塩の国

播州赤穂
潮待ちの港
潮待ちの港 赤穂
風待ちの港
 播州赤穂は、瀬戸内海式気候と遠浅の地形が塩作りに適しており、古代より揚浜式塩田が発達していた。1648年初代浅野家藩主浅野長直(1610〜1672)は千種川流域での大規模な入浜式塩田の開発に着手して、1代で135町歩、5万石の塩を製造するようになった。以来、全国有数の塩の生産地として栄え、”塩の国”と呼ばれるようになった。江戸時代は400町歩にもなっていたと言う。江戸から明治にかけて赤穂産の塩は海路で全国各地へ搬送された。千種川の河口、市街地に面した海は遠浅のため大型船が入港できず、代わって坂越港が玄関口として栄えてきた。高瀬舟で千種川を下ってきた内陸からの物資も、川沿いの船着場で一度降ろされ、坂道を通って坂越浦へ運ばれていた。明治38(1905)年塩専売法が施行され、赤穂の塩の回船は衰退して行った。
 赤穂と言えば、、1701年3代目浅野長矩(1667〜1701年3月14日、1681年から山鹿素行に師事を受け山鹿流兵法を採用した)が起こした吉良上野介への刃傷事件により、家は断絶、領地は没収。切腹した主君の無念を晴らすべく、47人の家来は吉良邸に討ち入り、かの有名な「忠臣蔵」の物語が生まれた。
 一方吉良上野介(1641〜1701年12月4日)は愛知県吉良町の領主で、名君であったと言われている。1688年矢作川河口に約90町歩の海を干拓して『富好(とみよし)新田』を開き、その一部を塩田にして『饗庭塩(あいばえん)』と名づけて江戸で販売していた。領地を赤馬に乗って巡回し,「忠臣蔵」では,悪役の扱いを受けているが,当地では「民のための殿様」としてしのばれている。
 浅野内匠頭が叫んだ「この間の遺恨」とは何か?潔癖な浅野内匠頭は鰹節2本しか贈らなかったために、賄賂好きな吉良上野介の不興を受けたとか、増上寺の畳替え、殿中礼服の違いなど事あるごとに苛めたことが原因とされる饗応説や、浅野内匠頭には癲癇(てんかん)の持病があり、これが突発的におきたと言う乱心説、短気であったといわれる浅野内匠頭が吉良上野介と合わなかった性格説等もあり真偽は不明である。私は、浅野内匠頭と吉良上野介のそれぞれの領地で産出す塩の製法と販路の問題で対立があったという塩戦争説を支持ている。

赤穂の塩は、千種川の河口、市街地に面した海は遠浅のため大型船が入港出来ず、坂越港から全国へ搬送され、栄えていた。高瀬舟で千種川を下ってきた内陸からの物資も、川沿いの船着場で一度降ろされ、坂道を通って坂越浦へ運ばれていた。


坂越

坂越浦は内海航路の中継地として重要な役割を占め、江戸時代に回船業が盛んになるとともに、瀬戸内海有数の回船業地となった。近世に形成された瀬戸内海沿岸の多くの町が海岸沿いに展開しているのに対して、坂越は千種川と坂越浦とをつなぐ『坂越大道』を主軸に展開していることに著しい特徴がある。
船岡園。
向いの島は小豆島。坂越浦から赤穂の塩が全国に運搬されて行った。
坂越浦城跡。
江戸時代、赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていた。
  

旧坂越浦会所。1832年建築され明治まで使用されていた。藩の茶屋としての役割を持っており、2階には赤穂藩主専用の部屋が設けられている。

裏庭とつくばい

坂越まち並み館。
大正末期の奥藤銀行の建物を平成6年修復し活用している。
坂越の町並み(大越大道)


1601年創業の奥原酒造。赤穂唯一の造り酒屋。かっては回船業や銀行も営んでいた。


白壁が連なる奥藤酒造の酒倉。 うだつのある坂越の町並み


                          赤穂の塩(赤穂海浜公園)
 海水には3%の塩を含んでいます。太古の昔から海水を蒸発させて効率よく塩を作る方法が考えられてきた。赤穂の塩として有名になったのは、浅野長直が入国してから、塩田の拡張と、揚浜式塩田から入浜式塩田への製塩法の改良、そして江戸への販路開拓に力を注ぎ、1代で135町歩約5万石の増産に成功し、次の森家も塩田の開拓に力を入れ、約400町歩にもなった。
 徳川家の使用する塩は三河吉良(愛知県吉良町)吉良上野介義央の所領から献上する饗庭塩が使われ、江戸の一流の町人や有名料理屋などもこの塩を使っていたという。しかし入浜式塩田の饗庭塩は生産量が少なくかった。ところが赤穂の塩は、吉良の6倍の面積があり、雨の少ない晴天の多い温暖な気候に恵まれて、色、味共に勝っていた。赤穂の塩が五代将軍綱吉に献上されるに及んで江戸でも有名なブランドとなった。赤穂の塩がお上御用達となると、困ったのは、吉良の塩である。赤穂の進出は商売仇の出現を意味し、両家に経済上の対立がある時、吉良の浅野に対する感情は徒ならぬものがあり何か触発するものがあると不慮の事態を引き起こすことは、至極当然であった。
 昭和36年から現在のイオン交換膜法で生産されるようになり、年産23万トン(国内消費の1/)の塩が生産されている。昭和46(1971)年12月塩業近代化臨時措置法の成立により、塩田による製塩は廃止された。

入浜式塩田。潮の干満を利用して塩浜に海水を引き入れて。塩田に撒いた砂に海水を撒き、天日で水分を蒸発させる。塩の付いた砂を集めて、沼井に入れて濃い塩水を解け出させる。濃い塩水を釜で煮詰めて作る。 流下式塩田。昭和30〜40年代の方法で、動力ポンプで海水を汲み上げ竹の小枝にしずくのように落して、風の力で水分を蒸発させる。


赤穂
赤穂岬に立ち、赤穂を去る大石内蔵助の像                       赤穂岬からみる室津(神戸)方面          

                 息継ぎ井戸
 元禄14年3月14日夕刻、早坂藤左衛門、芦野三平の両士が主君による刃傷事件の凶報を持って、江戸から不眠不休で早駕籠を飛ばし、19日早朝赤穂に到着して、水を飲み一息つて城へ向ったと伝えられている。
赤穂市立民族資料館
 1905年日露戦争の戦費調達のために、塩は専売となり国を通じてしか製造、販売が出来なくなった。この建物は塩専売法施行に伴い、明治41(1908)年に旧日本専売公社赤穂支局の庁舎として建てられた。

  花岳寺山門
もと西惣門であったものを明治6年に当寺の住職が購入移築したもの。高麗門形式をとり、武家門の風格を備え、城郭付属建築として史的価値がある。
 野口雨情詩碑 

 春のあけぼの
   花なら桜
  武士の鑑ぢゃ
     赤穂義士

 野口雨情(1882〜1945年、15夜お月さん、青い目の人形、船頭小唄、波浮の港の作者)が昭和11年4月18日から3日間赤穂に滞在し、試作した十節からなる赤穂民謡の冒頭第1節
                    台雲山 花岳寺
 初代藩主浅野長直が常陸国笠間から転封になった時に菩提寺として立てられた曹洞宗の寺、以後浅野、森家の歴代藩主、47義士の墓碑がある。


 1645年5万3500石をもって浅野長直(1610〜1672年)が常陸国笠間から転封し、1848年から13年を費やして築かれた海岸式平城で、12の城門と10の隅櫓を築いた。城内へは清水門から船が出入り出来ていた。
 赤穂城は、天守閣を築かれず天主台のみであった。天守閣も造らなかったのは、塩田開拓に資金を注いだためであろうか?浅野氏断絶の後、永井直敬、続いて宝永3年に備中西江原より森長直が2万石で入城した。森氏は、12代に渡って居城し、明治を迎える。廃藩置県で取り壊されたが、昭和30年再建された。

                       本丸門
 赤穂城は海岸沿いに築かれ、その城下町も千種川河口のデルタ上にある。赤穂旧上水道は、良い飲料水を得るために約7Km上流の千種川から取水し導水路を経て城下町、城内へ排水したものである。17世紀前半に池田氏の代官が指揮して作らせれた。上水道は本丸庭園や侍屋敷のみならず、町屋にも汲出升を設けて各戸へ給水された。息継ぎの井戸もその一つ。江戸の神田上水や備後の福山上水と共に日本三大水道と呼ばれている

大石良雄宅跡の長屋門。57年にわたり大石家3代の居宅 大石神社。大石内蔵助以下47義士と芦野三平などを合祀して創建された。

1989年に建てられた赤穂市立歴史博物館
『塩と義士の館』と呼ばれている米蔵にちなんだ白壁の土蔵風建物
今日は盛装して、丹後ちりめんの無地の長着に一つ紋を付け、大島紬に羽織で出掛けた。

小西俊造先生(山口大学元学長、勲2等旭日重光賞、相生市名誉市民)の米寿祝賀会が2006年4月16日赤穂ロイヤルホテルに於いて行われた

潮待ちの港
釜山・対馬相島赤間関・中関・室積上関沖の家室津和地
蒲刈御手洗・鞆ノ浦・下津井・塩飽本島・牛窓赤穂室津兵庫津