初秋、芭蕉の辿った奥の細道(出羽の国)へ紬の単衣の着物、袖無し羽織りに野袴で出かけました。”月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。
”芭蕉は、旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も『旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る』でした。
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立石寺(山寺))860年慈悲覚大師円仁により開山。
険しい岩山が聳え、木々の緑が包み、所々にお堂が顔をのぞかせている。山寺と言う呼び名がぴったりの佇まい。
蝉
の
声 |
岩
に
し
み
入
る |
閑
け
さ
や |
芭蕉は1689年元禄2年5月27日(新暦では7月23日)弟子の曾良と共に訪れた。 |
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登山口には”奥の細道”の碑がある。 |
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呂の小紋の袖無し羽織りに、単衣の紡ぎの着物に、野袴のスタイルです。 |
巨大な岩と緑豊かな
林の中の参道。 |
35分で開山堂と岩の上に建つ赤い納経堂にたどり着く。
汗びっしょり。ここからの眺望は絶景!! |
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1546年に最上義守の嫡男として山形城で生まれた義光は29歳で家督を継ぐと、敵対する勢力を次々と滅ぼし、出羽57万石の大大名にまで上り詰めた。
紅
粉
の
花
べ
に
の
は
な |
佛
に
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て
お
も
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に
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て |
眉
掃
を
ま
ゆ
は
き
を
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紅花は山形県花。日本一の紅花の産地
原産地エチオピアから15世紀に伝わり |
おくのほそ道尾花沢そば街道
注文してから茹でる地元産のそばの味、
昆布を使ったダシ、兎に角美味しい。
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紅花商家の屋敷跡の紅花資料館 |
染料や口紅として、京都へ送られた。 |
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最上川 船 下 り (戸沢村)
福島県吾妻連峰に源を発し、庄内平野で日本海に注ぐ、最上川。延長229Km.江戸時代は、流域で収穫されて紅花や米などが最上川を下り、
酒田で北前船で京都や大阪へ上り、そして帰り荷は京都や上方の物産と文化を運んで来ました。
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最上川舟歌、真室川音頭などを3カ国語歌う
ガイドさん。五月雨ならぬ九月雨 |
船下りの中間点にある”最上峡ふるさと村”の桟橋で
名物の鮎の塩焼き美味しかった。 |
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羽黒山 涼しさやほの三か月の羽黒山
羽黒山、月山、湯殿山を合わせて出羽三山と呼ばれて、山岳信仰の地として古くから崇拝されてきた。標高は414m. 開山は約1,400年前、第32代崇峻天皇の皇子である峰子皇子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山に登拝し、羽黒権現を獲得、山頂に祠を創建したのが始まりとされている。
羽
黒
山
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ほ
の
三
か
月
の
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涼
し
さ
や
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表参道の石段は2446段(全長1.7km)
参道の両側には、国の特別天然記念
物にも指定されている樹齢350〜500
年の杉並木が鬱蒼と続いている。 |
樹齢1千年の”爺杉”
後の羽黒山五重塔は修理中
右は山頂の羽黒山三神合祭殿→ |
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スカイライン25(レンタカー)で庄内平野を鶴岡へと走る。 |
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城下町鶴岡は、
出羽山形最上家57万石の改易によって、信濃松代より酒井忠勝が1622年13万8千石で、
出羽庄内鶴ヶ岡に移封となってから明治まで酒井氏が治めていた城下町。
夕
す
ず
み
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吹
浦
か
け
て |
あつみ山や |
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2階、3階は養蚕場に利用しているもので、
兜作りと呼ばれる美しい茅葺き屋根の民家 |
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東北に現存する唯一の藩校、致道館 |
湯殿山山麓から移転した民家。(致道博物館) |
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致道博物館の旧西田川郡役所 |
藩の御用商人風間家旧宅・丙申堂。屋根には、石置杉皮葺屋根の町屋造り |
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酒田市 (1689(元禄2)年5月27(新暦では7月23)日に山寺を訪れた芭蕉は、6月25日酒田を立ち、越後へ向かった)
酒田は江戸時代に、河村瑞賢が西廻り航路を開いてから、北前船の拠点として、西の堺に東の酒田と称されるほど繁栄をしたそうです。北海道からは昆布、ニシン、棒鱈などの海産物を積んで酒田港に入った船は、米や紅花を積み、大阪に向かい、帰途には全国各地からさまざまな産品を酒田にもたらしました。今も酒田の街を歩けば、かつての繁栄の面影が残り、港町独特の風情を偲ぶことができる。"おしん”の舞台でありました。
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山居倉庫。12棟からなる米の保管倉庫。西日を防ぐために植えられたケヤキの並木が美しい、 |
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当時の豪商だった本間家玄関。
旗本2千石の風格を持つ書院造りの武家屋敷と、商家造りが一体となっている。"
本間様にはおよぼもないが、せめてなりたや殿様に、、、”と酒田節に唄われ、大名をも上回る財力を誇ったという。 |
酒田を代表する回船問屋旧鐙屋の茶の間にて
領主最上義光から鐙屋の屋号を与えられた。石置杉皮葺屋根の典型的町屋造りで、
土間に面して板の間と座敷があり、江戸時代の暮らしが伺える。
井原西鶴が”日本永代蔵””北の国一番の買い入れ鐙屋総左衛門という名を知らざるはなし”
と書き記すほど栄えた。 |
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