1719年第9回朝鮮通信使(対馬藩真文役雨森芳洲や『海游録』を書いた製述官申維翰も随行)は、『8月18日の早朝一行は再び赤間関へ向けて船を出した。やがて小倉城が右手に見え始めると、小倉藩の船団が現れ、相ノ島からの黒田藩護衛船団と交替した。小倉を過ぎ、巌流島(船島)に近付くと、長州藩の迎護船団が待ち受けていた。藩の出迎え役人船や水路案内の指揮船、警護船や曳舟百二十隻の大船団である。長州藩は船島から上関まで護衛する任務が負わせていて、そのために徴集した船は六百十隻、人員二千九百名を越えた。赤間関と上関の摂待要員を加えると五千名の大部隊である。赤間関で5日間を過ごした一行は、8月24日の夕方、出航し折からの西風を利用して一気に三田尻迄進み、西浦に船を泊めて一泊した。翌25日も順風だったので、通信使船と対馬藩の諸船および長州藩の護衛船など1千隻の大船団は、飛ぶような早さで徳山、笠戸沖をかすめる、上関には日没前に着いた』と、海游録に記してある。
8月26日の早朝、一行は屋代島の南をかすめ、津和地島、橋倉島の東岸を経て、夕刻までに蒲刈の三ノ瀬港へ入る予定で出航した。 |
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朝鮮通信使上関来航図(超専寺蔵)
1711年には上関入港の長州藩の関船、通船、小早船など合計655隻、総人員4566人、藩士、藩民の延べ動員数9700人でもてなしたとある。
この絵は、上関の超専寺に伝わるものである。先頭を行く対馬藩の船団は桟橋に近づいており、その後に従船を従えた3使の船団が続いている。海上護衛の村上水軍の舟が囲み、上関に入港する様子が対岸の室津から描かれている。しかし落款の1821年には朝鮮通信使の来日はなく、1821年に作者が想像により描いたものとされている。 |
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お茶屋跡
ここから海岸線までの3000坪に、お茶屋(迎賓館)と呼ばれる御殿や客館、長屋敷、番所が建てられた。江戸時代萩藩の迎賓館として使用され、藩主はもとより参勤交代の諸大名、幕府の使者、朝鮮通信使なども宿泊した。
現在は熊毛南高校上関分校(全校生徒数41名)となっている。 |
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朝鮮通信使によれば、第1回1607年復路『6月13日終日風が吹き雨が降る。波濤は盛んに沸き立ち、船を出すことが出来ず、そのまま室津に逗留する。14日朝雨。遅くなって晴。朝食後、風勢が順風のようなので、帆を上げて船出する。牛窓、下津井などの村を過ぎ午後8時に鞆ノ浦に到着して泊まる。15日曇あるいは晴。夜明け頃船を出す。東風が続いて吹き、帆船ははなはだ速く、三十余海里進んで日が既に暮れた。風はかすかに吹き、海は静かで、月の光りは昼のようであった。櫓を漕いで行き、上関に到着して泊まったが、夜明けの鶏が既に鳴いていた。』
第5回1643年には『鞆ノ浦の水辺にある人家は千戸を下らず、灯火の明かるく輝くさまも上関に次ぐものがある』と書かれており、上関が当時栄えていたことが伺える。
第9回1719年申維翰の海游録には、『館宇は新築ではなく、周防太守の茶屋である。屏帳や器具は赤間関に及ばず、左右の民屋もきわめて少ない』と記されている。毛利藩では、お茶屋は朝鮮通信使専用ではなく、迎賓館として使用していた。 |