黒田藩
相ノ島
潮待ちの港
潮待ちの港 相ノ島
風待ちの港
 相ノ島は玄界灘に浮かぶ周囲6.1Km、九州本土まで7.3Km、新宮港から渡船で20分の島である。大陸、筑紫へあるいは唐津、長崎へ向う船人が立ち寄った海上交通の要塞の島、4〜6世紀世紀に築造された積石塚古墳群、秀吉に朝鮮出兵を命じられた諸国の軍船が戦勝祈願した太閤潮井石、異国船監視の為に設けられた遠見番所跡など古跡が残っている。
 秀吉の朝鮮出兵の際、秀吉軍は沢山の工人達を日本に連れて帰った。江戸時代になり、戦後処理としてこの工人達を連れ帰るために朝鮮から使節団がやって来た。この使節団を接待する客館が相島にあり、秀吉軍が戦勝祈願をした島で戦後処理の使節団をもてなしたことになる。
 対馬、壱岐勝本港を出航した朝鮮通信使一行は、荒れる玄界灘を相ノ島(藍島)に直行した。対馬藩主は案内役として同行し、平戸藩の警固する中、黒田藩が出迎えた。福岡藩(黒田氏52万石)はここ相ノ島で摂待をした。12回往来しているが、ここ相島には11回立ち寄り、風待ちで最長23日も停泊した記録もある。相島は国際交流の最先端の場所だったと言える。
  しかし現在は人口430人ほどの漁業の島となり、訪れる人は少ない。相島観光情報
               藍島図(岩国微古館蔵)
 上関での接待を担当した岩国藩(吉川氏)の藩士が描いたもの。他藩の様子を参考にするために外聞の者を出し、自藩の接待の参考にした資料とされている。
 
 1719年朝鮮通信使の製述官申維翰(シンユハン)は、海游録に『余が航海して以来、初めて見る神仙境である』と相島を賛辞して記してある。

9時10分発。新宮から町営渡船で20分。 相ノ島が見えて来た。


相ノ島港で
相島漁港のタコツボ

不思議な島??
@車検切れている?廃車?この島ではナンバープレートが無い車が沢山走っている。
A散策していると、島のおじさんが”焼酎飲んで行かないか?俺たちは飲酒運転している。心配ない”と誘われた。


相島積石塚群
 古墳は主体部に土を小高く盛って墳丘とするのが一般的だが、積石塚は主体部も墳丘も全て石で造られている。このような造りのものは朝鮮半島に多いために、それが日本に伝わって来たと言う説と、たまたまそこに石があったので石で造ったのではと言う説もある。全国で約20万基の古墳があると言われているが、積石塚はわずか2千基程度と言われており、古墳の中でも特殊なものである。
鼻栗瀬(通称めがね岩)と手前と右は相島積石塚群

  124号墳
1辺4.5m,高さ1.5m竪穴系横口式石室を持つ方墳。鉄刀や土器ん小片が見つかっている。
(新宮歴史資料館より)
 相島積石塚群は、254基の積石塚からなる古墳群で、4世紀末から6世紀にかけて造られ。7世紀まで利用されていたことが判っている。積石塚の形は、方墳と円墳が約半分ずつで、主体部(死者を埋葬した部屋)の造りも箱式石棺、縦穴系横口式石室、横穴式石室など種類も豊富でり、保存状態も良好で、古墳の移り変わりを間近にみることが出来る貴重な古代遺跡です。当時の朝鮮南部の須恵器も見つかっており、積石塚の源流と言われている朝鮮半島との繋がりが伺える。     朝鮮半島の積石塚
は、紀元前1000年以上前から7世紀くらいまで造られていた。当時の高句麗の範囲内だけで7000基を越える積石塚が現存していると言われている。



     日蒙供養塔
 アジア全域をその手中に収めたフビライは日本もその支配下に置くために2度にわたり大群を派遣した。蒙古襲来−元寇の役−文永11年3万数千の軍勢が押し寄せた文永の役と、弘安4年の東路軍4万、江南軍十万の総勢14万の軍が押し寄せた弘安の役。この時蒙古軍を暴風雨が襲い、船団は壊滅状態となり、潮の流れにのり、この百合越海岸にも船の残骸、死体が折り重なっていたと伝えられている。この死体を敵味方区別なく手厚く葬った場所が蒙古塚であると言われています。

 碑には、『いつの世も 戦いのあとの むなしさを たおれし魂は きびしく教う』と記されている。


文禄元(1592)年秀吉の朝鮮出兵
           太閤潮井の石
 豊臣秀吉は、1592年、1597年の2回にわたり朝鮮へ攻め入った。私は学校で『朝鮮征伐』と習ったが、今では、『文禄の役、慶長の役』と言われ、『唐入り』、『高麗の陣』とも呼ばれていた。明では『万暦朝鮮の役』、朝鮮では『壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆうん)の倭乱』と言われている。
 秀吉の朝鮮出兵の際、諸国の軍船が名護屋城に向う折この島に寄り、千手観音の利生を祈らんと他所より大石を運び、参詣の度に数え1度に1石を運んだのが、石山を成し、太閤の潮井の石と言われるようになった。
 黒田藩も多くの朝鮮人を連行して帰国した。福岡城下の大堀の北側に集団で収容して、厳しい監視下においた。今日の『唐人町』の始まりである。唐人町は、佐賀や熊本、鹿児島、小倉、広島、岡山、高知、徳島の城下にもあって、学者や医者はもちろん、陶工や大工、石工、紙漉工、活版工、百姓にいたるいろいろな職業の者が拉致されていた。
 特に陶工、石工、紙漉工などは、日本では藩の産業開発に役立てるために朝鮮に比べて地位と生活が保証されていた。その為に彼らは朝鮮へ帰ろうとしなかった。陶磁器、薩摩の樟脳、漢方薬、肥後象嵌や加賀象嵌も彼らの伝えた技術であった。


朝鮮通信使

 第9回朝鮮通信使の黒田藩『朝鮮人来航記』によれば、『1718年10月家老自ら重臣を率いて相島に渡り、通信使一行400余名の泊まる使館と対馬藩宗氏一行800余人と黒田藩接待役の宿舎を建設し、趣を凝らした庭園、警固の番所6カ所、波止場の整備と桟橋の構築、道路の整備、その他海上輸送と警固対策、船の調達等、大変な準備であった。そして10万石を越える大名はその経費をすべて自藩で負担せねばならず、黒田藩52万石の富をこの一小島に結集するほどであった。朝鮮通信使が相島から対馬へ向うと建物は毎回取り壊していた。
 1719年7月24日暴風雨が襲い壱岐の使館が倒壊したが、相ノ島でも新築した使館が一部壊れ、迎護船も多数破損し水夫にも溺死者がでた。不眠不休で修理をし、ようやく歓迎態勢が完了した8月1日昼過ぎ、通信使船団の接近を告げる狼煙が玄界島、志賀島から次々と中継されてくる。三使船の曳舟144隻と対馬藩船の曳舟243隻に船頭と水夫3060人が玄海島沖まで出向き、一行を相島まで警護、曳航する。』とある。
  同じ第9回朝鮮通信使の申維翰の書いた『海游録』によると、『相島から倭の迎護船もいたる。とも綱をもて我が船を繋ぎ、群倭の小船を魚を貫いた如くに連綴し、分けて左右翼となし、その長さ各数十丈。二人の男が大船の先頭に上り、威声をあげるが如く、俯仰しながら櫓を漕ぎ、掛け声節となす。夜に入って各船が4、5灯を点じ、その数は千万点。灯火が大海に群がって列をなし、遠近の雲霞が燦然と照らされる。一行は8月1日黒田領の藍島に着いた。新築された官舎は千間近く、御馳走は壱岐よりもさらに倍する』と記されている。


波止場は1682年第7回の朝鮮通信使が島を訪れた時に、石材は島内のもので、約2カ月間で延べ4千人の人夫で築造したもの。
二つの前波止、先波止ともに石で3段の雁木をつけていた。
前波止(長さ27m,幅3.9mは対馬藩主や随行者の上陸用。  先波止(長さ47m,幅5m)は、通信使の上陸用。
  1763年第11回復路の『朝鮮通信使来朝帰帆官録』によると、11月13日、玄界灘の洋上にて正使乗船の船体が強風と荒波で傷んだ。勝本では結局修理が出来ず、正使は宗対馬守の船に乗り、12月3日勝本を出て藍島へ戻った。しかし副使の船が強風で藍島の大波止磯に座礁し、沈没してしまった。この事件は、黒田藩の責任問題にまで発展した。翌年の5月28日勝本に到着した。この年は災難続きの朝鮮通信使であった。12回は対馬で対応したので、これが最後の朝鮮通信使となった。


朝鮮通信使客館跡
 また、ここ客館にて18日間滞在した申維翰は、雨森芳洲や黒田藩の人々と交歓する楽しみもあったが、多くは机に向かって筆を走らせた。『海游録』には、『遠近から詩を求める者跡を絶たず、紙幅を案上に積み上げて書を乞う。書き終われば薪を積むが如くにまた集まる』とあるように、いささかうんざりした様子が伺える。

平成6年の発掘調査の結果、ここに大規模な建物跡や井戸漆椀、陶磁器などが見つかった。
黒田藩では前年から準備に取り掛かり、豪華な客館を新築したほか、接待側の宿舎などを建築し、さらに波止場の建築、運搬船の準備、道路の整備など、藩は莫大な経費を投じて供応した。最大限のもてなしをするため、御馳走奉行を置き、海の魚はもちろん、川魚やいろいろな鳥や獣を取り寄せ、肉の新鮮さを保つ工夫を凝らした。1682年の通信使の来朝、帰国の時の出費総額は銀284貫現在の28億円だったと言われている(新宮町相島朝鮮通信使より)。

申維翰の記載する『余が航海して以来、
初めて見る神仙境である』を歩いて山頂へ行く。
 申維翰が『高さ十余丈になる奇岩が海面に突出して、左右の両穴が、呀然として(口を開け)あたかも鼻穴の如く』と描写した。
 申維翰が海游録で最大の賛辞を記載した『傾斜した道を歩いて西山に登る。古松長杉が険しい谷間に落々とし、幽草ほう鬆が道の両側に生えている。路は狭くて険しい。登り終わると、遥かにけぶる渚を百里の外に望む。山々は皓々として、あたかも白い練り絹の帯の如く、またあたかも玉連環の如く、藍島を抱き抱えるようにして、尺寸の隙間もない。浦を隔て漁帆が遠近に明滅し、みな鏡面をすべるように往来しているのが歴々として見分けられる。雲は溶々として波浪に堕ちんばかり。松風も発して、雲水に相答える。見る者はたちまちにして恍然として我を忘れる。すなわち余が航海して以来、初て見る神仙境である』を歩いて見ると、、描写したそのままである。

 滝の段
『雲は溶々として波浪に堕ちんばかり。松風も発して、雲水に相答える。見る者はたちまちにして恍然として我を忘れる。』のとおりである。
穴観音への降り口。断崖から海を見下ろす絶景が広がる。


小石原焼と小鹿田(おんだ)焼
 第1〜3回は回答(幕府の使節派遣に対する回答)兼刷還使(秀吉の朝鮮出兵の時、連れて来られた捕虜を連れ帰る)と云われ、日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を朝鮮に連れ帰るのが主目的という意味である。儒家はほとんどが帰国したが、陶工の多くが日本に留まったとされる。これは当時日本で一国ほどの価値があるとされた茶器や陶器を作り出す陶工を大名が庇護の下、士分を与えるなど手厚い待遇をしていたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想によって職人に対する差別があったことが原因である。
 1617年第2回朝鮮通信使扶桑録によると、『対馬島をして船2隻を雇い、崔に3名と対馬島日本通事を連れて、先に西海道小倉、筑前、博多などの地に行き、執政の文書を掲示して、捕虜となった人を刷還して、壱岐島か対馬島などの地で会うように約束した。』とある。
 1624年第3回朝鮮回答兼刷還使の副使姜カン弘重が著わした『東槎録』には、黒田長政に連行された朝鮮婦人が現れ、『被捕虜人与我同在一処者、成一村落、皆思帰而不得』と訴えている。
 八山と呼ばれる陶工も朝鮮から連れて帰った一人であった。福岡県直方の鷹取山で焼き物を焼いていた。身分は士分(朝鮮では奴婢)扱いとなり生活も保証されていたので、彼は刷還使のことを聞いたが、帰らなかった。それが息子に受け継がれ、現在の小石原焼小鹿田焼である。
 1682年黒田光元が伊万里から陶工を招き窯場を開き、中野焼と呼ばれていた。大型のかめ、壷、とっくりなどを焼いていたが、18世紀初め、八山の開いた鷹取焼の陶器が焼かれるようになり小石原焼と呼ばれるようになった。現在窯元が56軒ある。
 小鹿田焼は、江戸中期に小石原焼の陶工柳瀬三左衛門が移り住んで開窯したものである。
 小石原焼と小鹿田焼の美しさを初て世に紹介したのは、柳宗悦である。その後イギリスの陶芸家バーナード・リーチに注目された。朝鮮の李朝中期の陶技をよく伝えており、飾り気のない素朴さと、暖かみのある美しさを保っている。
 上野焼、有田焼、八代焼、薩摩焼、唐津焼、萩焼などが九州山口に根づいた。この李朝風の焼き物はロクロと登り窯により、少量の薪で、短時間に大量生産が可能となった。次第に近畿、中部日本へと広がり、生活容器は、木器から陶器に変わって行った。鍋島藩では、朝鮮人陶工を有田に集め、有田への出入りを厳しく取り締まり、販売は伊万里港に限定するなどして、有田の磁器の製法を秘伝としたが、1661年には九谷焼、1800年会津焼、1807年瀬戸焼、清水焼などへと技術が盗まれて始められた。





14時町営渡船にて相ノ島を後に新宮へ
鼻栗瀬(めがね岩)、玄武岩で高さ20m,周囲100m 14時町営渡船で、相島を後に新宮へ


シーオーレ新宮歴史資料館
朝鮮通信使に出したと言われる『饗応料理』が1682年の黒田家文書から再現されている。
本膳:五菜(なます、焼鯛、煮鳥、
煮物、瓜もみ)、汁、飯
二膳:三菜(湯引き鯛、貝盛、浸物、汁
三膳:一菜(刺身)、汁 引て:五菜(焼鳥、大煮物、煮物、香物)

肴(さかな):四菜(鰻の蒲焼き、博多素麺、
、水貝)、吸物
菓子

朝鮮通信使の船の模型が展示されてある。


               曳航船


千年家物語り
九州で最も古い1650年建築の民家
805年唐から帰国した伝教大師は、とつこ寺を建立するまでこの家に滞在した。
そのお礼に唐の天台山から持ち帰った”法火”と加持祈祷をして杖で大地を突くと清水が分き湧きでた”岩井の水”を授けたと言われている。
曲り屋と呼ばれるL字型に折れ曲がった形をした建物。屋根は茅葺き ”法火”は今も種火としてカマドの灰の中で燃え続けている。

柱や天井は手斧で仕上げた後が美しい 伝教大師から頂いた”岩井の水”


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潮待ちの港・風待ちの港
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