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津和野は”つわぶきの生い茂る野”をその名のルーツにもつと言われ、今から約9千年前の縄文時代から人々が住んでいたことが確認されている。平安時代には稲作の水田開発が進み、集落が形成されたと言うが、豪族が誕生したと言う記録は無い。1282年元寇警備のために能登から岩見に入部した地頭職吉見頼行が、約30年の歳月をかけて山城を完成させた。大内弘世が岩見国守護となった1366年頃に、吉見氏は大内氏の家臣となった。1540年吉見家第11代正頼は大内義隆(周防、長門、安芸、岩見、豊前、筑前、豊後7カ国の守護)の妹と結婚した。1551年陶晴賢は主君である大内義興を攻め滅ぼすと、1554年津和野城を攻めたが、吉見正頼は、毛利元就と計り、籠城をし5カ月間に及んだ。その間毛利元就は安芸を占領し、陶晴賢の居城である富田若山城を攻めた。1557年毛利元就は陶晴賢を滅ぼし、山口攻略の最大の功労者は吉見正頼だとし、岩見氏に西岩見、長門、阿武郡を与えて家臣とした。1600年関ケ原の戦いで西軍が敗退すると、吉見氏は津和野を坂崎出羽守に明け渡して、主家の毛利氏の萩移封に従い萩へ退転した。坂崎氏は津和野城の大改築、城下町の骨格作り、新田開発、和紙の原料の栽培、潅漑用水路の建設、鯉の養殖など今日の津和野の礎を築いた名君であった。しかし坂崎氏は千姫事件で在位16年間で自刃した。1617年因州から亀井氏が4万3千石の城主として入った。以後藩主は産業振興と教育に力を注いだ。藩校”養老館”からは、西周(近代日本哲学の祖)、森鴎外(陸軍軍医総監、文豪)、小藤文次郎(断層地震説を主張)などを輩出した。1871年廃藩置県によって、浜田県のち島根県に属し、津和野町となった。津和野には私の家から車で1時間で行けます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳佐八幡宮参道の桜並木(徳佐は、1557年から津和野藩、現在は山口県)
SL山口号山陽本線新山口〜津和野 所要時間下り2時間、上り1時間30分
太鼓谷稲成神社 全国に4万社と言われる稲荷神社。7代藩主が城の安泰と住民の幸福を祈願して伏見稲荷の神霊を移したもの。
森鴎外旧宅
殿町
石見の夜神楽
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