吉良家と浅野家の塩戦争

名塩「赤穂の塩」といえば歯磨用焼塩

昔からの塩も工夫され、商品として売られていた焼塩である。塩を壷に入れて焼いたもので、そのまま使うものと売りやすくするため焼塩を型に入れ固めたものが売り出されていた。徳川家康が江戸に入府したときに、江戸庶民の為に塩田(千葉県行徳)を拡張して供給させたが、徳川家の使用する塩は三河吉良(静岡県吉良市)吉良上野介義央の所領から献上する饗庭塩が使われ、江戸の一流の町人や有名料理屋などもこの塩を使っていたという。さて、正保2年(1645年)浅野長友は常陸笠間で五万五千石を領していたが嫡子長短のとき藩州赤穂に転封になった山国の大名が海に面した領地に行くに際して、藩の経営をどうしたらよいか苦慮した結果、三河吉良の庄に家来を送り吉良家の精塩法を習い赤穂の塩田の開発に努力した結果、赤穂の塩は品質、味、共に良いと評判を得て、大阪、京都、堺など名声を博して食用以外に歯磨用焼塩をつくり売り出した。当時将軍は毎朝七時に寝所を出る。そして御手水の間で畳の上に「毬子」を敷いた上に座って顔と歯は自分で洗った。歯は奥詰口中医<「赤穂の塩」と「吉良の塩」は歯磨剤の分野で商売仇となる。>の調合した歯磨粉、焼塩、細紛した松脂の三種類を小皿にのせたものを、その時の気分で好きなものを選んで房楊枝につけて磨いた。その後、髪を結い袴をつけ仏間を拝し朝食をとった。この将軍が使う焼塩として赤穂の塩が五代将軍綱吉に献上されるに及んで江戸でも有名なブランドとなった。赤穂の塩がお上御用達となると、困ったのは、行徳と吉良の塩である。行徳の塩はまだ江戸庶民用だから問題はないが吉良の塩は焼塩として歯磨用に使われていたので、赤穂の焼塩、塩の進出は商売仇の出現を意味した。このような状況下で元禄十四年浅野長短に二度目の勅使接待役が廻ってきた。この接待役の指導にあたるのが吉良義央であった。両家に経済上の対立があるとき、吉良の浅野に対する感情は徒ならぬものがあり何か触発するものがあると不慮の事態を引き起こすことは、至極当然である。元禄十四年三月十四日 巳の刻(午前十時半)殿中、松の廊下で浅野長短が吉良義央に刃傷に及んだ。後日、元禄十五年十二月十四日赤穂浪士の吉良邸討入りがあった。その中に加わっていた堀部安兵衛、大高源五らが歯磨粉や歯磨用焼塩を商った有名な芝の兼康祐見の看板を書いたり大高源五の弟である口中医の小野玄人の金看板を書いたのも何か因縁があったのかも知れない。

参考文献 東京歯科大学名誉教授 長谷川正康著
「歯科の歴史おもしろ読本」

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