ゆ  か  た
    
   浴衣の由来は、昔平安貴族が麻の着物を湯上りに着たそうです。しかし殆どの人々は木綿の単衣を夏には着ていたはずです。現在の浴衣は麻が消えて木綿や合繊で、カラフルになっています。今日の夏の服装は随分カジュアルになっていますね。ならばゆかたで日中に外出して、夏の着物として定着して欲しいものです。『浴衣』という名称を廃止して、夏の着物に統合してはどうでしょうか?この『ゆかた』の洗えて、低価格で、おしゃれな感覚の着物が普及し、四季の着物として定着して欲しいと思います。
 下駄の鼻緒が痛い人は半足足袋を履かれては。つっかけでは靴下を履いても履かなくても誰も注意をしないのに、ゆかたに足袋を履くと色々言うオバチャマがいますが、おかしいと思いませんか?自分なりの基準で判断して決めましょう。
 孫は甚平やゆかたを好んで着ます。子供にとってはゆったりとして、着やすいのだと思います。また日本のホテルや旅館では浴衣を備え付けてあります。これは日本人には浴衣が一番くつろげる証拠ではないでしょうか?
 女性のゆかたは、色々な柄やブランドものが出回っておりますので、楽しみです。今年は女性の浴衣地で作ってみました。
2004年ゆかた  今年は女房が浴衣を縫いました。SLではなく、鏡対称です。

徳山コンビナートの夜景を見ながら、シーホースでのビアーガーデン      色違いの浴衣地で年甲斐もなく着てみました。

金魚ちょうちん祭り(柳井市)柳井市の民芸品である金魚ちょうちんをモチーフにした夏の一大イベント。
町中に飾られて2000個の金魚ちょうちんのほのかな灯りが、幻想的な雰囲気を醸し出す。
↓クリック。暑いよ!かき氷り!!
徳山夏まつり
金魚すくい
←かき氷り                     
アバレンジャーのお面
山口七夕ちょうちんまつり
10万個の紅提灯が夜を彩る。450年前大内氏の父母の冥福を祈るため、笹竹の上に高灯籠を灯したのが始まりとされ、それがやがて町の人々に広まり、高灯籠は手軽な提灯に変わっていったと伝えられています。高さ9mの提灯山笠も繰り出される。日本3大火祭りの1つに数えられている。                                                  白絣のゆかたで
来年にはもっとリズミカルに踊
れるように練習しておきます。

風神竜神のゆかた、
21世紀未来博覧会(愛称山口きらら博)が2001年7月14日〜9月30日まで、”いのちきらめく未来へ”をテーマに開催されました。

ゆかたで楽しむSLやまぐち号の旅(2001年7月1日)山口県観光連盟主催に、参加しました。1361組(5000名)の中より選ばれた県外25名、県内25組に、幸運に8名も当院から当選しました。 『おいでませ山口大型キャンペーン』の新善大使に任命されました。

1号(展望)車にて、JRのコンパニオン(赤の矢絣に袴姿)と。お茶とお菓子の接待、観光案内、クイズなどあっと言う間のSLの旅でした。それにチョロQのお土産まで戴きました。

毛利家代々の墓地。
鴬張りの石畳と呼ばれている参道は高下駄で歩くと、心地よい反響音がこだまします。
SL山口号山陽線小郡〜津和野
津和野(島根県)

津和野の散策。
山陰の小京都といった風情が感じる町並です。

津和野養老館にて。
森鴎外や西周もここに学んだ
、かっての藩校。掘割には鯉が泳き、菖蒲が咲くのどかな城下町です
白壁の家並が続く殿町の大岡家家老門にて。現在は町役場の門として現役です。
瑠璃光寺(山口市)にて

抹茶を1服戴きました
 1442年大内義弘の菩提を弔うために建立。5重塔では珍しい檜皮葺(ひわだぶ)きの屋根を持つ高さ31mの塔は、
大内文化の最高傑作と賞される。和、唐折衷の美しい姿が香山公園の緑に調和して優雅なたたずまいを見せています。
 外人女性からも一緒に写真撮影を頼まれました。
2000淡路花博にて
   ゆかた姿は独りでした。午後6時入園、午後9時の開園まで,花火もあり、明石海峡遊覧船にも乗り,ゆかたでリラックス出来ました。カジュアルな若者が多いですね。もっと浴衣で楽しみましょう
レストラン$マリーナ・シーホースにて
2001年7月20日午後7時。蛇島(さしま)に沈む夕陽が美しい。トンボ柄の女物で作りました。帯は結城紬の兵児帯で。 白絣の浴衣に夏の手織りの帯
1998年です。

5月、台北の夜店見物にて
 昼間の気温は32度、ゆかたが気持ち良い気候でした。アジアの民族舞踊鑑賞やベニスのゴンドラにはゆかたが良いのでは?

半足たび

下駄の鼻緒が痛い人は履かれては。
柄足袋、色足袋など、着物と気分に合わせて履きましょう。
足袋の店『むさしや
さんで誂えてもらいました。
花火大会

錦帯橋の鵜飼見物にて
ゆかた姿の職員と、山頂には岩国城を、午後7時30分



お 盆

灯籠(精霊)流し  (山口県大島郡橘町)
 精霊(しょうろう)流しは、盆の入りに迎え火を焚いて先祖や亡くなった方をお迎えし、盆の間共に過ごした精霊(故人の霊)を8月16日船に乗せて、極楽浄土へ送り出す行事です。海に2,000灯の灯ろうが流され、幻想的です。昭和37年より開始
  萩・東光寺の万灯会(まんとうかい)
 藩主の菩提寺である大照院では8月13、14日に迎え火として、東光寺では8月15日に送り火の行事として石灯籠に火が入れられます。500基の石灯籠に灯された蝋燭の火は、夢の世界に誘う幽玄の絵巻です
お盆に墓参り 精霊流しの起源については諸説ありますが、代表的なところで中国の「彩舟流し」という風習が伝わったものだと言われています。
右前:自由に着てもかまいませんが左前には着ないでください。
    
左前に着るのは「死んだときだけ」「早死にする」などといい、たいへん縁起の悪いこと、いわばタブーとされています。
     何故右前にしなければならないのでしょう。
第1には、右利きの多い日本人では、懐へ物を出し入れするには、右前の方が便利ですね。
第2は、病院では患者さんが死亡すると、清拭して左前に着物を着せます。これは仏式の葬儀で、死者に着せる経帷子(きょうかたびら)を左前にすることに起因しています。しかし、高松塚古墳の女性は左前の服を着ています。古墳時代(4〜6世紀)は右前と左前の両方の服装でした。わが国において、最初に服飾の制度を打ち出したのは推古天皇(在位592-628年 )で、聖徳太子の冠位の制定に始まります。聖徳太子は遣唐使を派遣し、唐の文化を輸入しました。当時の中国では右前(漢民族 は右前であった。そして卑しんでいた北方の騎馬民族が左前にしていた)が流行していたので、これに習って右前を奨励したそうです。そして719年(養老3年)詔勅「続日本紀」元正天皇2月3日の条に『初メテ天下ノ百姓ヲシテ襟ヲ右ニ令ム』が発布され、以後日本では右前に、そして道端で『のたれ死』の人を左前に衣を着せて死者と生者の区別しました。これが仏教や医師の世界に定着して、死者には左前に着せる風習が定着しました。
   では西洋ではなぜ、女は左前でしょうか?異論のあるところですね。H氏曰『自分で着たり脱ぐときは右前が良い。女性を脱がすときは左前が便利だ』と。フェミニスト氏曰『着せて上げるときに左前の方が便利だ』。良く分かりません。
第一礼装 準礼装 新春 新緑
初夏
盛夏
柳井
晩夏
2004年職員のゆかた
2003年職員のゆかた
2002年職員のゆかた
2001年きらら博
初秋