大輪田泊 潮待ちの港 兵庫津

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす、おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き人も遂には亡びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ
  潮待ちの港の中で、これ程歴史的内容のある、また戦いや戦争、そして災害により廃墟と化しては復興を繰り返して来た港は珍しい。古くは日本書紀に出てくる神功皇后伝説の時代に始まり、奈良時代から”大輪田泊”と呼ばれる良港として栄えた。特に平安時代には平清盛による大輪田泊の修築と中国宋との貿易、福原遷都、そして源平合戦による焼却。鎌倉時代には重源の大輪田泊の修築により、国内第一の港として"兵庫津"と呼ばれるようになった。南北朝時代には湊川合戦の戦場となって再び廃墟と化した。江戸時代には朝鮮通信使や北前船、尾州廻船など瀬戸内海運の拠点として栄えた。 1868年1月1日日米修好通商条約により、神戸港が開港され、交易の拠点としての地位を神戸に譲り、明治以降兵庫津は産業の拠点として発展して来た。太平洋戦争による戦災と復興、そして阪神淡路地震による震災復興と発展している。
平清盛
 平氏の栄華を支えた最大の財政基盤は、日宋貿易による収益だった。1153年(保元三年)清盛は日宋貿易に本格的に乗り出し、まず重要拠点として門司を、ついで安芸国に音戸の瀬戸を開削し、大型船が瀬戸内海を航行出来るようにした。1167年太政大臣となった清盛は、宋船が大輪田泊に直接入港できるように修築を行い、清盛自身も港近くの福原に別荘を構え、ここで政治の実権と権力を行使した。防波堤となる人工の島経ケ島(きょうのしま。築島。和田岬によって南西風と潮流から守られるが南東風に弱い為に)を築造し、その背後に都(福原京)が広がっていった。清盛は理想郷である都福原(大輪田泊)を作ったが、1181年その完成を見ずに死亡した。清盛亡き後、1184年義経の奇襲にあった平家は、福原を焼き払い大輪田泊(兵庫津)から屋島へと逃げ延びた。800年を過ぎた今は跡形も無い。神戸源平物語り 。
鎌倉〜安土桃山時代
 平家滅亡後、兵庫津が一般的な呼名になった。応仁の乱の戦場によって国際港としての地位は堺に譲りるが、瀬戸内海の重要な港であった。
足利義満が明貿易の拠点にしてから本格的な市街地が形成された。

兵庫津は織田信長や豊臣秀吉ら武将たちの保護を受け、その家臣である池田恒興によって兵庫城とその城下である都市の整備が進められた。

江戸時代
 兵庫津の尼崎藩による支配は、元和3年(1617)に尼崎城に入った戸田氏に始まり、青山氏、松平氏と続き、明和6年(1769)に幕府領に編入されるまで約150年にわたった。尼崎藩は兵庫城跡に陣屋を置き、兵庫奉行を派遣して支配を行っていた。
 1769年、兵庫津から幕府領に編入されると、大坂町奉行所の支配を受けることになり、勤番所には大坂町奉行所から与力・同心が派遣され、常駐した。
 朝鮮通信使の兵庫津での接待を任された尼崎藩は、港の準備や宿泊先の手配などに奔走した。 朝鮮通信使の宿となったのは阿弥陀寺でした。。
近世になって”西廻り航路”の開拓により、再び繁栄することなった。これは、瀬戸内海から下関を経て日本海沿岸をたどる海上ルートで、 途中で荷物の積み下ろしがないため、安価で大量の輸送が可能となり、 高田屋嘉兵衛をはじめとする豪商たちが兵庫を拠点に活躍した
港町であった兵庫津には各地から様々な物資が集散し、多くの人々が行き交った。蝦夷地との交易で活躍した北前船や、知多半島を拠点として江戸と上方を結んだ尾州廻船とも深いつながりを持つなど、独自の発展を見せた。 兵庫津は発展し、18世紀には2万人を越える人々が暮らしていた。
幕末から現代へ
 嘉永7年(1854)ロシア使節プチャーチンの大阪湾侵入により、周辺の海防が重視され、文久3年(1863)には和田岬・湊川・西宮・今津に洋式砲台の築造が開始された。一方、「兵庫開港」は、安政5年(1858)の日米修好通商条約で、1863年1月1日と定めたが、朝廷の反対にあい、隣の神戸村に1868年1月1日、神戸開港として実現した。
 兵庫津は神戸開港によって、交易の拠点としての地位を神戸に譲り、その後、兵庫では新川運河や兵庫運河が開削され、川崎造船所や三菱造船所といった重工業をはじめとする工場が建設され、産業の拠点として発展している。

兵庫津
中世、平清盛によって基礎が築かれた”大輪田の泊”は、その後改修を経て、鎌倉時代には国内第一の港として”兵庫津”と呼ばれるようになった。
この港から新羅へ宋へ明へ、そして朝鮮通信使、オランダ商館船、北前船など沢山の船の出入りが有り、潮待ちの港の中で最も栄えた港であった。

大輪田の泊の石椋 整備された"兵庫津の道"案内板 神戸市立博物館蔵より 1865年

兵庫運河と大輪田橋

大輪田泊にちなんでつけられた橋。兵庫運河は大正13年竣工され、大輪田橋も同年竣工した。
ここは”大輪田”という名を残す唯一の建造物。昭和20年3月17日の神戸大空襲では橋の上や下で多数の犠牲者が出た。
この運河は日本最大の運河で、兵庫津の沖を航行する船舶の避難泊地として、また荷揚げ場として大きな機能を果たしてきたが、現在では、貯木場として使われている。


和田神社
和田崎町(三菱重工業(構内)にあったが、明治34年造船所の新設に伴い、現在地に移転した。ここには平清盛が兵庫港の工事の際に勧請した弁財天もまつられている。寛文2年(1662)に領主の尼崎藩主青山幸利が本社社殿を造営、神社の景観が整ったといわれている。

             薬仙寺
行基が開山したと言われる時宗のお寺。寺の名は、後醍醐天皇が福厳寺に泊まられたとき、この地の霊水を服薬したら頭痛が治った由来による。
兵庫開港時はイギリス公使の宿舎となった。
萱(かや)の御所跡の碑
”牢の御所”とも言われ、清盛が後白河法王を1179年に幽閉したところ
神戸大空襲の供養碑→
1945年3月17日の大空襲と1995年1月17日の阪神淡路大地震による災害で崩落した大輪田橋の修復に当たり、旧石材をモニュメントとして保存した。
キャナルプロムナード
兵庫城跡。1580年信長の家臣池田恒興がここに築城した。江戸時代1617年尼崎藩領になり、藩の陣屋となり、1769年幕府領となってからは大坂町奉行所の勤番所となった。1868年明治新政府はこの城跡に兵庫鎮台を設け、兵庫裁判所、兵庫県庁と移り変わった。1874年新川運が開削がされ、城跡は川敷になってしまった。兵庫県庁は1872年現在地に移転した。今、新川運河沿いはキャナルプロムナードとして整備され、市民の憩いの場となっている。

清盛橋
清盛塚

高さ8.5mの十三重石塔が清盛塚(供養塔)。
平清盛は、全盛期を神戸で過ごし、経が島築造の大事業を完成し、兵庫津、福原を作った功績は大きい。


能福寺の兵庫大仏

 能福寺は、805年唐から帰国した最澄が自作の薬師如来像を安置して建立した。清盛の剃髪出家や住職が清盛の遺骨を持ち帰ったという逸話がある。
 大仏は明治時代に建立され、昭和18年金属回収令により破壊され、平成3年に復興された。

七宮神社

平清盛が兵庫の築島工事の完成祈願のため社殿を建立したと言われている。社殿は戦災で焼失、古文書類など文化財も戦災で失われ、その後復興したが、阪神淡路大震災で社務所、門などを失い完全復興には至っていない。


札場の辻跡
西国街道は東の入り口である湊口惣門から、西の入り口である柳原惣門へ抜ける。南仲町は、兵庫の中心に当たり、ここに大きな高札場があった。
真光寺
時宗の開祖、一遍上人が亡くなった寺として伝えられている。 一遍上人は、おどり念仏と呼ばれる独特の布教方法により、仝国を遍歴した。

竹尾稲荷境内の高田屋嘉兵衛顕彰碑
 高田屋嘉兵衛は、淡路国に生まれ、寛政4年(1792)24才で兵庫に来住、江戸通いの船に乗り込み、そして、わずか4年後には1500石積の辰悦(しんえつ)丸を建造して自ら船主になった。
 やがて北前船での交易に従事して巨利を得、西出町に本店をかまえ、後には函館、大阪にも支店を設けた。
 嘉兵衛は、幕府御用船頭として前人未踏の地であるエトロフ島への渡航にも初めて成功し、北海航路を大発展させた。
 また、ゴローニン事件(ロシア海軍軍人ゴローニンが千島列島測量中に松前藩に捕えられた事件)をきっかけに日ロシア間に紛争が生じた際には、一身を投げ出して事件を解決させ、日本はもちろんロシアにまで有名となり英雄視された。
 このことは、故司馬遼太郎氏の小説「菜の花の沖」で取り上げられた

兵庫西惣門跡の碑
西国街道西の入り口であり、ここから須磨明石へ向かう 


神戸港
神戸観光写真集より
兵庫津は神戸開港によって、交易の拠点としての地位を神戸に譲り衰退した。
一方国際貿易港としての神戸は益々の発展を遂げている。

異人館
うろこの館

風見鶏の館


ドイツ人貿易商ゴッドフリート・トーマス氏が、
自邸として建てた建物



ルミナリエ

『神戸ルミナリエ』は、阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を
込めるとともに、都市の復興・再生への夢と希望を託し、
大震災の起こった1995年12月に初めて開催した。
今年、2005年で11回目を迎える『神戸ルミナリエ』
潮待ちの港・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐呼子末盧国伊都国相島門司港赤間関室積上関沖の家室津和地蒲刈御手洗・鞆ノ浦下津井塩飽本島牛窓赤穂室津兵庫津北前船