着物は単衣、袷、夏物などがあります。単衣は春から初夏まで、夏物は初夏から夏まで、袷は冬に着きると言われていますが、私はその時期の気温や天気に合わせて着るようにしています。例えば、4月の末、寒い日は袷を、暖かい日は長襦袢を夏物にしたり、単衣を着たりしています。寒ければ単衣を3枚着ても良いのではないでしょうか?(着物と襦袢の2枚しか着ないと言うのもおかしいですね.寒ければ、12単衣を着ても良いのでは)。6月の暑い日には、もう夏物です。人により体温も違えば、暑さ寒さの感じ方も違います。行く場所の冷暖房も違います。自分なりに判断して、快適な着物Lifeが送れるように着てみれば良いのではないでしょうか
 半袖羽織りは女房が夜なべ仕事で、2カ月で8枚作ってくれました。時には女房も兼用で着ています。(1mン百円で買えます)
播州室津港   詳細は 龍野城
塩沢紬で。壱岐勝本城跡から見る勝本港。朝鮮通信使と元寇の上陸地 『一支国』の王都=原の辻遺跡  詳細は

天草にて大小の島々を結ぶ天草五橋は、。昭和41年に開通した。天草パールラインと呼ばれている。
天草四郎像と 天草松島遊覧 千巌山(162m)山頂から眺める天草諸島
松江にて
松江城天守閣 堀川遊覧船にて50分の観光 松江フォーゲルパーク
2005年マリーナシーホース新装開店レセプションに招待されました。
絞りの着物に大島の羽織りで 徳山湾の蛇島に沈む夕日
アクアス(島根県立しまね海洋館、浜田市)にて 土井晩翠像(青葉城にて荒城の月を作詞
野袴に印籠ならぬポシェット(携帯電話、カード財布)
奥の細道・陸奥路詳細は
夏草や 兵共が 夢の跡(毛越寺) 五月雨の 降り残してや 光堂(中尊寺) 蚤虱 馬の尿する 枕もと(尿前ひとまえの関)
伊藤博文公記念館 伊藤博文(1841−1909)は山口県大和町に生まれ、9歳までこの地で過ごした。その後萩に移り、吉田松陰の松下村塾に学んだ後は、木戸孝充、高杉晋作、山県有朋らと討幕運動に奔走した。1885年初代内閣総理大臣

NTTテレホンカードより複写する。
伝説の車”美遊人”
1993-2003年5月まで7,658台、
光岡自動車にて生産された。
伊藤公生家にて 旧千円札第1号券A000001A
萩城下にて 毛利元就の孫輝元は1600年関が原の戦に敗れ、中国地6カ国の領地を削られ周防、長門の2カ国36万石の領主に移封された。輝元は1604年萩指月山麓に築城し、隠居した。その子秀就が僅か6才で初代藩主になった。第13代敬親が藩府を山口に移すまでの260年間政治の中心であった。1875年天守閣、居館を解体した。          詳細は

旧田中義一別邸にて山口県知事と
厚かましくも知事夫人に撮影してもらいました。
黄檗宗東光寺  
毛利家の菩提寺で奇数代藩主を祀る菩提寺↓
萩城跡にて単衣の紬に、袖無し羽織り、野袴で 高杉晋作生誕地
奇兵隊を組織し、長州征伐、四国艦隊と戦った。
お茶を一服 萩城内の梨羽家茶室のつくばいにて
”午後のお茶”単衣の紬の着物に、
袖無し羽織り、野袴で。
佐渡にて
単衣の紬の着物に袖無し羽織り、野袴で
徳山駅にて。徳山市粭島は
ふぐ延縄漁の発祥地です。
佐渡根本寺にて 越後湯沢お酒ミュージアム”ぽんしゅ館”
端午の節句

孫の端午の節句に石亭(宮浜温泉)にて
 単衣の塩沢紬の羽織と単衣の白大島の
着物。横の人も負けじと単衣の夏大島を
着て、嫌がる孫を抱いています

結城紬のアンサンブルに結城紬の兵児帯。
   

紬の着物、髭紬の羽織で孫と鯉
父と端午の節句(既に第2次世界大戦が始まっていた)
城下町長府(山口県下関市) 大化の改新(645年)以降、長門の国の国府が置かれたことから、『長門の国の国府』がつまって長府と呼ばれるようになりました。聖武天皇の時代には、ここに国分寺、国分寺尼寺が建てられました。中国8カ国を治めていた毛利氏が、1600年関が原の戦いで西軍に加担した為に、周防と長門の2カ国に封じられ、本藩は萩に置いた。毛利秀元(元就の4男の子)は長府支藩を起こして、栄えた城下町です。

いざ、いざ勝負(1人2役)
小次郎と武蔵が対決した巌流島も下関です
長府毛利邸にて イベント”back to the戦国時代”。4、5月の土日甲冑や女官装束を着て戦国時代へワープするという企画。
烏帽子に甲冑姿で毛利の殿になった気分 母屋の玄関から帰る(鎧は重たかった)。 古江小路と菅家長屋門
乃木希典神社にて
左は国家君が代に歌われてれている”さざれ石”
            壇ノ浦の古戦場(関門海峡、向かいは門司)
 二位の尼(平清盛の妻時子)が幼い安徳天皇を抱き三種の神器を身につけて入水した。続いて建礼門院(安徳天皇の母で、清盛と時子の娘、徳子)も入水したところを源氏の武将に引き上げられた。
安芸の宮島。806年空海が厳島弥山に開基,1146年平清盛が厳島神社を建立,平家一門が繁栄を祈って奉納した平家納経などを納める宝物館、1555年僅か4千の兵で毛利元就が陶晴賢を打った古戦場跡など見所は多い宮島です。単衣の紬の着物に袖無羽織りと野袴姿で行きました。
夜の厳島神社の大鳥居(高さ16m, 海に浮かぶ優雅華麗な神殿。 平松茶屋から望む大鳥居と神殿(350mmの望遠レンズで、大鳥居を引き寄せました)
大聖院(真言宗)にて、 もみじ谷にて 1587年秀吉が造営した千畳閣にて
平家落人の里泉村、子守歌の里五木村、人吉  詳細は

紬の単衣の長着に、絽駒の羽織(黒の絽の羽織)にきもの村で作った野袴で出掛けました。

    五木の子守唄公園
オロロン オロロン オロロンバイ
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどる
おどんが打っ 死 ( ち ) んだちゅうて だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く
哀愁を帯びたメロディーと切ない思いが伝わる子守歌



  ←せんだん轟(滝)
単衣の紬の着物に絽小紋の袖無し羽織に野袴



          人吉城跡
相良藩700年の居城、現在は緑の木立に苔むした石垣が残るのみ。
甲州印伝について
 今では山梨県でしか作られていない印伝とは、鹿のなめし革に、色漆や染色で模様をつけたものの総称です。その語源は、平安朝の頃インドからその技法が伝来したと言われ、”印度伝来”と名づけられ、後に国産化され、”印伝”と呼ぶようになったとされています。
印伝の製造方法は、
@鹿革を型紙に合わせて裁断する。
A手彫りされた和紙の型紙を裁断した鹿の革の上に置き、ヘラで漆を刷込み、剥がすと、上記のような奇麗な文様が浮かびあがります。
B漆を乾燥させる為に、数日地下室で乾燥させる。
C裁断し製縫します。
 硬質な輝きを放ち、表面は漆柄の凹凸があり、使えば使い込むほどに革がなじみ深い味わいがでます。 戦国時代は、武具の一部に、江戸時代は巾着やたばこ入れなどに使われ庶民に愛され、使われて来ました。
第一礼装 準礼装 新春 新緑
佐渡越後
初夏
盛夏
晩夏
ゆかた