瀬戸内海一のドック
潮待ちの港
潮待ちの港 倉橋(長門)
風待ちの港
 日本人が中国へ行った記録は、後漢書東夷伝によると57年奴国が、107年倭国王師升が(生口160人を連れて)朝貢したとある。また三国史・魏書・東夷・倭人の条には239年から卑弥呼が(生口を連れて)数回朝貢したとある。663年人質として倭国に滞在していた太子豊璋王を擁立し、阿部不比等らが率いる倭国軍は白村江(はくすきのえ)で戦った。このとき倭国軍 42,000人、倭国船舶 800余隻であった。遣隋使は607年から614年まで3回、唐遣唐使は630年から834年まで15回派遣されている。遣新羅使は668年から779年までに31回派遣されている。これらの派遣船はどこで造られたのであろうか? また当時の瀬戸内海航路はどうであったのだろうか?


航路はどこを通っていたのだろうか?
@音戸の瀬戸は、平清盛が宗との貿易を行う為に削岩した水路であると言われている。
 平安時代は、陸伝いに音戸の瀬戸、厳島(宮島)、大畠の瀬戸、上関を通っていた。(陸地沿いの地乗り航路と言う)

A左図の赤線である上関、津和地、鹿老渡、蒲刈の航路を取るようになった。(朝鮮通信使の航路)

B江戸時代の17世紀後半、木綿帆が使われるようになると、帆走能力が高まった。それによって潮流の穏やかな沖合を多少の逆潮でも風さえよければ、航海することが可能となり、沖合を一気に駆け抜けれるようになった。上関から沖の家室、津和地(松山市)、御手洗、鼻栗瀬戸(伯方島と大三島との間)、岩城、弓削瀬戸から鞆ノ浦へと往来するもので、瀬戸内海のほぼ中央を航行するようになった。(沖乗り航路と言う)

倉橋島の桂浜

  倉橋島は、古来長門島と呼ばれ、広島県の島々の中の最南端に位置し,愛媛県の津和地島、山口県の周防大島の島々に接している。古来から造船,海運の盛んな島として,また島の入江が良港として早くから栄えてきた。さらに百済からの渡来人が住み着き、造船の技術を伝え、遣唐使船などの建造も行なわれてきた。奈良時代には既に瀬戸内海交通の要衝であった。
 鎌倉時代には、瀬戸内海を航行する船が増加し海賊が横行した。幕府は海賊禁止令を出し、倉橋島にも警固役所が置いた。
 17世紀後半、地乗りから沖乗り航路に変わってゆくと、鹿老渡沖は山口県上関から広島県御手洗港に至る中間点として往来が頻繁になった。そこで1709年広島藩はここに番所を設けた。
 1863年広島藩は外圧の危機に対応するために、お台場を築いた。
 1890年呉に海軍鎮守府が置かれると、要塞地帯法により測量、漁業,撮影なども禁止され、艦砲試射場、特殊潜水艦基地、高射砲台、石油貯蔵基地などが建設された。
海(南)から倉橋島の桂浜(北)を望む 逆に桂浜から津和地(南方)を望む



           万葉集遺跡
 天平8(736)年に派遣された遣新羅使(大使阿倍継麻呂)は、この地に停泊し、歌を残している。万葉集15巻3617〜3623に8首が載っており、その歌碑が桂が浜に建てられている。  この時の遣新羅使は上関壱岐対馬にも歌碑がある。

桂浜神社 ここにも八幡宮があった。
 昔は八幡宮と言っていたが、明治4年から地名に基づき桂浜神社と改号した。祭神は、勿論宇佐八幡宮の仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を祀っている。八幡様は、この地を征服して大和へ攻め登ったのだろう。
天平8年(736年)遣新羅使大石蓑麿(みのまろ)が倉橋の海上にて泊船し、詠んだ歌の一首”わが命長門の島の小松原 幾代をへてか神さびわたる”万葉集第15巻3621 これによっても当時既にこの地に神社があったと推定される。


長門の造船歴史館
万葉の里くらはし
 聖徳太子の時代に遣隋使として中国に渡った薬師恵日らは、唐に遣唐使を派遣すべきだと進言し、朝廷は630年に第1回の遣唐使を送った。以後300年14回派遣された。
 古代の我が国で大型木造船を造る技術を持った地域と言えば、瀬戸内海と紀伊などの海運が盛んな国々に限られていた。中でも『続日本書紀』などの文献によると、18隻がここ倉橋島で造られたと記載されている。また神功皇后の三韓征伐や百済への援軍の船もここで作られたと言われている。
 飛鳥時代、新羅に攻められた百済から船大工が倉橋島へ渡来し、造船の技術を伝えたと言われている。663年唐と新羅連合軍に倭国と百済連合軍(倭国軍 42,000人、倭国船舶 800余隻、百済軍 5,000人)が白村江の戦いにて敗れると、多くの百済人が我が国へ渡来した。ここ倉橋島にも百済人が住み着き造船や船の修理が盛んになった。

618年 河辺の臣を安芸の国に遣わして船を造る。
650年 倭漢直県らを安芸国に遣わして百済船2隻を造る
662年 船2隻を造る
736年 遣新羅使一行が長門島に立ち寄り万葉集を詠む
746年 船2隻を造る
761年 船4隻を造る
762年 船1隻を造る
771年 船4隻を造る
775年 船4隻を造る
778年 船2隻を造る
遣唐使船は2本のマストに網代帆(あしろほ)という竹材の帆を張った、中国のジャンク型の帆船であった。長さは20−30m.1隻に150人程度が乗船していた。甲板上部の宮造りの船室には、大使、副使をはじめ外交使節がおり、内部には水夫(かこ)たちや積載物が入っていた。船は青丹色などでカラフルに彩られていた。

 遣唐使船の型と大きさについて:地中海の海洋民族は、海や魚や船の絵を描いている。しかし同じ海洋民族である日本人は、海に関する絵が全くない、不思議な民族である。遣唐使についても、船の絵が存在しない。300年後の鎌倉時代になって、遣唐使の船の絵が描かれている。現在の遣唐使船の姿や形は鎌倉時代の資料から想像して作られている。
 この復元船は、1989年広島市が開いた”広島海と島の博覧会”で企画、制作されたものである。鎌倉時代の絵巻物を参考にして、木造船の技術を継承していた倉橋島の船大工さんにより、倉橋島で作られた。全長25m,幅7m、船底から帆柱の頂までの高さ17m、200トン。船は帆走はせずに曳航されて航行していた。現在は覆い屋の中に入って保存されている。



遣唐使船と遣唐使の衣装


網代帆(あしろほ)という竹材の帆


倉橋島の鹿老渡(かろと)
 瀬戸内海の交通の要地にあたる港であった昔、韓使の往復の度毎にこの地に寄港していたので韓停(からどまり)と書いたのが韓門(からと)となり、転化して現在の鹿老渡の地名になったと言われている。特に江戸時代には御手洗とならび港町として繁栄した。
  1719年第9回朝鮮通信使の申維翰は『8月26日の早朝、(上関を立ち)次の寄港地蒲刈に向かった。屋代島(周防大島)の南をかすめ、津和地島、倉橋島の東岸を経て、夕刻までに下蒲刈島の三ノ瀬港へ入る予定だったが天候に恵まれず、倉橋島の鹿老渡を過ぎるころ日が暮れ、雨まじりの東風に出会う。やむなく碇をおろして、夜を明かす。しかし翌日は東風もおさまり順潮だったので、一気に蒲刈まで進むことが出来た』と記録されている。
 1764年の正月、朝鮮通信使の一行は蒲刈を目指していたが、おりからの暴風雨と大波のため急遽鹿老渡に寄港し上陸した。広島藩の公式な接待場所は三之瀬だったので、使節一行は地元の民家に分宿して滞在した。海槎(かいさ)日記によると『家々が狭いところに並ぶ様子は、すこぶる櫛比を為す(櫛の歯のように隙間なく並んでいる)ようで、商船が泊まり生涯(経済)余裕の処であろう』と記してある。
鹿老渡浦は、天然の良港で風待ち潮待ちの港として栄えた。
町並みは1730年、碁盤の目状に計画的に作られた。
宮林家は、江戸時代には木材を扱ってきた商家である。現在は民宿となっている。



厳島神社管弦祭御座船
古くは平清盛が寄進したと言われている。
現在は毎年倉橋島で作られて寄進されている。
日本最古の西洋式ドック跡。1803年桂浜の入江を開削して水門式ドックを築造した。以後千石船の造船で隆盛を極め、尾道、宮島と並び倉橋千件と言われたほど繁栄した。

倉橋歴史民族資料館
資料館は古くから造船及び海運によって成り立っていた島の歴史を背景に,それら資料の収集・保存・公開を目指して,1983(昭和58)年に開館した。



倉橋島の石
倉橋島で取れる石は、花崗岩で、”桜御影”と呼ばれる種類で、薄いピンク色をしている。
国会議事堂、横浜裁判所、宮崎県庁、阪神ビルなどに使われている。

現在も島には、所々に造船所がある。



沖野島のホリスアイランドホテルより望むプライベートビーチ



江田島海上自衛隊術科学校・幹部候補生学校

海上自衛隊は、主要艦艇141隻(39万屯)、主要航空機213機、海上自衛官4万4千人だそうです。
 海軍兵学校は、明治21(1888)年8月東京築地からこの江田島に移転以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスと共に世界3大兵学校としてその名は広く世界に知るところとなった。
 終戦により、連合軍に接収されたが、昭和31年返還された。術科学校が当地に移転し、昭和32年5月には幹部候補生学校が独立開校し、現在に至っている。
レンガ造りの幹部候補生学校

戦艦陸奥は、40cm主砲を8門搭載していた。これはその4番砲塔で新式砲と換装のため昭和10年撤去され、教材としてここに設置された。
最大射程距離30Km 弾の重量1トン



アレイからすこじま公園 呉市の大和ミュージアム:1/10の戦艦大和
海上自衛隊第一潜水隊軍司令部前から約300mの車道に沿った公園で、レンガ色を基調にした雰囲気の場所。ここからは日本で唯一、間近で潜水艦を見ることができる。5隻の潜水艦が停泊していた。  呉は、1889年呉鎮守府、1903年に呉海軍工廠が設置された後、東洋一の軍港として栄え、戦艦大和などを建造した日本一の海軍工廠の町であった。
 戦後は世界最大のタンカーを建造するなど、日本が世界一の造船国へ発展する一翼を担った。


呉市は、百済からの渡来人によって始められた造船や修繕は、三韓征伐や百済への援軍、白村江の戦船、そして遣隋使や遣唐使、秀吉の朝鮮出兵など、明治以後は日本海軍と共に発展し、戦艦大和の建造、戦後は世界一の造船国へと発展をしている。 
潮待ちの港・風待ちの港
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