城下町長府(山口県下関市) 大化の改新(645年)以降、長門の国の国府が置かれたことから、『長門の国の国府』がつまって長府と呼ばれるようになりました。聖武天皇の時代には、ここに国分寺、国分寺尼寺が建てられました。中国8カ国を治めていた毛利氏が、1600年関が原の戦いで西軍に加担した為に、周防と長門の2カ国に封じられ、本藩は萩に置いた。毛利秀元(元就の4男の子)は長府支藩を起こして、栄えた城下町です。 |
|
|
|
いざ、いざ勝負(1人2役)
小次郎と武蔵が対決した巌流島も下関です |
長府毛利邸にて |
イベント”back to the戦国時代”。4、5月の土日甲冑や女官装束を着て戦国時代へワープするという企画。 |
|
|
|
|
烏帽子に甲冑姿で毛利の殿になった気分 |
母屋の玄関から帰る(鎧は重たかった)。 |
古江小路と菅家長屋門 |
|
|
|
|
乃木希典神社にて
左は国家君が代に歌われてれている”さざれ石” |
壇ノ浦の古戦場(関門海峡、向かいは門司)
二位の尼(平清盛の妻時子)が幼い安徳天皇を抱き三種の神器を身につけて入水した。続いて建礼門院(安徳天皇の母で、清盛と時子の娘、徳子)も入水したところを源氏の武将に引き上げられた。 |
|
安芸の宮島。806年空海が厳島弥山に開基,1146年平清盛が厳島神社を建立,平家一門が繁栄を祈って奉納した平家納経などを納める宝物館、1555年僅か4千の兵で毛利元就が陶晴賢を打った古戦場跡など見所は多い宮島です。単衣の紬の着物に袖無羽織りと野袴姿で行きました。
|
|
|
夜の厳島神社の大鳥居(高さ16m, |
海に浮かぶ優雅華麗な神殿。 |
平松茶屋から望む大鳥居と神殿(350mmの望遠レンズで、大鳥居を引き寄せました) |
|
|
|
|
大聖院(真言宗)にて、 |
もみじ谷にて |
1587年秀吉が造営した千畳閣にて |
|
平家落人の里泉村、子守歌の里五木村、人吉 詳細は
|
紬の単衣の長着に、絽駒の羽織(黒の絽の羽織)にきもの村で作った野袴で出掛けました。
五木の子守唄公園→
オロロン オロロン オロロンバイ
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどる
おどんが打っ 死 ( ち ) んだちゅうて だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く
哀愁を帯びたメロディーと切ない思いが伝わる子守歌
←せんだん轟(滝)
単衣の紬の着物に絽小紋の袖無し羽織に野袴
人吉城跡→ 相良藩700年の居城、現在は緑の木立に苔むした石垣が残るのみ。 |
|
|
|
甲州印伝について
今では山梨県でしか作られていない印伝とは、鹿のなめし革に、色漆や染色で模様をつけたものの総称です。その語源は、平安朝の頃インドからその技法が伝来したと言われ、”印度伝来”と名づけられ、後に国産化され、”印伝”と呼ぶようになったとされています。 |
|
印伝の製造方法は、
@鹿革を型紙に合わせて裁断する。
A手彫りされた和紙の型紙を裁断した鹿の革の上に置き、ヘラで漆を刷込み、剥がすと、上記のような奇麗な文様が浮かびあがります。
B漆を乾燥させる為に、数日地下室で乾燥させる。
C裁断し製縫します。
硬質な輝きを放ち、表面は漆柄の凹凸があり、使えば使い込むほどに革がなじみ深い味わいがでます。 戦国時代は、武具の一部に、江戸時代は巾着やたばこ入れなどに使われ庶民に愛され、使われて来ました。 |
|
|