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縄文時代から、北部九州と朝鮮半島との交流が盛んに行われていたことは、石器や土器、墓から確定出来ている。 弥生時代に、稲作と金属器が伝わって来ると、各地に小さなクニが出来、そして渡来系弥生人が多量に日本へ移住してくる。 紀元前500〜700年頃に青銅器文化を持つ部族国家が形成され、その総称が古朝鮮と呼ばれたが、紀元前108年漢国により滅ぼされる。漢国は4郡(楽浪、臨屯、ヒョンド、真番)を設置して統治した。倭国は楽浪郡の統治下に置かれた。紀元前37年朱蒙(チュモン)は高句麗を建国する。この高句麗の紋章が3足の烏である。これが日本の八咫烏(やたがらす)とよく似ている。 4世紀以後、高句麗、百済、新羅(しらぎ)が三つ巴の激しい勢力争いを繰り返していた中、倭軍は391年から任那へ進出した。百済と新羅は王子を人質として差し出すと共に倭国に朝貢をしていた。660年新羅は唐に援軍を求め、10万の唐軍と新羅連合軍は百済を滅亡させ、そして663年百済救済に向かった倭軍は白村江で敗退する。これにより大和朝廷は朝鮮半島から撤退し、疎開する数万人の百済の人々が渡来して来た。その渡来人の活動の上に飛鳥文化が花開いた。その後新羅は高句麗を滅ぼし、679年朝鮮半島を統一した。新羅からの文化は、天平文化へと発展した。新羅より伝わった華厳宗は、東大寺や国分寺として今も崇拝されている。 668〜779年新羅使と遣新羅使は、相互に往来し、『青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂うが如く 今盛りなり。』とうたわれるように平城京は栄えた。新羅王朝が935年高麗に滅ぼされるまで、千年の都として慶州は繁栄する。 1392年に李氏朝鮮が建国されると、都は漢陽(ソウル)に移り、仏教弾圧政策が行われ、慶州の仏像やお寺は次々に破壊されてしまったことは、残念である。李氏朝鮮との関係は、秀吉の朝鮮出兵で険悪となったが、対馬藩の努力により朝鮮通信使として蘇った。 1910年日韓併合が行われ、韓国は長かった鎖国を解除し、日本の指導のもとで近代化への道を歩み始めた。 第二次世界大戦が終わり日本の統治から解放され、李承晩ら右派民族主義者を中心として建国された当初、韓国と日本の関係は冷ややかなものであった。韓国が日本海上に一方的に李承晩ラインを設定し、この線を越えて操業する日本漁船を拿捕し、乗員を抑留した。李承晩政権期は国交断絶状態であったが、知日的な朴正煕政権が成立し、両国の国交は正常化された。 1961年から1987年までは、軍事政権による言論統制が続き、新聞業界の再編などが行われた。韓国では、長い間「国民感情を害する」との名目により、日本の大衆文化が流入することを事実上禁止してきた。そして日本の映画、ドラマ、音楽などは公には禁止されてきた。本格的な言論の自由は1998年に発足した金大中政権以降、日本の大衆文化開放が段階的に4回実施されており、2年前から日本の大衆文化に触れられるようになった。 言論統制がやっと終わった韓国は、今までの異なった価値観の世界を絶対に許そうとしない頑くなな姿勢を見直し、日本人に関係する歴史も掘り起こし(対馬の韓国に対する気の使い方は異常にさえ思える。少しは見習って欲しい。)、今後は相互が協力し、世界平和と産業の発展に貢献することが大切だと思う。 |
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慶州−新羅王国の都
大陵苑(古墳公園)
国立慶州博物館 国立慶州博物館
新羅の黄金文化
仏国寺
石窟庵
翡翠を思わせる薄い緑色の磁器
東莱(とんね)府
ショッピング
食事
龍頭山公園
子城台(釜山鎮支城)
永嘉台
このような盛大、厳粛な儀式を行い、釜山港を出航して行った。
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