1大陸文化の倭国への中継地
2国境の悲運と宗氏の功績
3朝鮮通信使
4要塞の島・対馬
潮待ちの港
潮待ちの港 対馬No3朝鮮通信使
風待ちの港
  朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は、狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。
 一般に江戸期の国際関係は「鎖国」という言葉で知られているが、しかし実際には、オランダ・中国・朝鮮・琉球の四ケ国と交流は続けられていた。その方法は相手国によってそれぞれ異なり、オランダ・中国とは長崎出島における通商関係にのみ限られ、琉球国は薩摩藩の属領としての扱いであった。
 このような時代、徳川将軍と朝鮮国王が互いに国書を交換しあう、対等の友好国として国交を結んでいた。いわばわが国にとって唯一の、正式な「将軍の外交」だったわけで、朝鮮国王より将軍に対して「信を通じる=友好のあかし」使節として遣わされたのが通信使でした。

 朝鮮通信使は、正使以下6隻400人から500名にも及ぶ大使節団であり、当時の最高の文人・技術者も派遣されていた。日本からの警護や荷役のための人数を合わせると2000人を超える大行列になり、往復に9か月もかかる ことがあった。朝鮮国との交流は貿易や文化に多大な影響を与え、現在でも、江戸に至るまでの各地で行列に関連のある行事が残っている。
 しかし、秀吉による2度の朝鮮出兵後、徳川幕府になったからといって両国の関係を修復する事は容易ではなかった。関が原の戦いで西軍に味方した宗氏は、家康より朝鮮との講和を命じられ、宗義智と初代外交僧景轍玄蘇の払った努力は並大抵のものではなく、時としてはかなりの無理も強いられることも少なくなかった。その最大のものが、国書の偽造と改ざんの積み重ねで、1607年ようやく最初の朝鮮回答兼刷還使が来日した。これにより対馬藩は、10万石を名乗り、日朝貿易により高利潤を得ることが出来た。


朝鮮通信使は、釜山の永嘉台(よんかで)下を6隻の渡航船に乗って朝出航すると、対馬海峡49.5Kmを渡り、夕方には鰐浦に着くことが出来る。
しかしこの海は時化ることで有名である。
 浮御堂をイメージした韓国展望台から対馬海峡を望む。           向こうに見えるのは49Km離れた釜山の夜景
 1703年2月5日朝108名の乗った韓国訳官船は、釜山を対馬へ向け出向したが、急変した天候のために鰐浦を目前に遭難し、全員死亡した。現在この展望台のそばに碑が立っている。
通信使の船も何度となく舵を折ったり、打ち砕かれたり大変辛い航海であった。

朝鮮通信使はいつ来たのであろうか?
室町時代  室町時代は京都までは3回で、山口の大内氏や、対馬の宗氏が対応していた。
  1375年第3代将軍足利義満の時から室町幕府は60回以上の使者を朝鮮に送ったと云われている。それに対して、李氏朝鮮からは、日本国王使と国書に対する返礼として、3回(1428〜1443年)派遣された。1459年にも派遣が計画があったが、中止されたのは、室町幕府の衰退によるものと、偽使(守護大名や国人が将軍の名前を詐称して勝手に交渉すること)の横行と思われる。その後、日本と李氏朝鮮との国交は約150年間中断する。
 室町時代、荒廃した京都に比べ、山口県の大内氏は、西の京都として栄え、サンフランシスコザビエルも山口に来ている。その大内氏と李氏朝鮮との通交が行われ、下関に使船が寄港していた。
 また李氏朝鮮は倭寇対策として、1419年対馬、壱岐の日本人通交者には『図書』という銅印を与え、その書契(外交文書)に押させて、正式な通交者の証拠とし、倭館で交易が明治の初めまで行われた。
 
1443年嘉吉条約(朝鮮との通交条約である)が第8代宗貞盛と結ばれると、日本から朝鮮へ渡航する認可証明書は『文引』といわれ、対馬藩主の宗氏に発給させた。以後宗氏が朝鮮貿易を独占すると共に、日朝関係の窓口とし勢力を拡大して行くことになる。
桃山時代  1589年に日本をほぼ統一した豊臣秀吉は、アジア諸国へ服属を命じ、明の征服をも企図し、宗義智を通じて朝鮮に服属と明遠征の先導を命じた。元来朝鮮との貿易に経済を依存していた宗氏は、朝鮮との交易が出来なくなると藩が滅亡しかねないので対応に苦慮し、また小西行長や博多商人(島井宗室)らと共に戦争回避のため李氏朝鮮との交渉に奔走した。宗義智は、日本国統一祝賀の使節派遣要請の偽の国使(対馬以酊庵の外交僧玄蘇を正使に宗義智を副使ら)となって朝鮮の都までのぼり、朝鮮国王に拝謁した。 かくして1590年、150年ぶりに朝鮮通信使の金允吉、金誠一等を伴って京都の聚楽第へ案内し、秀吉に面会させた。この時、朝鮮通信使が持ってきた国書には、秀吉の天下統一を祝い、「速やかに信を講じ睦を修めて、もって隣交を篤くせん」(後日これも改ざんされていたことが解った)と書かれていた。ところが秀吉はこれを朝鮮国王の服属使節と思い、征明嚮導(せいみんきょうどう)を命じた。よって和平交渉は不調に終わった。その翌年の1592年、突然15万人余りの兵を朝鮮半島に送り込み、文禄の役が始まった。
 宗義智は朝鮮出兵中も、
講和の道を探り続けた。1595年秀吉の命を受け明に渡った宗義智は、秀吉には明が降伏したという報告書を送り、また明の皇帝には秀吉が降伏したという報告書を送った。これは日本・明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。このため秀吉は和平に際し、明の皇女を天皇に嫁がせる事や朝鮮南部の割譲など、明には受け入れられない講和条件を提示し、明の降伏使節の来日を要求した。一方、明皇帝は日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとってはとうてい受け入れられるものではなかった。結局日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王の金印を授けるため日本に使節を派遣した。1596年8月10日朝鮮通信使一行(正使黄慎ら319名)は明使(正使揚方亭)一行と対馬で合流し、蒲刈に潤8月11日着き、9月3日秀吉は来日した明使節と謁見。秀吉は降伏使節が来たと当初は喜んだが、使節の本当の目的を知り激怒。使者を追い返した。10月25日明使と朝鮮通信使は対馬に着船、11月23日釜山に帰った。翌1597年(慶長の役)朝鮮への再度出兵を決定した。
江戸時代  1600年徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が開かれると、家康は、関が原の戦いで西軍に味方した対馬藩に対して、対馬と肥前国田代以外の領土を没収し、付加条項として朝鮮との講和を対馬藩に委ねた。国交回復は死活問題でもある宗義智はあらゆる犠牲を払って粘り強く交渉を行った。幕府と李氏朝鮮との関係を修復するためには、双方の国書改ざんもをやむを得なかった。
 1604年8月20日、朝鮮から僧惟政(松雲大師)らの探賊使一行が対馬に来て交渉した。対馬に4カ月留まり、韓国と江戸に使者を出し許可を得て、翌年宗義智は僧惟政(松雲大師)らを伴って京都聚楽第へ案内した。徳川家康は二代目将軍の秀忠と共に会見し、和解のための話し合いが行われた。僧惟政松雲大師はこのとき秀吉軍によって捕虜となっていた1390名を朝鮮に連れ帰ることに成功し、国交回復に対する家康の意思を帰国後に朝鮮国王へ伝えた。
 しかし、日本に対する警戒心は根強く、1606年7月朝鮮国王は2項目の要求を、国交回復の命を受けている対馬藩に要求した。第1は戦争中に国王の墓を荒らした犯人を差し出すこと、第2は2度と侵略をしないことを誓う家康の国書を送ることの2項であった。日本側から先に国書を送ることは、当時の外交慣習からすると日本側が降伏したことを意味し、この条件を幕府は呑まないと対馬藩は判断した。対馬藩は内密に家康の国書を偽造の上、11月偽造した国書と共に対馬藩の重罪人3人を犯陵賊の犯人にして使節を釜山浦に送った。その後も、朝鮮側の国書を偽造するなど、両国の国書改ざんを続けた。

 1607年(慶長12年)宗義智の並々ならぬ努力により、朝鮮国から日本の国書に対する第1回通信使が来朝し、これをきっかけに慶長条約(己酉約条)(きゆうやくじょう)が慶長14年(1609)に締結され、1607年から1811年まで12回来日し、国交回復が成立した。徳川将軍の襲職祝賀の度に来日し、1811年第12回の通信使は対馬で国書の交換が行われ、この通信使が最後となり、両国の公式な関係は途絶えた。


瀬戸内海を進む朝鮮通信使の一行
1748年第10回朝鮮通信使が、鞆ノ浦から牛窓にかけて進む船団の様子が描かれている。警固を担当するのは備前藩で300隻が描かれている。大きな朝鮮通信使の船を曳くのが、日本側が用意した関船、小早、漕船などである。この図から当時の航海は大変困難であったことが伺える。



朝鮮通信使歴史年表
李 氏 朝 鮮 室町時代 1420年 第1回朝鮮通信使
1429年 第2回朝鮮通信使
1443年 第3回朝鮮通信使、「海東諸国紀」を書いた申叔舟もいた。
安桃 1590年 第19代宗義智は外交僧玄蘇らと共に朝鮮からの使節を京都、聚楽第へ案内し、秀吉に面会させる。
1596年 宗義智は明、朝鮮からの使節を京都にまで案内し、豊臣秀吉に聚楽第で講和の話し合いをする。
江 戸 時 代 1600年 徳川家康は西軍に味方した対馬藩に、対馬安堵の条件として朝鮮との講和交渉を命じた。
1607年 第1回朝鮮回答兼刷還使の来日始まる。504人
1609年 慶長条約締結
1617年 第2回朝鮮回答兼刷還使。428人
1624年 第3回朝鮮回答兼刷還使。460人
1635年 柳川事件(国書改ざん)起こる。
1636年 第4回朝鮮通信使。478人
1643年 第4回朝鮮通信使477人
1655年 第6回朝鮮通信使。485人
1682年 第7回朝鮮通信使。473人
1689年 雨森芳洲対馬藩に儒臣として仕え、朝鮮外交に活躍する。
1703年 韓国訳官船鰐浦沖で遭難。112名全員死亡
1710年 実高2万石の宗氏が朝鮮貿易の利潤により10万石となる
1711年 第8回朝鮮通信使。500人、雨森芳洲も随行した。白石の朝鮮使節の待遇改革
1719年 第9回朝鮮通信使。475人、雨森芳洲も随行した。製述官、申維翰シンユハンは海游録を記す。
1748年 第10回朝鮮通信使。475人
1764年 第11回朝鮮通信使。477人
1811年 第12回朝鮮通信使の江戸参礼を改め、聘礼式を厳原において宗氏が将軍に代って行う。328人


朝鮮通信使の目的は何だったのでろうか?
 @室町時代の朝鮮通信使は、倭寇で困っていた李氏朝鮮国が倭寇を退治して安定を求めるのではなく、国交を結び交流し貿易を正式に認める政策変更によるもので、朝鮮国と日本が対等の外交関係を開き、以後、朝鮮からは「通信使(よしみを通わす使者)」として、日本からは「国王使」が派遣されることになった。1420(応永の外寇の翌)年宗希けいを回礼使として日本に遣わ、1429年には足利義教の将軍襲任祝賀に来ている。また日本の国情視察目的も密かに含まれており、例えば1428年足利義勝の将軍襲任祝賀の通信使に同行した書記官の申叔舟が著した「海東諸国紀」によると、倭寇禁圧要請と併せて、倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、土豪との関係、都市部の発展状況や通貨政策など国力状況の観察、日本での仏教の普及状況をはじめ15項目の調査内容があったという。
 A安土桃山時代の朝鮮使節は、1590年に秀吉の朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣された通信使である。このときも宗義智が仲介を行っている。この際の正使と副使が対立関係にあったために正使は侵攻の意思ありと報告し、副使は侵攻の意思なしとの報告が行なわれ、王に近い副使側の意見が採られた。文禄の役の際に一気に平壌まで侵攻されたのは、この副使の報告に従い、なんら用意をしていなかったためともされる。
 Bまた1596年の明と朝鮮との使節は、対馬藩外交僧景轍玄蘇と明国との外交僧侶による偽の和解内容の確認であった。
 C江戸時代の朝鮮通信使は、戦後処理から始まった第1〜3回は回答(幕府の使節派遣に対する回答)兼刷還使(秀吉の朝鮮出兵の時、連れて来られた捕虜を連れ帰る)と云われ、日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を朝鮮に連れ帰るのが主目的という意味である。儒家はほとんどが帰国したが、陶工の多くが日本に留まったとされる。これは当時日本で一国ほどの価値があるとされた茶器や陶器を作り出す陶工を大名が庇護の下、士分を与えるなど手厚い待遇をしていたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想によって職人に対する差別があったことが原因である。また、朝鮮にとっては、女真族が急激に勢力を伸ばしつつあり(後に、女真族は中国において「明」を滅ぼし、「清」を建国する)南北から挟撃されてはたまらないので、南方の日本との関係を修復することが、自国を防衛する上からも、また日本の内情を探索し、日本の動きを正確に知る為にも、日本との早期国交回復が望まれた。
 徳川家康は、幕藩体制の確立には諸外国との対立を避け、朝鮮に徳川幕府を認めさせることが安泰に繋がると考え、対馬藩に交渉を委ねて日朝関係の安定を図った。
 同年、国交回復を祝う日本側の使節300余名が派遣されたが、漢陽への上京は認められず、釜山浦にて丁重に接待された。
 D江戸時代の1607年から1811年まで12回来日した。第4回(1636年)から通信使(信義を通じるの意)となった。幕府は老中を総責任者とし、沿道の各藩に最大限の饗応をするように指示した。通信使に投じた費用は、毎回百万両にも上り、動員された人足は33万人とも言われている。
 厳原町では、毎年8月に朝鮮通信使行列を再現しているほか、平成7年11月には、全国組織して朝鮮通信使縁地連絡協議会が設立された。


朝鮮通信使の最初の上陸地だった鰐浦港
 1609年の慶長条約により、再開した朝鮮通信使の寄港地は鰐浦と指定されたが、その後、第7次1682年からは佐須奈寄港が一般的となった。
ここに入港すると、島内10カ所に設けた狼煙によって中継され、厳原の対馬藩主に通報される。これを受けた対馬藩主は、一行の動静を逐一幕府に報告する飛脚船を出し、使節の受け入れ態勢や迎護船団の点検をする。
 今は閑魚村となっており、通信使の泊まった館の跡はなく、国の天然記念物”ヒトツバコ”が5月初旬に白い見事な花を一斉に咲かせる。

佐須奈湾
佐須奈湾は、入江も深く、天然の良好である
 1609年の慶長条約により、再開した朝鮮通信使の寄港地は鰐浦と指定されたが、その後、第7次1682年からは佐須奈寄港が一般的となった。

 1719年第9回朝鮮通信使は船舵が折れ、難破しそうになりながら、佐須奈に入港した。『大小の雷が、背中に轟きわたるが、まるで怒る鯨 暴れる竜が 海中で戯れているようだ』と日東壮遊歌に記載されてある。対馬海峡は時化る。
 またこの時来日した申維翰の海游録には、『浦をはさんで民屋30余戸。みな茅を積みあげてその頂上を高くし、その状は盆を伏せたようだ。男は鬢髪して冠をかぶらず、服は袖が広くて袴褌(ズボン)を着けず、佩剣(腰に下げる剣)して危座(正座)する。女は高いまげを結い帯を結んでいる。船を操るのになれている。土地は痩せており田はない。』と描写している。
  1764年第11回朝鮮通信使正史趙の書いた海槎日記によると、『昨年(1764年)初て佐須奈に至り、甘藷を見、数斗を求めて釜山鎮へ出送し、これをして種をとらしむ。今帰路において、またこれを求めて 州校吏輩に授けんとす。行中の諸人、また得て去るものあり。この物はたして能く皆生じ広く我が国に布けば、文綿(もんめん−木綿)のなせしと共に、大いに東民を助けるであろう。 州種得る所、もし能く蔓延せば、移して済州及び他島に栽培すべきなり』と記載されている。このように正史が、栽培方法とサツマイモを持ち帰り、栽培させたと、記されている。その後朝鮮では、度重なる飢饉から人々の生命を救った。1364年、中国に外交使節として出かけた文益漸(ブンイクチョム)が木綿の種子を持ち帰ったのと同じ価値があり、国民を助けるだろうと言っている。。
 サツマイモの原産地はアメリカで、日本には17世紀初頭に薩摩地方に伝わり、九州で栽培されていた。対馬は平地が少なく、食料事情は厳しいものがあった。対馬の原田三郎右衛門は薩摩に渡り、1715年藩外持ちだし禁止のサツマイモの種芋を対馬に持ち帰り栽培した。痩せ地や傾斜地でも良き育ち、収穫が多いので対馬では広く栽培され、孝行芋と呼ばれるようになった。


朝鮮通信使の行程は
槍を持つ軍官、    長い旗(清道旗)を手にする騎手、 異国の音楽を奏でる楽隊。   虎豹の皮を敷いた輿を先頭に、
 新しく将軍が立つと、幕府の意を受けて対馬藩主(宗氏)は、朝鮮国に対し大慶参判使を送って将軍襲職を報告し、続いて修聘(しゅうへい)参判使を送って、通信使の派遣要請をする。
 朝鮮ではその可否を検討し、礼曹参判の書翰を送り、三使をはじめとする構成メンバーの人選、礼物(土産)や書簡の準備、船の整備などに取り掛かかるが、300〜500人の一行が正史船、正史従船、副史船、同従船、従事官船、同従船の6隻で半年間異国を旅するので、その準備は朝鮮国にとっても大事業だった。
 一方日本では、幕府の老中・寺社奉行らを筆頭にして「来聘御用掛」という組織が作られ、これを中心として「人馬の手配、街道・客館の整備」など、使節を迎える準備にかかる。。
 朝鮮の昌徳宮で旅立ちの挨拶をし、酒と馬の鞍及び羅針盤を賜った回答兼刷還使は、陸路釜山へ向かう。いよいよ時期が近づくと、対馬藩から朝鮮へ出迎えの使者を釜山倭館へ送り、倭館で迎接し、永嘉台で海神祭を行い航海の安全を祈った。風向きの良い日を選んで釜山を出航する。対馬島鰐浦に渡り、以後、壱岐・相ノ島・上関・蒲刈・鞆ノ浦・牛窓・室津・兵庫津の各港を経て、大坂から川船に乗り換えて淀川を上り京都に上陸。ここから東へは陸路を中山道・朝鮮人街道・美濃路・東海道を経て江戸へ向かった。 江戸では館所に到着の日に、饗応を受け、翌日上使が通信使慰問、数日後行列を整えて登城、将軍に謁見して、国書をすすめる。行く先々での応対は各大名が受け持ち、一行の案内、警護役は往路・復路ともに終始対馬藩が担当した。
三使の輿が続く     国書の輿
  一行の人数は、毎回300〜500人の大使節団になり、李朝朝鮮政府が選び抜いた優秀な官僚たちで、随行員には美しく着飾った小童・その芸に秀でた楽隊・画員(絵師)・武官・医師・通訳などが加わっていた
長く辛い旅の中にも通信使の表情は豊で、最後尾には天を仰ぎ煙草を吸う一員もいる


 秀吉による朝鮮出兵に不信を抱く李氏朝鮮と通交を結ぶには、大変な苦難の道であった。多くの困難を乗り越えて朝鮮国と通交を開き、朝鮮通信使が12回208年間続いたのは、誠信交隣の思想があったからだ。朝鮮通信使に貢献した人を上げるなら対馬藩主宗義智、対馬藩専従の初代外交僧・景轍玄蘇、そして対馬藩儒学者雨森芳洲の3人が思い出される。


宗義智(1568〜1615年)
厳原の朝鮮通信使の記念碑(1992年建立)
 1580年12歳で藩主となり、1589年に日本を統一した豊臣秀吉は、明の征服をも企図し、宗義智は朝鮮の服属と明遠征の先導を命じられ、戦争回避に国書を改ざんまで行って奔走するが、。
 1592年5千をもって出兵、4月釜山に上陸し、小西行長と共に先鋒として20日後には漢陽を占領し、平壌も陥落させた。その間明国と交渉し使節を聚楽第まで連れて行くも、講和出来ず、
 1597年に兵2千を率いて再度参戦したが、秀吉の死(1598年8月18日)により、撤退を開始し、最後の部隊が釜山を離れたのは11月26日であった。
 この役による対馬の疲弊は、通過する兵士による略奪や破壊それに朝鮮貿易が断たれて崩壊寸前にあった。そこで宗義智は12月に使節を釜山へ送り、翌年3月と6月にも使いをやって和平交渉のきっかけをつかもうとするが、使者は捕らえられ誰ひとり帰って来なかった。
 1600年関が原の戦いでは、妻が小西行長の娘であったことから西軍に属し、戦後は徳川家康から朝鮮との講和を命じられた。朝鮮へ数次にわたり使者を出すが、捕らえられて帰って来なかったが、日本軍に捕らえられた朝鮮人を送還を繰り返すと、交渉の糸口が見え出した。
 1604年8月20日僧惟政ら『探賊使』が対馬に来島し、修好条約を論議し、翌年5月家康の真意を確かめる為に、京都へ案内し家康、秀忠に謁見させた。柳川調信や玄蘇らと国書の偽作、改作した結果、講和条約は進展した。この功により2800石を加増を受けた。
 しかし1606年7月日本に対する警戒心が根強くい朝鮮国王は2項目の要求を宗義智に送るが、11月にはこれも改ざんし、ようやく1607年第1回回答兼刷還使が来日し、対馬藩士は800人が江戸までの先導と警固をした。
 そして慶長条約が1609年締結され、倭館は釜山のみとする。嘉吉条約の存続が認められ、対馬は朝鮮貿易を独占し、利潤を上げ、10万石になってゆく。以後204年間にわたり12回の朝鮮通信使の来日が続いた。
 1590年朝鮮出兵を企画する秀吉は、信望厚く先鋒を命じる小西行長と地理と朝鮮事情に詳しい宗家との政略結婚を計画した。マリア15歳と義智22歳は結婚したが、キリスト教迫害が強まると1600年家康の信望を回復し宗家の安泰を図るために妻と10年で離婚した。
 宗義智は波瀾万丈、苦渋の選択の19代対馬藩主であった。


1711年第8回朝鮮通信使絵巻
 1711年の通信使絵巻は、対馬藩絵師40人を動員して、道中行列、帰路行列、登城行列、対馬守道中行列と4巻セットで製作された
通信使に関する絵は、様々なものが描かれており、それだけ日本人に与えたインパクトの強さを物語っている。
長崎県立対馬民族資料館蔵(朝鮮通信使の道より転写) 対馬藩に仕える儒者・雨森芳洲も第8、9回通信使に随伴し、さまざまな折衝にあたった。長崎県立対馬民族資料館蔵(対馬百科より転写)


朝鮮通信使からの贈答品
  日本の文化、宗教、哲学などの基礎となるものの大半は中国から伝えられたが、それらは朝鮮半島を経由したものが多く、朝鮮の影響を受けているものが少なくない。たとえば日本固有の文化である「茶道」についても例外ではなく、禅僧の栄西が中国浙江省の天目山から薬用として茶を持ち帰ったのが始まりです。そして、それが時の室町幕府の将軍・足利義満によって社交に用いられ、やがて町民文化として村田珠光(じゅこう)によって「わび茶」の世界が開かれ、千利休(せんのりきゅう)によって今日のような茶道に確立されて来たのです。それゆえ、利休以前の茶碗と言えばほとんどが中国から輸入されたものですが、朝鮮半島を経由した関係で、時代と共に朝鮮のものが多くなっていきました。さらに秀吉の朝鮮出兵によってこれに拍車がかかり、湯飲みはもちろんのこと、メシ茶碗や皿など・・、日常雑器の多くが持ち帰られ、茶人の好みに応じて茶碗として珍重されるようになってゆきました。
これは茶道だけでなく、「仏教」「儒教」「書道」「水墨画」「易」(えき)、「暦」(こよみ)「建築」「漢方」・・・など、ほとんどが大なり小なり朝鮮半島の影響を受けている。
     牛窓・本連寺への花瓶
透彫による福寿の吉祥文が施されている
鞆ノ浦・福禅寺への鶴亀燭台    香炉  1711年の
使節が『日東第形勝一』と書かれた額が掲げられている。
木硯と筆

 朝鮮通信使は、文化交流としては牛窓の唐子踊、下関の唐人通り、朝鮮通信使をモデルにした絵画は、葛飾北斎をはじめ御用絵師、町絵師がたくさん作品を残しており、土人形は東北にまで及んでいる。
 武の日本、文の朝鮮:通信使の製述官申維翰の『海游録』、金仁謙の『日東壮遊歌』は有名で『武の日本』に出向いて、『文の朝鮮』をアピールする意気込みが文面から汲み取れる。
 江戸時代日本で最も知られた韓国人は儒学者の李退渓(いてげ韓国1千ウオンの札顔)である。行く先々でその教えを請われている。林羅山、貝原益軒、三宅観潤らが李退渓の尊敬者となった。また日本の文人たちは、通信使を訪ね、いろいろと詩歌の指導、添削を受けた。


僧・景轍玄蘇と以酊庵
僧・景轍玄蘇(けいてつげんそ1537〜1611年)は、若くして京都五山に学び、博多の禅寺聖福寺住職から1580年宗義調の招きにより対馬へ渡る。当時12歳で藩主となった宗義智を生涯助けた。
 日朝交流が深まれば深まるほど、様々な事例が出来、外交は次第に複雑なものになってきた。外交文書に精通した専従の役人が必要とされ、ここに初代外交僧・景轍玄蘇が任命された。
  1611年景轍玄蘇が、その功績により厳原に寺を建立し、自分の生まれ年に丁酉の年にちなんで『以酊庵(いていあん)』と呼んだ。
景轍玄蘇が1611年死去すると、弟子の規伯玄方(きはくげんぽう。柳川事件により盛岡に流罪となる)が職務を継いだ。
 1589年に秀吉から、明の征服の為に朝鮮の服属と明遠征の先導を命ぜられた宗義智は、漢詩文と外交術に優れた景轍玄蘇に懇請し、秀吉の無謀な使節派遣要請の任を託した。景轍玄蘇は、朝鮮に渡り、講和の為に藩主を助け奔走し、偽日本国王使の正使に扮して漢陽までのぼり、国王に拝謁して『日本国統一祝賀の使節派遣』を要請した。景轍玄蘇の巧みな交渉術により、1590年3月漢城を出発した金允吉、金誠一等の朝鮮通信使の大使節団を伴って7月に京都に入った。改ざんした国書を持たせて11月に聚楽第で秀吉と会見させた。景轍玄蘇は交渉が不調になっても、また一行をソウルまで送り、漢陽に入り、国王に拝謁し、秀吉の征明の意志を伝えた。また文禄の役に藩主と共に出兵し、朝鮮との和議の交渉にあたった。
 1595年秀吉の命により明国に渡り、明の皇帝と秀吉にそれぞれ相手が降伏したと偽の降伏文書を作成し、明の皇帝から本光国師の号を賜った。そして明使節を1596年9月秀吉に謁見させた。、
  また徳川政権になってからも1604年僧惟政らの探賊使一行との交渉に当たった。この功績により家康より紫衣を授かった。1609年4月には、徳川将軍の使節として釜山へ渡り、慶長条約を成立させるなど、朝鮮外交の任に当たった。外交文書に精通し、日朝関係復交に活躍し対馬藩専従の初代外交僧であった。
 以酊庵はその後焼失したため、ここ西山寺(せいざんじ)に移転した。
以酊庵は、1866年まで230年の間複雑化する外交事務に携わり、宗氏の対朝鮮外交機関として日朝善隣友好の時代を築き、平等な友好関係を維持するうえで大きな役割を果たした。
 幕府と李氏朝鮮との関係を修復するためには、双方の国書改ざんもしばしばここ以酊庵で行われた。柳川事件後、朝鮮との外交を監視するため、対馬藩の外交文書を取り扱う機関である以酊庵(いていあん)に輪番で京都五山の僧を常駐させることとなった。
柳川事件とは、
 1635年には、主家宗氏と対立した対馬藩の重臣柳川調興(しげおき)が対馬藩主宗氏の国書改ざんを幕府に直訴した、いわゆる柳川一件が起こる。朝鮮との国交回復の結果を重視した将軍家光は、寛永12年(1635)、宗氏のこれまでの身分、領地を安堵する一方、調興は津軽へ、外交僧規伯玄方(きはくげんぽう)は盛岡に流罪とした。



雨森芳洲(1668〜1755年)
 日韓の首脳が引用する人物は雨森芳洲である。
 1990(平成2)年5月24日盧泰愚韓国大統領(1988年2月〜93年2月在任)が来日した際に、宮中晩餐会での答礼の挨拶で、『270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は誠意と信義の外交をしたと伝えられます。彼の相談役であった朝鮮の玄徳潤は、東莱に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。今後のわれわれ両国関係もこのような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう』と述べている。
  また2002年3月22日韓国新羅ホテルで小泉総理は『中近世になって、韓国の文化の高さを日本に知らしめたのは、15世紀から19世紀の長きにわたって続いた朝鮮通信使でした。 江戸時代には、朝鮮通信使が江戸まで往復する六ヶ月の間、各地で日本の儒学者や文人、画家、医者などと交流し、当時の我が国の文化人や庶民達に大きな影響を与えたのです。
 このような朝鮮通信使と触れあった一人に対馬藩の儒学者雨森芳洲がいました。当時の日韓両国間には、友好関係を欲しつつも、豊臣秀吉による戦乱の影響から、互いに対する不信感が色濃く残っていました。そうした中で、朝鮮通信使の応対に努めた彼は、通信使と議論をたたかわせつつ、最後には互いに別れがたい関係を築いたのです。
 彼は、35才の時から3年間釜山に滞在し、韓国語を始めとして、韓国の歴史や風俗を深く学びました。こうしたなかで、彼は、民族固有の文化のもつ価値を深く知るようになりました。そして、互いを尊重しあい、信頼関係を大事にする「誠信の交わり」こそが韓国に対する基本であると確信するに至りました。このような姿勢こそ、今日の我々が学ぶべき姿だと言えましょう。 』と演説している。
対馬百科より転写
 雨森芳洲(号は芳洲、名は誠清、字は伯陽、通称は東五郎)は、1668年(寛文8年)5月17日に近江の国(滋賀県)、伊香郡雨森村(高月町雨森)に生まれる。16才の時に、父を失い、18才で江戸に出て、木下順庵の門に入り儒学の勉強を始めた。順庵の門下からは、多くの逸材が世に出たが、芳洲は白井白石、室鳩巣と共に『木門3傑』と呼ばれた。
 22歳の(元禄2年)4月、順庵の推挙により対馬藩主宗義真に儒官として仕えることとなった。26歳の時、それまでの江戸勤めから、対馬に赴任することになり、禄二百石で府中馬場筋の屋敷に移住して、文教、政治経済、外交の面で貢献した。
この頃の対馬藩は、この外交の窓口として、友好関係の維持・貿易外交問題の折衝・接待などを幕府から任されていたため、優秀な儒官を必要としていた。
 早くから朝鮮語・中国語を勉強していた芳洲は25歳と29歳の2回長崎に出かけ、唐人屋敷の中国人から実際に中国語を習った。
31歳の時、7月19日に朝鮮往来に関する仕事で、頭役を補佐する朝鮮方佐役という役を命じられ、正式に外交官としての第一歩を踏み出した。36歳と38歳の時、朝鮮語を学ぶため朝鮮に渡り釜山の「草梁倭館」に滞在して、22ヶ月間学び朝鮮語会話入門といわれる「交隣須知」を著した。
 1711(正徳元)年44歳の時第8回通信使と1719年52歳の時第9回通信使の2回、対馬藩の真文役として江戸まで同行した。第8回は白石の早急な改革「正徳の治」が問題を起こし、外交責任者として苦労しながら職を勤めた。
 62歳の享保14年には藩命により「草梁倭館」の「裁判」として1年半の間釜山に赴任している。
 88歳で没した。

盛装して登城する芳洲の姿
 対馬藩に仕官し、朝鮮外交を担当した。朝鮮語、中国語に通じ多くの著書もある。真文役雨森東五郎(幼名は東五郎)と書かれている。盛装して登城する芳洲の姿である。                          (福岡市博物館蔵)
 朝鮮国との善隣友好関係を持続させるため、61歳の時自らの意見を対馬藩主宗義誠に献じたのが『交隣提醒(こうりんていせい)』。これは芳洲の思想と実践と学問が結実した不朽の名著を言われる対朝鮮外交の心得書で、朝鮮の歴史風俗・習慣や物事の考え方や作法をよく理解し、違いを尊重して外交に当たることが必要と説き、偏見や蔑視を抱いてはならないと強く主張しています。また日本と朝鮮とは、諸事、風儀、嗜好も異なるので、日本の風儀をもって交わると必ず不都合を生じることを窘めている。さらに『誠信の交わり』について、『誠信の交わりということを人々はいうけれども、多くは字義をはっきりとわきまえていない。誠信とは実意ということであって、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠信である』と説いている。
 代表的著作に交隣提醍、朝鮮語会話の入門書である交隣須知(こうりんすち)、治要管見(ちようかんけん)、などがある。

雨森芳洲と新井白石
 二人は木下順庵門下生である。木下順庵は京都で朝鮮通信使と詩文の唱酬(しようしゅう。文書を互いに贈答すること)をし、朝鮮通信使を感嘆させたことで、学名が天下に響き、1682年62才の時、将軍綱吉に召されて幕府儒官となり、江戸で雉塾を開いた。この塾で22名が育ち、阿比留氏、陶山訥庵、松浦霞沼、雨森芳洲の4名が対馬に仕官した。阿比留氏が32才で死去したために、後任に22才の雨森芳洲が推挙された。雨森芳洲は白石より12才年下であるが、白石より塾の先輩となる。白石は第6代将軍家宣に仕え政治の中枢に登場する。
 1711年の朝鮮通信使を迎える頃の幕府の財政は、窮迫していた。将軍家宣の全面的に信頼を受けていた白石は、『日本国大君』から称号を『日本国王』へ書き改めるように進言した。白石は将軍の裁許を得てこれを一方的に通告した。朝鮮側に伝え、実行させるのは芳洲である。芳洲は、我が国の最高権威は天皇であり、将軍はそれに次ぐ日本国大君でしかないと反論する。しかし事前交渉もなく、既に朝鮮通信使は漢城を出ていた。芳洲はやむなく釜山に急遽渡り、交渉するが、朝鮮側は怒り心頭に達する。何とか了承させて、釜山を対馬へ向け出航した。白石は待遇改定のほか色々条件を持ちだし、ことごとく問題となる。
 具体的には、江戸での饗宴も御三家相伴を廃止して、高家が接待したり、また各宿泊先の宴席も財政上から絞って、赤間関(帰りは牛窓)、大坂、京都、名古屋、駿府の5カ所とし、その他は乾物の提供で、各藩の藩主が出向かずともよいと変更する。迎えは客館の階下で迎える等、、待遇の簡素化を理由に無理難題を白石は指示する。芳洲は文書で幕府に申し出るが、認めるべくもない。国書の返書を韓国側が受け取りを拒否するなどの混乱が続いた。この時の朝鮮通信使の三使は帰国後、国王を日本の将軍と同格にされた責任を問われ、『辱国の罪』で処罰されてしまった。白石は才の人であっても徳の人ではなかったように思える。芳洲は白石のことを『暴戻(ぼうれい)の儒』と激しく非難し、白石は芳洲を『対馬の国にありつるなま学匠等が、知るに及ばで、とかくありという』と厳しく批判している。この功により、白石は加増を受けたが、天下の世論は白石に冷たかった。その後周囲の反感を買い白石失脚の一因となる。
 1719年第9回の吉宗襲職祝賀の通信使は、白石の失脚を踏まえ、対応は従来のやり方に戻っていた。
二人の朝鮮観、人生観の違いは、白石は江戸生まれの武士の子であった。徳川将軍の絶対の権力とその威光をよく知っていた。また朝鮮への軽蔑観、神功皇后の三韓征伐や三韓朝貢を史実として疑わなかった。芳洲は京都生まれの医師の子供であった。京都には御所があり、皇室を敬っていた。そして朝鮮出兵を無名の戦い、暴漢と断じて著しい。この違いが二人の対立となったと思う。
 白石の執政(朝鮮使節の待遇改革、金銀貨の改良、長崎貿易の制限などの事業)を「正徳の治」と呼ばれている。

 通信使を江戸まで案内した対馬藩の努力は大変なものだった。沿道の諸藩との連携、通信使とのやり取りに気を使った。
 1719年漢詩の才能に優れた通信使の製述官、申維翰は雨森芳洲と対馬から江戸まで一緒に行った。
 前回の通信使が帰国後処罰された事を意識していた二人は初めは犬猿の仲だったが、旅を重ねるにつれてお互い人格を知り、別れる時は涙を流している。
 申維翰は白石に『(白石の芳洲に対する所業を見て)この人がもし我が朝鮮に生まれていたら、こんなにまで冷遇されるはずはない。貴国は人材を尊重しないようだがこれまた政治上の欠点と言える』と言った。
 対馬藩は朝鮮通信使を江戸まで案内する世話役、日本の外交拠点、釜山草梁和館での長い付き合いで、同胞のような関係を作った。
    1711年朝鮮通信使道中行列図
この時来日した上判事は3名で、その時の道中絵巻の上判事の姿である。玄徳潤はこの時来日し、雨森芳洲と二人で『誠心の交わり』を実践した

通訳の質の低下と量の不足より藩立朝鮮語学校を設立した。(日本最初の外国語学校)
文禄、慶長の役後100年が過ぎた1700年代に入ると、対馬藩は有能な通詞不足の事態を危惧するようになった。
対馬の通詞は、藩校などで研鑽を積んだ武士でなく、日朝貿易に従事する商人が兼ねていた。通詞の養成策の抜本的改革に名乗りを上げたのが、雨森芳洲であった。1720年雨森芳洲は36歳の時から3年間の釜山での自らの学習体験から、体系的な教育システムを備えた藩立朝鮮語学習学校『韓語司』を建議した。朝鮮通信使に同行して、会話が巧みであってもハングルで読み書き出来る通詞は僅3名の日雇い通詞に過ぎなかった事実に唖然となった。
朝鮮語学校開校『韓語司』1729年から幕末まで続いた。
初年度は39名の入学を認め、1日5時間30分の時間表を組み、3年間勉強させた。
 教科書は自著の『交隣須知』等16冊の朝鮮語入門書を利用し、ヒアリングも導入してさらに自身の経験からの通詞重要性を説き、単に朝鮮語が上手なだけでなく、才智・学問・篤実をそなえて、相手の国の文化、風習を熟知して初めて相手を知ることが出来るそういう訳詞の養成を目標とした。

      88才で亡くなり、長寿院に葬られている。
61才の著「交隣堤醒」にみる「互いに欺かず争わず、真実を以ての交わり」は、芳洲の先進的な国際感覚がよく表れている。
雨森芳洲の墓。
芳洲の左隣に『小河孺人墓』がある。これは芳洲の奥さんの墓である。小河家の出身で、儒教式に夫婦別姓のまま墓を作ったわけである。


第12回朝鮮通信使は、対馬で聘礼(へいれい)式
 1811年徳川家斉の将軍襲職を賀す第12回朝鮮通信使は江戸まで行かずに、対馬で聘礼(へいれい)式が行われた。これを易地聘礼と言う。この方式になったのは、幕府、諸藩、朝鮮も莫大な経費を削減出来るからである。3月336名の通信使が対馬厳原に到着し、幕府側の上使は小笠原小倉城主、副使は脇坂龍野城主など、、、。この易地聘礼の成功により、対馬藩は2万石が加封された。この聘礼式で、朝鮮の国書に難解な字句があり、幕府の儒官が解せなかったのを、対馬藩の真文役、川辺清次郎がこれを解読し、その出典まで知っていたことを、『江戸にもない対馬の学問』と上使から賞賛された。川辺は家が貧しかったが、藩には奨励策(稽古料を給し、芳洲の作った学校で教育する)があったのである。
  朝鮮通信使の聘礼式が、対馬府中で挙行されることになり、1807年国分寺に客館と山門を同時に建立された。幕府から9万両の下賜金が与えられ、須佐奈湾、鰐浦港の整備や厳原の市街地整備にも使われた。客館は明治になって解体され、国分寺は火災で炎上したが、山門だけは類焼を免れた。


1811年、最後の通信使となった対馬での聘礼に来日した一行が描かれている。(朝鮮通信使の道のり展より)
饗応の儀の時の公服を身につけた副使と正使 国書を受け渡す際に着る朝服を着る副使と正史
    は、、威厳に満ちた顔貌が力強く描かれている。
後姿で煙草を吸う中官 勇ましい姿の軍官 身長7尺3寸の軍官
楽器を奏でる楽人 日本の民衆に人気のあった小童

さまざまな楽器を持ち表情豊に奏でる楽人

 対馬での聘礼式を最後に、経済的負担を理由に、通信使外交は終わりとなった。
それでも対馬と朝鮮との外交は、明治維新まで続いた。1872年対馬の外交権を新政府に返上し、倭館も外務省に接収されたが、その翌年、征韓論が起こることになる。

対馬と韓国文化 対馬と韓国  対馬の文化財  朝鮮通信使と雨森芳洲

1大陸文化の倭国への中継地
2国境の悲運と宗氏の功績
3朝鮮通信使
4要塞の島・対馬


 私の高校の教科書には、朝鮮通信使は記載されていなかった。日本では明治30年以降、東洋史というのは事実上中国史であって、朝鮮史を系統的に研究、教育することは殆んどなかった。植民地支配=同化政策の立場から、朝鮮の一貫した歴史を国民に知らせることは好ましくないという思考が一貫して強かった(2003年刊、20世紀日本の歴史学より)。現在の検定済み高校日本史の教科書26種類中、朝鮮通信使12、通信使10、朝鮮使節3、朝鮮信使1種類あり、呼称の違いはあるが、全ての検定済み教科書に記載がされている。記載のない教科書は無くなり、21世紀に生きる高校生にとっては、朝鮮通信使は必修の歴史用語であること物語っている。
 私たちの時代には朝鮮通信使のように知らされていない歴史が多い。また『秀吉の朝鮮征伐』と習った。歴史は真実であり、冷静にどうしてその時歴史が動いたのか?必ず動機があるはずだ。判断は個人差があるが、事実は一つではないだろうか?

潮待ちの港
ソウル・釜山・対馬壱岐相島赤間関・中関・室積上関沖の家室津和地
蒲刈御手洗・鞆ノ浦・下津井・塩飽本島牛窓赤穂室津兵庫津