国東半島へ
                        石の神々が宿る6郷満山を訪ねる
  国東半島は、"ほとけの里”と呼ばれています。古代の宇佐で生まれた八幡信仰(全国に4万余社の八幡宮)が、古代仏教と融合して”神仏習合”が生まれ全国に広がっていったそうです。国東半島の6つの郷では、天台宗と結び付き、山間に多くの寺院を擁立して、独特の仏教文化を花開かせていきました。これが6郷満山文化"と言われるものです。神仏習合とは、神と仏の出会い、これは自然の中に神(五穀豊穣、家内安全の神など)を見る信仰と、人間の本来の行き方を求める仏の道が調和されているということです。国東半島の山間を訪ねると、両子寺の鳥居、富貴寺や真木大堂の仏像群、熊野磨崖仏などの見事な文化財や、また名も無い石塔や野仏などに出会う事が出来ます。また6郷満山を包む山は奇岩奇峰で、修験者たちが悟りの境地を求めるにふさわしい景観を見せています。
 神(原始宗教)しか知らない我が国に、538年百済を経て仏教が伝来した。聖徳太子は、594年仏教興隆の詔を出し法隆寺や四天王寺を建立し、そして物部氏や蘇我氏などの争いを押さえ、国家統一のために仏教の教えを基に17条憲法(二に曰く、厚く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり)を604年に発布した。聖武天皇は、714年国分寺建立の詔を発布し、東大寺を初め全国に国分寺建立に国力を注いだ。仏教が国教化された奈良時代から、寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりしていた。例えば仏教の菩薩号を神名につけて八幡大菩薩と唱え、神仏融合調和が定着していった。最澄(767〜822年)を乗せた第16次遣唐使船は803年に出航したが、難破し、最澄は九州に留まり国東半島で布教をした。翌804年、再度第16次遣唐使は空海ら共に唐へ渡った。翌805年2月(空海は唐に留まり806年帰国した)帰国した。桓武天皇は奈良の六つの宗派=南都六宗(三論宗、法相宗、成実宗、倶舎宗、律宗、華厳宗)に加えて、天台宗に国の費用で僧侶を養成することを許可した。その後清和源氏は八幡神を氏神とし,関東・東北にまでも伝播するようになった。1192年(建久3),鎌倉幕府が開かれると,鶴岡八幡宮が武士の崇敬を集め全国的に勧請された。
 しかし1868(明治元)年天皇の神聖化を目的とする”神仏分離令(太政官吏布告)”が出され、今日の神は神社、仏は寺院とはっきり分離された。しかしここ国東半島では神仏混合が今も続いている。
 あえて私見を述べますと、原始宗教は開祖を持たずに超自然(太陽など)を祀ることです。年の始めに氏神様へ一年の家内安全をお祈りしたり、田植えの時に秋の五穀豊穣を村の鎮守の神様にお祈りをしたり、豊漁と海上安全を海の神様にお祈りしたり、日の出と共に太陽に一日の安全を祈ったりすることは、人類の当然の行為であり、自然な信仰です。その後、超能力があったとされる人が、死後神聖化されて神として祭られるようになりました。例えば、学問の神様として有名な菅原道真公を祀った天神様(天満宮)など、私の県には乃木希典神社や児玉源太郎神社などがあります。これらは現代では問題が無いと思っています。しかし明治時代に、現に生きている人を現人神(特定の人間が神聖視され,一時的あるいは恒久的に神として崇められる宗教現象ないし神観念の一形態をいう。)としたことに問題があったのではないでしょうか?今でも現人神や教祖が問題を起こしています。明治政府が、現人神を作るが為に、神仏分離令を出し、神社仏閣を破壊したのは残念でなりません。

国東塔 庚申塔

雲仙寺の地蔵、九州一の石地蔵

富貴寺
 山門(両側には石の仁王像がある)
    大堂(国宝)。中尊寺金色堂、平等院鳳凰堂と並ぶ日本三大阿弥陀堂
中には阿弥陀如来坐像が安置され、壁には浄土変相図と2千の仏が描かれている。浄土思想阿弥陀信仰の全盛期である平安後期の建立。
 
両子寺
参道入り口の仁王石像(2.3m) 718年国東六郷満山の開祖である仁聞菩薩によって開かれた

両子寺の鳥居
神仏混合が残る。
奥の院本堂
建物の半分は岩山の中に入っている。

文殊仙寺
山門の仁王像と石段
日本三大文殊の一つで「3人寄れば文殊の知恵」の諺の発祥の地としても知られる由緒あるお寺である。
山の斜面には羅漢石仏が並ぶ

宇佐神宮
                    上宮の南中楼門
1400年ほど前の奈良時代に創建された全国4万余社におよぶ八幡社の総本宮。
六郷満山を開創したのが、八幡大菩薩の化身と言われ、国東仏教文化の原点と言える。
                    江戸時代の面影を今も残す坂道の城下町杵築
杵築城は杵築城は、応永元年(1394年)木付氏四代目 頼直がこの地に移転し木付城と称した。 
天正十五年(1587年)薩摩国 島津軍が木付城に攻撃うけるが木付家一六代目鎮直が撃退した。この城は二度敵に攻められたが、不落の城であることから勝山城とも言われた。
文禄二年(1593年)大友家二十二代当主義統が朝鮮出兵で失態し大友家は改易となり家臣であった十七代目 木付統直は、豊前門司にて 自害し木付氏は344年間の歴史に幕を閉じた。
 その後、城主は前田玄以・杉原長房、細川忠興、小笠原忠知と度々替わった。正保2年に松平(能見)英親が豊後高田から37,000石で入封し、明治まで松平氏が12代にわたって居城した。
また現在の地名は正徳二年(1712年)将軍 家宣から松平重休に下賜の朱印に間違えて”豊後国杵築領”と書き間違えたそれをきっかけに現在の杵築なった
 
北浜口番所
外からの侵入を防ぐために当時は6カ所の番所が置かれていた。
大原邸
350石の上席家老の屋敷。回遊式庭園もある立派な茅噴きの家。

酢屋の坂(土塀と石畳が美しい)
緩やかな傾斜と広い石段は、馬やかごかきの脚に合うように
作られている。
江戸時代の面影を残す武家屋敷

勘定の坂
海が見下ろせる杵築の代表的な坂
北台家老丁
武家屋敷、藩校があり、勘定の坂へと続く


侍医佐野家にて。
大坂夏の陣の騒乱を避けて、豊後竹田の伯父の元で医学を学び、
杵築藩に侍医として仕えた。以来約400年医家として名声をはせた。

熊野磨崖仏 のこぎり山の山道をたどり、急な石段を100段ほど登ると巨大な磨崖仏がある。大分県には多くの磨崖仏が存在している。磨崖仏とは、岩の壁面に彫られた仏像のこと。国東半島には険しい山が多く、天台宗のお寺が多く存在する。
 5世紀頃のガンダーラや敦煌の遺跡が有名であるが、我が国では、仏教伝来(552)以後,小型の石仏は作られることはあっても,磨崖仏の出現までには歳月を要し、最古のものと目されているものでも奈良時代後期(770ごろ)、国東の磨崖仏は平安時代から室町時代にかけて彫られたものだと言われている。
不動明王、8mの半身像 帰りは孫を背負って山を下った。脚は筋肉痛。 大日如来。7mの半身像
仏像の種類
 如来(大日、釈迦、阿弥陀、薬師、盧舎那仏など)は、悟りを開いたもの、最高位の仏とされている。大日如来以外は、1枚の衣をまとうだけで、装飾品は身につけていない。髪の毛は螺髪(らほつ=小さくカールした髪の毛)で、如来独特のものです。
 菩薩(観音、弥勒、地蔵、文殊、普賢、日光、月光など)は、悟りを求めて修行している者。如来の慈悲行を実践し衆生を救う。上半身は裸で、左肩から右脇にかかけて条帛をかけ、天衣を肩や腕に絡ませています。下半身は裳(裙)をつけるのが一般的です。
 明王(不動、5大など)は、如来の化身、如来の命により一切の魔障を屈服させる。髪を逆立てた焔髪、忿怒相。背中に煩悩を焼き尽くす燃え盛る火炎を背負っている像も多い。様々な武器を手にしているのも特徴です。
 (梵天、帝釈、吉祥、四天王、金剛力士=仁王、えん魔大王など)は、仏法を守る超人的な力を持った神。本尊の脇や周囲に置かれる。
豊後高田昭和の町  経済的には貧しかったけれども、どこかにぎやかで、隣近所が肩を寄せ合いながら、助け合いながら生きていた時代を再現した町。
懐かしい大きな”すずめ蜂の巣”
新春 新緑
初夏
盛夏
晩夏
ゆかた 初秋
奥の細道

秋の木曽路
秋の京都
第5回おとこの着物大全会