お雛祭りおひなまつりの由来は、約千年前、平安時代「ひいな(小さくやさしいと言う意味)」の遊びから発生したといわれ、日本独特の人形として雛人形が生まれました。女児の健やかな成長と幸せを祈る早春の祭りとして雛人形は江戸時代中期、町人文化の繁栄とともに大衆の間にも広がり、「ひなまつり」は日本の伝統行事の一つとして定着していきました。最近では村おこしとして、雛人形の一般公開をしている地域が増えています。関西では向かって左に男雛、右に女雛、関東では左に女雛、右に男雛を逆に並べています。ひなの国九州
孫 の ひ な 祭


結城紬の羽織りに
、大島紬の着物で
     

紬の着物
大島の羽織りで

萩 城 下 の 古 き 雛 た ち (山口県) 大島紬の着物に大島紬の袖無し羽織で
青木周弼(しゅうすけ1803〜1863年蘭学者)旧宅                享保雛(左)江戸時代享保年間に流行した大型の雛

初代内閣総理大臣伊藤博文公旧宅  左は菊の御紋が入っているお雛。

旧湯川家屋敷 萩城跡の桜

商都柳井(山口県)ひなめぐり
国森家。18世紀の後半に建てられた商家で、国の重要文化財に指定されています。江戸末期、明治30年代のお雛様。 むろやの園は、江戸時代には50艘もの船を持ち、西日本屈指の油商として栄えた。大正初期のお雛様。
酒倉”旭寿”の杉のくす玉 西蔵。大正時代末期に酒倉として建てられた木造瓦葺きの建物。

天領日田のお雛祭りにて
紬の着物に結城の羽織。孫も着物です。
福岡県吉井町のひな祭



孫の着ている着物は、25年前に娘が着ていた着物です。これを補正して、着せました。チャイルドシートがきつかったようです。(飾帯が問題だった?機嫌が悪かった。)

江戸時代、日田には九州の幕府の直轄地天領を統括していた代官所があり、九州の政治、文化、経済の中心地として、当時の華やかな町人文化が花開きました。当時裕福な町人の間では、女児の誕生を祝い高価な人形などを贈り交わしており、今でも市内の旧家には江戸時代から明治、大正にかけての古い人形が数多く残っております。天領日田おひなまつりは、旧家の一つである草野本家(県指定有形文化財)が、昭和58年に雛人形の一般公開をはじめたのが起こりで、今では豆田地区、隈地区を中心に市内20箇所余りで公開しています

福岡県うきは市吉井町のひな祭


柳川(福岡県)のさげもん
 城下町柳川の雛祭りは、雛壇よりも、部屋いっぱいに飾られ、春のやわらかな光の中にゆれている「さげもん」に目を奪われます。

北原白秋生家(柳川)のさげもん
白秋(明治18年〜昭和17年)の生家は、柳川藩御用達の海産物問屋だったが、父の代に酒造業となって繁栄していた。


鞆ノ浦のひな祭り
鞆ノ浦は、瀬戸内海のほぼ真ん中に位置し、関門海峡、豊予海峡、紀淡海峡、鳴門海峡を流れる潮は、干潮から満潮まで鞆ノ浦へ向かって流れ込んで来る。また満潮から干潮にかけては鞆ノ浦から潮が4つの海峡に向かって流れ出る。そこで鞆ノ浦は、大阪に上がる船も、九州へ下る船も、満潮に乗って入港し、干潮に乗って出航する潮待ちの港として2泊することも少なくなく、潮待ちの港の中でも鞆ノ浦は、最も栄えた。寺院の仏像が数多く伝来し、鞆鍛治、朝鮮通信使、宮城道雄の春の海、保命酒、七卿の都落ち、いろは丸など海にまつわる歴史が沢山残されている。
                                      大田家の雛飾り(沢山の昔話の主人公も人形になっている。豪華だ!)
 鞆の港を囲むように建ち並ぶ商家と浜蔵、その中でも特に目を引くのが大田家の主屋と土蔵群であった。江戸時代に福山藩の専売品である保命酒、薬味酒の製造を行っていた中村家の建物。 長州藩など参勤交代の西国大名の宿舎でもあり、海の本陣としての様式を整えている。

阿弥陀時のお雛飾り。
四国八八カ所の花押の屏風は、浄土宗のお寺に真言宗の花押が不思議である

鞆ノ津の商家の雛飾り



城下町中津のひなまつり
1587年黒田如水が築城、昭和39年再建された中津城 
日本3大水城(中津、高松、今治城)
中津城の有織雛
福沢諭吉旧居(19歳まで過ごした母屋と土蔵)
”天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず”
ひな御膳

村上医家資料館
1640年開業し、現在まで医家の家系が継続している。
赤塀の合元寺

中津歴史民族資料館にて

菜の花館のおきあげ(紙雛) 若松邸の有職雛

栄晶庵にて 自性禅寺大雅堂(奥平藩歴代の菩提寺)の創作和紙人形

猪股邸の優雅な創作人形



雛の里・八女ぼんぼり祭り (福岡県) 八女は雛人形の生産地です。
福島の白壁の町並み 横町町家交流館にて。江戸時代に建てられた酒屋
お内裏様と御雛様がこんなに沢山飾ってあります。

佐賀城下ひなまつり
佐賀藩鍋島家伝来の雛人形をはじめ、鍋島小紋や手織り佐賀錦などのおひなさまが絢爛豪華に勢揃い。

町中の御ひな様
陶器の御ひな様(深川青磁の店先で) ガラスの御ひな様(TAMAYAギャラリー) 物語の御ひな様(竹取物語の絵巻)

お菓子の御ひな様(恵比須ギャラリー)
昭和9年に開設された佐賀銀行の旧呉服町支店。この歴史的に価値ある建築物を後世に残し、地域のために活用する目的で生まれたのが「恵比須ギャラリー」です。ここでは、お土産に最適な色とりどりの雛菓子や雛ケーキ、さらに肥前・佐賀ならではのお菓子を展示・販売。

徴古館は昭和2年に佐賀藩鍋島家12代当主侯爵鍋島直映公により歴史博物館として創設された。
ここで展示されるのは、明治維新後に大名から侯爵となった鍋島家のおひなさま。
最後の藩主11代直大公夫人栄子様、12代直映公夫人禎子様、13代直泰公夫人の紀久子様などの
所用品を中心に約550点を一堂に展示てあります。

福田家の御ひな様
佐賀錦の実演
 佐賀錦は金、銀、漆を貼った和紙を細かく
裁断したものを縦糸にし、絹の拠り糸を染色した
ものを横糸として丹念に織り上げてゆく
”手織り佐賀錦をまとったおひなさまを展示しています。

鍋島小紋の御ひな様(古賀家) 和紙の御ひな様(旧古賀銀行)


臼杵のお雛様
 天保の改革の時代に臼杵藩では質素倹約のため紙のお雛様しか許されなかったという古事に倣い、和紙で作った雛人形を市内各所に飾ってある。着物で行くと殆どの所が入場料無料などの特典があった。
国宝臼杵の石仏 旧真光寺のお休み処の”うすき雛”

二王座 野上弥生子文学記念館


雛人形には年代と共に名前が付けられています。
享保雛。
 江戸時代享保年間(1716〜1736年間に流行した大型の雛。時代は享保に限っているわけではなく、この形式をそう呼び習わし、明治になっても製作販売されている。町屋で多く飾られ大型のものが多い。金蘭や錦で出来た衣装をつけ男雛はたちをさし、しゃくを持、女雛は冠をかぶり五衣(いつつぎぬ)、唐衣と呼ばれる着物を着て檜扇(ひおうぎ)を持っている。
有職雛。
 宝暦(1751〜1764年)頃作られた雛で、京都で有職故実に基づいて正しく雛に仕立てられたもので、明治以降この名前で呼ばれている。有職故実とは、朝廷や武家の風俗習慣を研究する学問である。
古今雛
 明和(1751〜1764年)の頃江戸の人形問屋大槌屋半兵衛が人形師船月に作らせ売り出したもの。人間にとても近い写実的な表情で、眼にはガラスをはめ込み、衣装も錦糸で刺繍した金蘭や錦などで作られ、精巧かつ豪華なものである。
芥子雛(けしびな)
 江戸時代中期以降に流行した3寸(約10cm)以下の小型の雛。大型の雛が幕府の禁止令によって制限されたことの反動とも見られ、高さが3cm以下の雛もあった。杓子粒のように小さいことの意からこう呼ばれた。
紙雛
 紙で作った雛で、神性の名残をとどめている。平安時代から白紙で作られた人形(ひとかた)が祓(はらい)行事に形代として用いられていた。

第一礼装 準礼装 新春
ハウステンボス
奄美大島
新緑
初夏
盛夏
晩夏
ゆかた