毛利元就の孫輝元は1600年関が原の戦に敗れ、中国地方6カ国の領地を削られ周防、長門の2カ国36万石の領主に移封された。輝元は1604年萩指月山麓に築城し、隠居した。その子秀就が僅か6才で初代藩主になった。萩は第13代敬親が藩府を山口に移すまでの260年間政治の中心であった。 |
1 萩城跡 萩城は毛利藩主13代、260年間36万石の居城として栄えたが、明治7年に木戸孝允の指示により解体され、現在は石垣と堀だけが残っている。 |
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夏蜜柑のことを”だいだい”とも言う、これは花の咲く時期と収穫の時期が重なり、代々に渡って実が続くことから来ており、繁栄と回春の縁起をかつぎ、正月飾りなどに用いられる。実と花が同時に咲き、実る。 |
武家屋敷跡の夏蜜柑
明治維新後、禄を失い生活に困窮する士族の救済の為に小幡嵩政が夏蜜柑栽培を始めた。 |
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孫を自転車に乗せサイクリングで回りました。所要時間6時間 |
紬の着物に、女房作の袖無し羽織り、野袴で、
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萩城内花之江茶亭の庭、殿様になった気分で |
抹茶を一服 |
萩城内の花之江茶亭のつくばい |
5月に咲く夏蜜柑の花
山口県花に選定され、5月半ばにはまち全体が夏蜜柑のほのかな甘い香りに包まれる。
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大島紬に、女房作の袖無し羽織りで→ |
旧厚狭毛利萩屋敷長屋(毛利元就の五男を始祖とする厚狭毛利家、51mの長屋、1865年に建てられた) |
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2 萩城堀内(萩城の三の丸だった地域で、藩政時代には、お蔵元、諸郡御用屋敷など藩の諸役所や毛利一門、永代家老、寄組と言った重臣たちの邸宅が建ち並んでいた所で、現在は国の重要建造物群保存地区に指定されている。)
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北門屋敷 萩を代表する旅館。毛利屋敷跡の3千坪の敷地に四季の花を楽しむホクモンガーデンとパティオ、欅造りの逍遥亭他個性的な雰囲気の中で、優雅なひと時が過ごせる旅館。 |
↑色とりどりの花が咲き誇るイングリッシュスタイルのガーデンの散策
夏塩沢のお対に 、
きもの村オリジナル夏用竪絽野袴”ダンディ袴”で
→JRのポスターになっている旅館内部。 |
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菊ケ浜
萩城跡の指月山から萩湾に沿って白砂青松の続く海岸、眺めが素晴らしい。 |
天樹院墓所
毛利輝元の墓所で、輝元と夫人及び殉死者長井治郎左衛門の墓石があり、これらは花崗岩製の五輪塔形である。ここは以前輝元の隠居所である四本松邸があり、死後に菩提寺として天樹院(輝元の法号)が創建されたが、明治2年(1869)廃寺となり墓所のみが残った。 |
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鍵曲
かいまがり |
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鍵曲がり(かいまがり)と呼ばれるクランク状の路地。外敵の侵入や攻撃に備えるための工夫で、さらに見通しを妨たげる為に道の両側を高い塀で囲んでいる、迷路に入り込んだような錯覚におちいる。 土塀の上からたわわに実った夏蜜柑が、堀内の代表的な風景。夏蜜柑は明治以降、職を失った士族を救済する目的で盛んに植えられてもので、今では萩に風物詩として愛されている。 |
口羽家住宅(重文)
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なまこ壁が美しく重厚な口羽家長屋門、 |
口羽家の庭園から橋本川を見る。 |
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旧田中義一別邸 (1864〜1929年、陸軍大臣から1927年第26代総理大臣となり、外務大臣と拓務大臣を兼任、息子田中龍夫は山口県知事、文部大臣、通産大臣、総務庁長官を歴任し、平成10年死去。
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総理官邸の屋根にあるフクロウの像
首相官邸は1927年3月竣工、田中義一総理から、平成14年4月小泉総理までの73年間42名の首相と共に激動の時代を歩んで来た。 |
二井関成山口県知事と |
大正後半に田中義一の所有となり、2階建てが建てられた。 |
紬の単衣の着物に、米沢の薄物の羽織りで。 |
知事曰く”お着物いいですね”。美遊人曰く”知事も着物を着られては”。知事曰く”小泉総理は昨年の年頭記者会見を紋付袴で臨まれたので、私も、紋付袴を着たい”と。 |
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平安橋 萩城堀内と城下町の境界。 |
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3 萩城下町
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昔の面影を残す江戸屋横丁、菊屋横丁 |
高杉晋作生誕地
奇兵隊を組織し、長州征伐、四国艦隊と戦った。 |
横丁の喫茶店で休憩 |
菊屋家住宅の先祖は、毛利氏に従い広島から山口に移って町人となり、さらに萩城の築かれた慶長年間に萩に移ったといわれ、
後には藩の御用達を勤めるほか、その屋敷は幕府巡見使の宿として本陣にあてられてきた豪商であった。
主屋の建築年代は承応元年(1652)から明暦3年(1657)までの間に建てられたものと推測されれる。 |
桁行13.0m、梁間14.9m、切妻造り桟瓦葺きで居室部は前寄り1間半を「みせ」とし、その奥は土間寄りに役向きの部屋が三部屋設けられている。全国的にみても現存する大型の町屋としてその価値は極めて高い。 |
雪隠後の手洗い |
井戸での水汲み |
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(重文)菊屋家
(藩の御用商人)
の主屋で |
青木周弼旧宅 大島紬の着物に大島紬の袖無し羽織で。
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青木周弼(しゅうすけ1803〜1863年)蘭学者で御典医。享保雛(左)江戸時代享保年間に流行した大型の雛 |
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4浜崎、寺町、土原
鈴源織物(米沢)の紬のとんびに、紬の着物で
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野山獄跡藩政時代の獄屋敷で、野山獄は上牢として士分の者を収容し、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。安政元年(1854)に海外密航に失敗した吉田松陰は野山獄、その時の従者金子重輔は岩倉獄に投ぜられた。 |
旧萩藩御船倉藩主の御座船を格納した倉であり、慶長13年(1608)萩城築城後、間もなく建てられたと思われる。構造は両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面は木造扉を有している。屋根を葺いた旧藩時代の船倉としては全国唯一の遺構で、国の史跡に指定されている。 |
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廊下と庭園
雰囲気、料理共に萩で1番お勧めの宿 |
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常茂恵旅館 松本川の河畔、約1万uの敷地に広大な日本庭園に、ゆったりと建つ純和風旅館。館内の落ちついた雰囲気が醸し出す和の世界にひたり、庭園を眺めながら、日本海の海の幸が味えます。大正14年創業 |
”薩長土連合密議の処” 岸信介の書 |
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北前船で栄えた浜崎の商店街、 |
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5 萩椿東
松下村塾 松陰は28歳の時、叔父玉木文之進の後を継ぎ、僅か2年半この教育施設で教育にあたった。しかし、ここから維新の原動力になった高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など多くの志士達を排出している。
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松下村塾8畳と10畳半の部屋に土間付きの簡素な平屋 |
花月楼安永5年(1776)に7代藩主毛利重就が、江戸千家の元祖川上不白の献上した花月楼の設計図に基づいて三田尻(防府市)の別邸内に建築した茶室である。昭和34年(1959)に現在地に移築、県の有形文化財に指定されている。 |
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伊藤博文(初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣1841〜1909年)旧宅 伊藤博文が少年期から青年期を過ごした家。
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建坪29坪の茅葺き平屋建。17歳で松下村塾に通う |
菊の御紋の入った御雛様 |
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黄檗宗東光寺 毛利家の菩提寺で奇数代藩主を祀る菩提寺
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毛利吉就が1691年に建てた毛利家の菩提寺で、吉就のほかに奇数代の6藩主および、その夫人の墓がる。広い境内には三門、大雄宝殿、鐘楼などが当時の面影を残す。墓地には約5000基の石灯篭がある。 |
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萩・東光寺の万灯会(まんとうかい)
藩主の菩提寺である大照院では8月13、14日に迎え火として、東光寺では8月15日に送り火の行事として石灯籠に火が入れられます。500基の石灯籠に灯された蝋燭の火は、夢の世界に誘う幽玄の絵巻です |
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反射炉
長州藩が強力な兵器製造のために建てた反射炉。
高さ11.5m,2本の煙突は耐火レンガ、他は玄武岩で出来ている。日本に2つしが残存しない。 |
運河と川の出会う橋本川畔
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6 藍場川周辺 市内の東南端から市内に通じる幅1.5mの人工河川。昔から農業用水や水上交通路として利用された。歴史を感じさせる味わい深い石垣や石橋が今も残る。澄んだ水には鯉が泳ぎ、いかにも萩らしい情緒豊かな散歩道といえる。 |
旧湯川家屋敷。この屋敷では藍場川の水を屋敷内へ引き入れて、流水式の池水庭園を作り、池を出た水は家の中に作られたハトバで家庭用として使われた後、再び藍場川へ戻ってゆきます。 |
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台所のハトバ(庭園から流れ出た水は、台所のハトバに出て来ます。ここで野菜や茶碗を洗う生活用水) |
川沿いに長屋門があり、屋敷の中へは橋を渡って入って行きます。 |
萩城下の古き雛たち |
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桂太郎(第11代、第13代、15代総理大臣、1847〜1913年)旧宅 |
山縣有朋(第3代、第9代総理大臣1839〜1922年)生誕の地 |
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陸軍大臣から3度総理大臣を歴任した桂太郎の幼年時代を過ごした家。藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園内に桂太郎公銅像が建っている。この銅像は、桂太郎が拓殖大学の前身である台湾協会学校の創立者であることから、拓殖大学より創立100周年を記念して平成12年(2000)に寄贈されたものである。
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内閣総理大臣を2回、参謀総長、枢密院議長をも務めた。今は旧宅はなく、誕生地の石碑のみが建っている。明石ちじみの着物 |
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7 笠山周辺
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笠山の北端虎ヶ崎10haの広さに25,000本の椿が咲き乱れる笠山椿群生林。紬の着物に角袖のコートで |
明神池
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笠山の溶岩と潮流の作用で海が埋残した灌水湖。岩の透き間を通じて外海と繋がっていて、池でありながら海水魚が泳いでいる。 |
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笠山
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笠山山頂の展望台からは、山麓から虎ヶ崎まで椿原生林を、また日本海に浮かぶ島々を望む。 |
玄武岩台地にトロイデ状の溶岩が噴出した小火山。標高112mの山頂にある(直径30m,深さ30m)噴火口で。 |
日本海名物ヤリイカの天干し風景が見られる。 |
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8 その他
大照院 臨済宗の寺院で、荒廃していたのを、2代藩主綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提所とするために承応3年(1654)から明暦2年(1656)にかけて再建した。当寺は延享4年(1747)の火災で焼失したが、現在の本堂、庫裏、鐘楼門は6代藩主宗広が寛延3年(1750)に再建したもので、特に庫裏は藩主の菩提寺にふさわしい規模と風格を備えている。
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隣接する大照院墓所は国指定の史跡で、秀就以下2代から12代までの偶数代の藩主と夫人及び一族と秀就に殉死した7藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基ある。 |
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鐘楼門 |
大照院墓所 |
8 萩焼の歴史は、慶長年間に韓国より渡来した陶工李勺光、李敬兄弟が、毛利藩の御用窯として開窯し、高麗風の茶陶を製作したことに始まります。古来より茶人の間で「一楽二萩産唐津」と称され、数ある茶陶の中でも深く愛されてまいりました。以来今日まで、この伝統は約四百年の歴史とともに受け継がれ育まれております。
萩焼は、素材にして風趣に富み、その手ざわり口ざわりの柔らかさが特徴です。また、使い込むほどに茶慣れによって色調、景色に種々の変化を生じ、これを「萩の七化け」と呼んでおります。
萩焼の窯元、緑栄窯
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緑栄窯の店にて。松野龍司先生と萩焼でコーヒーをいただく。 ギャラリー内部で
紬の着物で 男の料理で使っている松松野先生作のお皿です。→ |
元萩(げんしゅう)窯
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元萩窯玄関で |
ギャラリー内部で、抹茶を戴く |
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元萩窯で、外園(ほかぞの)元晴先生の製作風景 |
外園元晴先生作 |
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萩の文化財 |
小京都とは、かつて都人によって伝えられた京都の文化が、やがてそれぞれの地方に培われた独自の風土ととけあって多様で奥深い文化をつくりあげ、歴史を大切に思う人々の心に守られて、いまも伝統の技が脈々と受け継がれ、古式ゆたかな祭礼が途絶えることなく華やかに繰りひろげられている等、いくつかの条件を満たし、「全国京都会議」の一員になることで「小京都」の称号が与えらている。北は弘前から南は知覧まで全国に53市町があります。
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