大崎下島 風待ちの港
潮待ちの港 御手洗
風待ちの港

御手洗港を 素通りする船は 親子のりかよ 金無しか  とまで俗謡に歌われるようになった
      黄色の線は、沖乗り航路。
伊予津和地島から斎灘を一気に渡り、御手洗港へ、そして伊予大三島と伯方島にはさまれた鼻栗瀬戸を抜け、岩城島、弓削島を経て鞆ノ浦へ向かうものであった。

<新たに開かれた港町:御手洗>
 斎灘(さいなだ)に浮かぶ大崎下島御手洗港は”沖乗り”行路の寄港地として、新たに開かれた港町である。瀬戸内海航路は、中世までは殆どが陸地に沿って航行する”地乗り(伊予津和地島から安芸の海域に入り、橋倉島南端の狩老渡かろうとを経て、下蒲刈島の三ノ瀬に寄港し、豊田灘に入って山陽沿岸を、竹原、三原、尾道を通って鞆ノ浦へ至る)”であった。
<近世> 航海技術の革新 瀬戸内海の中央部の最短距離を行く沖乗り航路の登場
 ところが近世になると、航海技術(木綿帆、地図、計器など)が進み。瀬戸内海の中央部の最短距離を行く”沖乗り”航路が利用され始めた。沖乗り航路は、伊予津和地島から斎灘を一気に渡り、鞆ノ浦へ向かうものであった。途中潮待ち、風待ちをする港が必要になった。斎灘には多くの島が浮かんでいるが、島々の南側は直接南風を受けるために天然の良港が見当たらず、集落も殆ど発達していない。多くの集落は小島に挟まれた瀬戸にのぞむ風当たりの少ない所を選んで作られている。ところがこれらの小島に挟まれた瀬戸の多くは、北東方向へ向けて抜けており、潮の流れが速く、上げ潮や引き潮の時は、繋船が出来ないほどの沿岸流が起こる。斎灘の中で、御手洗水道は、大崎上島と岡村島に挟まれ、北西方向へ抜けており、北には中島、平羅島が浮かび、これらが潮流の障壁をなしており、潮の流れが比較的緩やかであった。このような自然環境から御手洗港が潮待、風待ちの港として注目されるようになった。
江戸時代中期>目覚ましい勢いで発展
 1638年安芸藩による”地詰”では屋敷はなく住む人はいないと記載されてある。無人であったこの地に1666年18軒が大長から移住した。1672年幕府の命を受けた河村瑞賢が西廻り航路を開いた少し前であった。沖行く舟の数が増えてゆき、中にはこの地に寄港する船もあった。人家は1748年83戸、1768年106戸、1783年241戸、1801年302戸と目覚ましい勢いで増えた。御手洗が沖行く船を引き付け著しい繁栄を図るために、4軒の遊女屋を置くことが広島藩から公認され約100名の遊女がいたといわれている。北前船が一度に50隻、100隻も入港したことがあったとも言われている。各地の年貢米や特産物が大阪へ運ばれる途中、御手洗でそれらの取引が行われた。幕府の公用船の停泊する港に指定され、公用船にはオランダ商館員、琉球使節、長崎に送還される漂流外国船などがありました。海の交差点であっただけに、多くの著名人が旅行の途中に立ち寄り、旅の疲れを癒しました。吉田松陰、坂本龍馬、三條実美、大久保利通など。
<明治時代> 山陽線の開通と機帆船の時代を迎え、終焉を迎える風待ちの港
 明治時代になると山陽線の開通と機帆船の時代を迎え、潮待ち、風待ちの港は必要性がなくなった。中継的商業は衰退の一路を辿り、明治10年に400戸余りを数えていたのが、減少に転じた。大正時代は伝統の船大工の活躍で造船景気を迎えたが、戦後は他の土地に出稼ぎに行き、そのまま出先に住み着くことが少なくなかった。機帆船の船乗り相手の色街がかすかに息をつないでいたが、これも昭和33年4月1日売春防止法が施行され、300年間御手洗の繁栄を支えてきたその姿は完全に消えてしまった。
<現在>蜜柑の里として生まれ変わる。
 
現在は212戸に減少し、蜜柑栽培の盛んな土地をして知られるようになった。温州みかんでは広島県一の出荷量を誇る一大ブランド、大長蜜柑が誕生した。温暖な瀬戸内海式気候と水はけの良い石積みの段々畑で栽培される大長蜜柑の里として生まれ変わった。




上蒲刈島の大浦港7時55分発フェリーで豊島を経由し大崎下島の立花港に8時20分着(山陽商船KK)

上蒲刈島の大浦港を離岸したフェリーは 大崎下島、沖ノ島、笹島を右手に見ながら御手洗港へ 左に大崎上島、右に大崎下島を

波穏やかな早朝の瀬戸内海を行く

御手洗港から 歴史の見える丘公園から
平羅島、中ノ島(広島県)、岡村島(愛媛県)を望む
御手洗港は、北西方向に瀬戸が広がり、これらの島々が防波堤の役をなし波静かな天然の良港である。



江戸時代の高灯籠(千砂子浜の目印で3里先から確認出来た)
住吉神社の太鼓橋(大阪の豪商鴻池氏が建立した)
千砂子波止
江戸時代に築かれた瀬戸内海有数の防波堤


常盤町とおり(国の重要伝統的建造物保存地区)
迷路のように延びる古い路地を巡ると、そこかしこに江戸時代の建築物を見る事が出来る。
御手洗の沖を通る船から、荷を買い取り、他の船に売る商売、あるいは買い取った積荷を1時蔵に納めて、時機を見て売り出す中継的商業が盛んになり、富を蓄えた商人が沢山出た。

正面は菊本家住宅(1806年築、御手洗町の初代年寄りを勤めた)
伊能忠敬が1806年3月30日から3日間大崎島一帯を調査した時宿泊した。

ツユンベリーの江戸参府随行記(1776年)によると、すべての港には通常何軒かの遊興の家を設けるという奇妙な配慮がなされていた。一般にはこれらの家が一番奇麗で豪華に飾られている。地の家室のような狭い場所でも女性の数は50人を下らないといわれている。上関には2軒で女性80人、御手洗には整った状態のこの種の家が4軒も有るそうだ。こんなにも悪徳に満ちた施設が有ることに驚き、あらゆる方法で調査を試みた。
若胡子(わかえびす)屋跡
4軒の茶屋に100名の遊女が、そのうち遊女40人を抱えて最も繁盛していた若胡子屋が出来たのは1742年、また上関から質流れとして女子供30余人を湯女として連れて帰って来たとの記録がある。遊女の生活に耐えかねて逃亡しようとしても、海に囲まれた島のこととて、容易には成功しなかった。
 泊まり船の間を縫うように、宵闇の海にカンテラを灯して漕ぎ廻る”おちょろ舟”、遊女を乗せ、船乗りの一夜妻を勤めた。古くは舟に食料品や薪、水などを売る”菜売り女”が”舟にて後家商い”をしていた。これが職業化した。御手洗は7里7島、5里5島と呼ばれた島々の中でも古くから遊女の島として船人たちに広く知られ、彼らの旅情を慰めてきた所。北前船(千石船)や四国九州の諸大名の参勤交代の時、オランダ商館の江戸参りの途中など、、彼女らの働きは、諸国の船を引き付けただけでなく、出来銀への出銀は大きかった。出来金は、御手洗が負担しなければならない諸経費や、商売の資金として当てられた。(おちょろ舟終えんの記より)

天神社
901年菅原道真公が太宰府に左遷された時、船をこの地に寄せ、このところで口をすすぎ、御手を洗われた所と言われている。正月の書き初めは必ずこの水を汲んで書いたそうだ。

←菅公の碑
我たのむ 人むなしくなすならば 天が下にて 名をやなかさん

豊臣秀吉の四国征伐の時に築いたと伝えられる城跡 琉球使節が書き残したもの


船宿(薩摩藩、熊本藩、中津藩、延岡藩、小倉藩、福岡藩、大洲藩、
宇和島藩などが船宿を定めた。また高杉晋作らも立ち寄ったと伝えられる)

恵比須神社

七卿落遺跡(庄屋竹原屋)
竹原屋内部

1864年五卿(三条実美、三条西季知、東久世通とみ、壬生基修、四条隆歌)は、長州軍と共に山口を出て京都に攻上る途中、多度津まで登って、京都蛤御門の戦いで長州軍が敗北したことを知り、再び長州に引き返した。その途中7月22日から24日にかけて、この竹原屋で旅の疲れを癒した。
この竹原屋では、オランダ商館の人が駐在して薩摩藩などと武器の密貿易もしていた。また広島藩は軍艦購入のため、薩摩藩とここで交渉した、明治維新の陰の舞台となっていた。 

大長みかんの島。
山の斜面には、5月末みかんの花が咲き、
島全体が独特の甘い香りが漂う。

10月段々畑にはみかんが沢山実っていた。→

豊島と大崎下島を結ぶ豊浜大橋


潮待ちの港・風待ちの港
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