塩飽本島は、香川県丸亀市に属し、大小28の島々からなる塩飽(しわく)諸島の中心の島で、周囲約16Km、古くから海運、廻船業で全国に知られた塩飽水軍の本拠地であり、また咸臨丸の乗組員を多数輩出した島でした。塩飽本島は、伝統的建造物群に指定されている笠島の町並み、昔の役所跡である塩飽勤番所、年寄の墓など貴重な文化遺産が数多く残存する瀬戸内海の宝庫と言える。
昔から瀬戸内海は大陸と大和王国とを結ぶ航路として、船による人々と物の往来が多かった。中世になると、荘園の年貢を運ぶために港が発達し、1180年頃になると、造船技術が発達し、大型船も造られるようになった。その頃造船を代表する所として、塩飽本島と橋倉島(多賀氏)が有名であった。大船持になると、独自に船を修繕する造船所と優秀な船大工まで持っていた。この二つの島は、当時代表する港としても、海賊衆の根拠地としても名を馳せていた。造船、海運、海賊の根拠地として、海で勢力を伸ばした彼らは、交通の要所に海関を設けて、通過する船から関税を取った。これを拒む船があれば武力で犯すこともあった。海賊を同乗させることにより、その勢力の及ぶ海域を安全に航行させる、警護衆としての役割を果たしていた。
平安時代は、平家に味方し、屋島へ向かう義経は備讃瀬戸に近づけず阿波徳島から四国に上陸した。また西国へ落ち延びる平家は、ここ塩飽本島に立ち寄っている。
1588年秀吉は刀狩令と同時に海賊禁止令を発した。これにより海賊衆にとっては、違った生き方をしなければならなくなった。塩飽水軍は秀吉、家康から塩飽7島1250石の領地と塩飽船方650人に朱印状を与えられ、どの大名にも属さず、幕府の水軍−御用船、御用船方として活躍した。船方は人名(にんみょう)と呼ばれ、『人名制』という独特の自治制度が確立された。中央政権と繋がりを持つ塩飽衆は、金毘羅大権現の旗を掲げて日本海を走る北前航路に活躍して巨万の富を島に運び、この頃の本島には、24寺院(現在は3か寺しか僧侶がいない)と11の神社を建てたことは、経済的な豊かさばかりでなく、文化の高かったことを物語っている。
江戸時代中期には、1721年廻船の運航権を大坂の廻船問屋に奪われると、塩飽船方への需要が減少し、島民はそれまでの船大工の技術を生かし家大工や宮大工へと転身し、塩飽大工と呼ばれて中国、近畿地方で活躍したが、次第に島は衰退し、現在は308世帯、595人(2006年8月)が住む、7便/日の船が通う島となった。 |
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1日5便の丸亀港〜本島港フェリーには、私の車だけであった。瀬戸大橋を東に見ながら35分で本島に着く。
塩飽(しわく)諸島とは、『塩焼く』から『しわく』に転じたと言われている。塩飽島では2千年の昔から、浜に広げた海藻に海水をかけて天日に干し、それを焼いた灰を溶かし、濃縮した海水を土器に入れて煮詰めるという製塩方法(藻塩焼く)で作っていたことが遺跡から解っている。 また備讃瀬戸は、流れる潮が複雑で速く『潮が湧くようだ』と言うことから『しわく』と呼んだとも言われている。 |
塩飽勤番所
塩飽勤番所は、寛政の改革の後、塩飽領を統治する役所として、1798年に建築された。当時3人の年寄が交替で勤務していた。 |
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1250石の自治を許された650人の船方衆がいた。海の政所である。 |
1589年秀吉は、小田原の北条攻めを始めた。四国、九州の船舶に兵糧米を積んで大坂から小田原へ向かわせた。遠州灘にさしかかった時、台風に遭い多くの船は鳥羽の港に避難したが、塩飽水軍は奮然と怒涛を乗り切り、予定の期日に兵糧米を小田原へ届けた。
この忠勤に対して、秀吉は翌年朱印状を下し、島人650人を豊臣氏の船方に任じ1250石の地を領有させた。
領地を持っているのは大名と小名に限られていたが、士分でもない船方が領地を持ったのは、初めての異例のことであった。船方で領地持ちの塩飽衆は、大名でもなく、小名でもない、人名と呼んだ。人名は650株から成り立ち、塩飽諸島は650株の共同封地とした。 |
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朱印状とは、武将が領地を与えたり、特別の権利を許可するなどに朱印を押して発行した書状を言う。現在は、印判を押すのに朱肉を用いるが、江戸時代以前には、黒印を押し、将軍のみが朱印を使用したので、朱印状と呼ばれている。 勤番所には、織田信長、豊臣秀吉、秀次、徳川家康、秀忠の朱印状7通が展示されている。 |
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朱印状の保管は、
徳川家から拝領したと伝えられる三つ葉葵の紋章の入った金蒔絵の文箱に入れ、袋に入れる。
これを漆塗りの箱に納め、さらに白木の箱に入れて、
豊島石で作った石櫃に納める。
これを特別に建造した朱印庫(敷地の奥にある)に格納していた。 |
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この織田信長の朱印状は、塩飽の船が堺の港に入港すると、他国の船は75尋(ひろ・約100m)の間をあけて塩飽の船を通すこと、もしそれに違反した場合は処罰することを、天正5年(1577)に堺の代官に命じたもの。
当時の塩飽船の活躍と、信長がいかに塩飽水軍を重視していたかがわかる。
この朱印状には、有名な『天下布武』の信長の朱印が押してある。 |
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1586年九州島津氏を征伐するために50人乗りの船10艘を出すように命じたもの
1590年天下を統一した秀吉は、塩飽の水軍に塩飽領1250石と650人の船方に与える旨の朱印状を発行した。この人達を人名と呼び、以後明治に至るまでその子孫が塩飽を共有することとなる。この朱印状は、記録ばかりで現存しない。後に徳川家康から同じ朱子の朱印状を受けた際に、引替えに差し出したと言われている。 |
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1592年朝鮮出兵の時に、船大工や船頭の徴用と荷物の輸送を命じた秀次の朱印状 |
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秀吉没後は、政権の主導権が徳川に移るであろうことを直感した塩飽の指導者たちは、持ち前の遊泳術を発揮して巧みに徳川方に近付いた。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍併せて15万の軍勢が関が原で戦った。塩飽水軍は徳川について戦い、家康が勝利を収めると、年寄の宮本、入江の両名が家康本陣を訪ねて、戦勝祝詞を述べ引替えに朱印状を申し出た。
9月28日大坂西の丸において交付された朱印状である。
塩飽検地の事 合1250石
右領地当島中船方650人に先例の如く下され候の条、分配せしめ全く領知すべきものなり
と、今まで通り船方650人は、塩飽領1250石の領主となった。塩飽諸島はどの大名にも属さず、また幕府の天領でも無く、島の人達により領有すべきものなり。その後は幕府の御用船方として活躍することになる。 |
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所領を与えられた代りに塩飽人名たちは、江戸の建設期には資材を積んだ塩飽の船が堺港と江戸との間を幾度となく往復した。
1637年島原の乱が起こると船31隻、役加子349名を出動させて、戦具や馬を大阪から島原へ輸送した。
戦いがあれば船を持って参戦したが、泰平の世になると、塩飽水軍の役目は、幕府の目付衆、巡視使、長崎奉行などが大阪から九州へ往来する時、そして国替えになった大名の移動で瀬戸内海を往来する時、朝鮮通信使の送迎も命ぜられるようになった。いつも塩飽から加子140〜150名を出動させられ、課せられた義務は決して軽いものではなかた。 |
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1860年日米修好通商条約の批准書を交換すべく,、日本人の手によって初て太平洋を横断した咸臨丸の水夫は、50名中35名を塩飽の島民が占めていた。
明治以降は海軍の建設に貢献した。 |
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年寄の墓(3カ所ある)
年寄というのは、近世において塩飽を統治した人の役職名である。年寄は、名字、帯刀を許された塩飽の最高権力者であった。幕府の直轄領であった塩飽は、船手奉行(大坂川口役所)の支配を受けながら、同時に秀吉、家康から受けた朱印状によって、1250石の塩飽領を650人の船方が領有するという2面性を持っていた。幕府からの通達や島からの届けは、すべて年寄を通じて行っていた。年貢や魚場からの運上賃などの収益は、幕府に納める事なく、島で自由に使用することが認められていた。寛政の改革以前は、年寄が4名いてその下に浦役人として庄屋と組頭がいた。年寄は宮本三家と吉田家が世襲で、年寄は自宅に朱印状を保管し、他の3人と相談しながら政務を司っていた。
1789年に大改革が行われた。廻船業の衰退によって収入減を失った塩飽は、幕府から課せられた公役による出費と公費の乱用によって、島中の財政が困窮している現状を訴え出た。幕府は、従来の年寄全員罷免となり、後任には一代限りの年寄が選挙で選ばれることになった。公費節減の為に、勤番所が創設された。 |
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年寄吉田彦右衛門の墓
泊から笠島に入る旧道に面して6基の位牌型の人名墓がある。
右端は、高さ228cm,1679年に建てられた弥右衛門夫婦の逆修塔(ぎゃくしゅうとう)である。逆修塔とは生前に予め冥福を祈り建てる塔のことである。
右から2番目は、高さ342cm、幅93cmの吉田彦右衛門夫婦の逆修塔である。下部には、相対する狛犬、台石には花瓶、蓮華、鶴亀のロウソク立てを刻んでいる。
右から3番目は、高さ320cm,1627年に建てられた吉田家夫婦の逆修塔である。
吉田家は代々、彦右衛門を名乗り、宮本3家と並び長く塩飽諸島を治める年寄役を努めた。
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年寄宮本家の墓
塩飽の古くからの豪族で、水軍として海外でも活躍した宮本家歴代の11基と灯籠1基が建っている。
正面一番大きい墓は、高さ340cm,1627年に建てられた初代吉田伝大夫の逆修塔である。
その左は、高さ305cm1627年に建てられた第2代吉田半右衛門(木烏神社の鳥居を寄進した人)の墓である。
正面一番大きい墓の右は、高さ271cm,1690年に建てられた第3代吉田伝左衛門の墓である。
親より大きくしない風習で、徐々に小さくしてある。下部には、狛犬、蓮華の模様が彫ってある。 |
江戸時代の南海治乱記によると、鎌倉時代の備讃の海上には海賊が横行し、西国に赴く人々を困られていた。鎌倉幕府は、讃岐の豪族香西家資に命じて討伐させ、諸島の警固に当たらせた。家資は自分の息子を宮本と名乗らせ、塩飽と直島に住まわせて海上の警固に努めさせた。
宮本家は、その後塩飽の豪族として、勘合符貿易の船大将として、朝鮮、明国に渡海して交易の利を上げた。また秀吉の天下統一の戦いには、塩飽船方の頭領として、功績を立て、秀吉から朱印状を受けるに大きな働きをした。 |
専称寺
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笠島に入る坂の上にある専称寺。法然上人はそれまでの自力本願である真言宗、天台宗に対して、専修念仏を唱え他力浄土の教えを開くと、他の仏門から弾圧を受けることとなった。後鳥羽上皇の寵愛の鈴虫、松虫の二人の女房が熊野詣での留守中に出家してしまったことに立腹し、法然上人を土佐へ流刑となった。1207年3月16日京都を立ち、その途中3月26日笠島へ到着した。塩飽では上人を歓待して、数カ月滞在して讃岐へ渡った。1578年徳誉道泉僧が法然上人の遺跡を訪ねて来て、ここに寺を建てた。 |
笠島の町並み国の重要伝統的建造物群保存地区
ここを根拠に海賊衆が海へ進出して行ったもので、江戸時代には塩飽衆が、その富と誇りを競い合って
屋敷に意匠を凝らして作った町並みが、今も江戸時代の建物が13棟、明治のものが20棟保存されている。 |
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東小路を北へ向かって、道は弓なりになっている |
東小路を南へ向かって |
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マツチョ通り |
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真木邸(町並み保存センター) |
見通しが出来ないように、マツチョ通りは弓なりになっている。 |
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江戸時代の建築で、年寄も勤めた人もある真木邸 |
2階の格子窓。ここでは養蚕を飼っていた。 |
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真木邸の中庭にある土蔵と井戸 |
持ちおくり。下屋根を支えるもので、塩飽大工の腕を競うように、凝った彫刻がしてある。 |
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小栗邸(ふれあいの館)道に面して千本格子の窓をあしらい、側面には、中2階に設けられた虫籠窓がある。かっては廻船問屋であった。 |
笠島港
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今は、造船所の痕跡すら無い。それどころか島には船大工すらいない。 |
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江戸時代中期は、塩飽の廻船が最も活躍した時代であった。1671年に東回り航路(太平洋航路)は、津軽半島を南下して江戸に至るもので、江戸まで近いという利点はあるが、東北沖の速い潮の流れに流されてしまう危険があるため、あまり使わなかった。塩飽の廻船はこの航路にも従事した海図も保存されている。
1672年に開かれた西廻航路に主として従事し、東北の産物を日本海、瀬戸内海を通って大坂へ運んでいた。
塩飽の造船所については、ドイツ人医師シーボルトの『江戸参府紀行』には次のように記載され、当時の様子が伺える。『6フィートの厚さのある花崗岩で出来ている石垣で海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には非常に大きい船でも特別な入口を通って入ってくるが、引き潮になるとすっかり水が引いて船を詳しく検査することが出来る。人々は丁度沢山の船の艤装に従事していた。そのうち、いく隻かの船の周りでは藁を燃やし、その火でフナクイムシの害から船を守ろうとしていた。』またここは下関と大阪の間では船を修理するのに最も都合の良い場所だという注釈まで加えられている。 |
夫婦倉
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1851年に建てられた廻船業の土蔵で、夫婦倉と呼ばれている。
塩飽大工の技術の高さが分る。 |
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木烏神社
島の神社の多くは海のそばが、海を見渡せる所に建っている。航海安全を見守って欲しいと祈る心がそうさせたのだろうか? |
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石の鳥居は、上部の笠木の両端が丸く盛り上がった独特の型をしており、柱は太さが下になるほど太くなっている。また台石がなく深く掘って埋めてある。1627年年寄宮本半右衛門が寄進したと柱に刻字されてある。 |
制札場(せいさつば)
江戸時代に塩飽勤番所から出された触書や法度、掟などを掲示して住民に周知させた場所であった。島内に3カ所あったと言われるが、ここだけが現存している。 |
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本殿は1674年再建されたもの。
本殿左の一見倉庫風の建物は、1862年に建てられた千歳座
庶民は遊芸を楽しむことを禁じられていた時代、神社の道具納屋と言う名目で建てられた。大阪町奉行の支配下にあった島の役人達は大阪に行く機会が多く、また廻船業や大工職として上方の演芸に接する機会があったので、自分達で常設の芝居小屋を建てて、芝居を楽しんでいたと思われる。
正面の雨戸を開くと、”ぶちょう”と呼ばれるはね出しを前に倒すと6間の舞台が現れる仕組みになっている。小屋の中には直径7.7mの廻り舞台やぶどう棚などを備えた本格的な芝居小屋である。屋外に花道をつけ、境内が観客席になる、全国的にも数少ない芝居小屋の1つである。 |
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1721年、廻船の運航権を大坂の廻船問屋に奪われると、島民はそれまでの船大工の技術を生かし家大工や宮大工へと転身し、塩飽大工と呼ばれ瀬戸内海沿岸や近畿地方を中心に建築を行った。1759年〜1769年本島泊の大江紋兵衛常信は吉備津神社本拝殿、生の浜の橘貫五郎は備中国分寺五重塔と善通寺五重塔を建てた。なおこの頃を牛島極楽寺に残る塩飽島諸事覚は、「島内で暮らしを立てるのは難しく、男子は十二、三歳から他国で水夫をしたり、多くは大工職として近国に出稼ぎに出た」と記している。明治になると大阪や神戸にも出て、50人から100人の大工を抱えて腕を振っていたらしい。 |
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塩飽本島を後に丸亀へ |
瀬戸大橋を見ながらフェリーで35分 |
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丸亀うちわの港ミュージアム
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丸亀うちわは、江戸初期に金毘羅参りの土産物として始まり、丸亀京極藩が武士の内職に奨励したこともあり、丸亀の代表的な地場産業として発展を続けた。
うちわの港ミュージアムは、丸亀うちわの歴史を伝えるさまざまなうちわを展示、実演コーナーでは伝統の技と工程が見学出来る。また全国の主なうちわも展示されている。 |
丸亀市塩飽諸島 丸亀市観光協会 |
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