲刈島から下蒲刈島の三ノ瀬港を望む
(橋は安芸灘大橋、その向こうは呉市仁方) |
下蒲刈島の安芸灘大橋のたもとの白崎園から蒲刈の瀬戸を望む |
航空写真
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早朝の瀬戸内海を蒲刈大橋より南西方向を望む
右は下蒲刈島、左は上蒲刈島、
正面は黒島、津和地方面を望む
この方向から舟が大阪へ向かって入港して来た。
赤線が17世紀後半まで主に使っていた陸地沿いの地乗り航路
黄線が17世紀後半から明治時代の沖乗り航路。 |
槎路勝区図(当時の蒲刈)
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槎路勝区図は1748年第10次朝鮮通信使の寄港地の風景を釜山から江戸まで描いたものであり30図2巻に収められている。
(韓国国立中央博物館蔵) |
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福島雁木
幕命により福島政則が築いた船着き場。長さ113m,11段 |
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三ノ瀬港の常夜灯。自動点灯されるハイテク。 |
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蒲刈島番所跡の常夜灯
新築されたばかり。
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三ノ瀬御本陣は明治3年(1870年)に廃止され、役場庁舎として使用され、その後鉄筋コンクリート造りとなり、
その役場庁舎も取り壊された。歴史的建築物は雁木のみとなった。
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三ノ瀬御本陣跡に建つ当時の外観をそのまま復元した芸術文化館
本陣は朝鮮通信使を迎える案内役である
対馬藩一行の宿泊所として使用された。車道にも御影石と松。 |
蘭島閣美術館
蒲刈島は昔、蘭が多く自生し、栽培されていた、その蘭に由来した美術館。蘭の花の時期が過ぎると、蒲の穂が沢山出来、それを刈り取ったので、この島を蒲刈と呼ぶようになったという。 |
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侍屋敷 |
松涛園
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松涛園入口 |
三ノ瀬の瀬戸を借景として建つ、松涛園。
左から蒲刈島御番所(復元)
左2、あかり館(山口県上関の商家旧吉田家を移築復元)
左3御馳走一番館(富山県の代表的な商家造りである旧有川邸を移築復元)
右端は陶器館(広島県宮島町の町屋旧木上邸を移築復元)
豊な自然と日本古来の風習を生かしたガーデンアイランド構想の一環として
整備された。 |
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石人を配した庭園 |
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ガーデンアイランドー白砂青松(はくしゃせいしょう)の風景を
テーマに、石と松をふんだんに使った、三ノ瀬港。
潮待ちの港の中で公共事業の名の下に莫大な補助金を
獲得し、見事に復元している。 |
『日本好酒皆此州。安芸州之酒味為日本第一』
と朝鮮通信使に云わしめた蒲刈忍冬酒の漢詩が刻まれている。
忍冬の美酒は蒲刈に出で 玉椀に盛り来れば琥珀のごとく浸む
頃刻も唇に入れなば大道に通ず |
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蒲刈御番所 |
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山口県上関から移築復元した、あかり館
瀬戸内海独特の平入り入母屋型本瓦葺屋根の古い土蔵造り建築屋 |
三汁十五菜
朝鮮通信使が”安芸蒲刈御馳走一番”と云われた当時の
食事を再現してもの。他に七五三の膳も展示されてある |
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白雪楼
広島県沼隈の豪農が18世紀の後半に京都の奇好亭を2階建てに改めて、
漢学研鑽の場にしたもの。
沼隈、竹原と3回も移転した建物。
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子供の遊園地
難破舟をイメージして作られた遊具。
日曜日の午後というのに誰も遊んでいない。
観松園、大地蔵の松並木などを観ると
この島に何故必要かと、
補助金の見直しが浮かんでくる。
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