秘境五家荘・五木の里・人吉
秘境五家荘
全国有数の秘境としてまた平家落人の伝説で知られるのが熊本県泉村五家荘だ。椎原村、久連子村、葉木村、樅木村、仁田尾村という5つの集落の総称である。五家荘の中心を川辺川が流れ、人吉市で球磨川となって八代海に注ぐ。山々と滝、吊り橋そして澄み切った空気これぞ秘境。
村の伝承(果たして何処まで信用するかは難しい、、)によると、
 壇の浦で源氏に敗れた平清盛の孫、清経は豊後竹田に逃れ、緒方実国の娘を妻に迎えて緒方姓を名乗った。後、現在の五家荘に隠れ住んだ。やがてその子孫たちはそれぞれ緒方姓を名乗り3家が庄屋を務め椎原、久連子、葉木に別れ住んだ、という。
 また平家の落人が住み着く約200年前、藤原一族の陰謀によって、筑前太宰府に流された菅原道真には二人の子供がいた。道真の死後、この兄弟の仕返しを恐れた藤原一族は、筑前に軍勢を差し向ける、しかし兄弟は肥後の山深い樅木、仁田尾に左座(そうざ)姓を名乗って隠れ住んだ。その子孫の2家が庄屋として村を治めた。
今日は、紬の着物に、野袴(きもの村)、絽駒と絽の袖無し羽織、柄物の半足足袋で出掛けました。1500mの山から滝壺に降りたり、渓谷の橋を渡ったり、人里離れた秘境を朝6時から1日中歩きましたので、野袴は下がってしまい、お見苦しいスタイルです。特に橋の上など服装を整える余裕の無さは恥ずかしい限りです。こんな秘境にも着物で行きました。
九州自動車道の松橋ICから国道218、445号で2本杉峠を越えると標高は1100mになる。道路はセンターラインの無い1車線。カーブの多い、離合の出来ない道が続く、そして梅の木轟の吊り橋に着く。

吊り橋から下を見ると、
55mの下には清流川辺川が流れている。
橋の上は気持ち良い風が吹いて、
秘境ムードが漂う

吊り橋の上からは山々とあちこちに滝が見られる。
ロープを使わない日本一の吊り橋、長さ116m,

   杉林を歩くこと15分にて梅の木轟(滝)へ。
吊り橋が無かった時は、峻険な谷に阻まれ、長い間幻の滝と言われていた。この滝と周辺の美し自然を多くの人に知ってもらおうと、平成元年10月に吊り橋が架けられ、幻の滝も簡単に見れるようになった。
滝壺まで遠かった。暑い、、見苦しいスタイルですね。
昇竜の滝 梅の木轟(滝)
椎原の緒方家
平清経は源氏の追討を逃れるために入水と見せかけて、四国伊予今治、阿波国祖谷さらには豊後竹田へ。その後、姓を緒方と改めて泉村椎原に住み着き、この地を支配した。築300年、2階の隠し部屋や切腹部屋もある。

樅の木  祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり ・・・(パンフレットには記載されてあるが)全く関係ない感じがする。

深い渓谷と高い山々を見ながらの曲がりくねった道、
行けども行けども,山,山,,,

やっと樅木の集落が見えた。

五家荘平家の里で見たものは、何と宮島のイミテーションだった. これが落人の桃源郷?→
標高1500m。数Kmで宮崎県
これを見に遠路来たのか?村起こしの産物?

樅木の親子吊り橋。長さ72m,高さ35mの橋の下に平行してもう一本の橋(長さ59m,高さ17m)が架かっている。
     これも恐そうで野袴が下がっています。お恥ずかしい、、、カメラの余裕の無さか、
仁田尾の庄屋左座(ぞうざ)家    菅原道真ゆかりの郷
↑→せんだん轟(滝)
   (日本の滝百選)





←客間で、築200年



五木の子守歌の里(泉村から国道445号で隣村が熊本県五木村
子守歌とは、母親の愛情が基本思想ですが、他に類を見ない、哀愁を帯びたメロディーは切ない思いが伝わる日本でも代表的な子守歌です。
川辺川ダム建設
   昭和38年から昭和40年に川辺川及び球磨川流域において大水害が発生し、
五木村や下流域は尊い生命や財産を失う多大な被害を受けました。これを契機として、翌41年に建設省が川辺川にダムを建設する計画を発表し、五木村は直ちに”ダム反対”を表明しました。
また、ダム建設計画の発表以来30数年の間には、五木村内の水没団体が、条件闘争又は絶対反対の立場を表明した経緯もありました。しかし、五木村は、長引くダム問題に起因する水没者の精神的な疲労、高齢化に伴う生活再建への不安と動揺、村の将来やダム建設の目的等から、平成8年10月に大局的な見地に立ち”ダム建設やむなし”と苦渋の決断をし、ダム本体着工の同意をいたしました。(五木村より)。

空は高く、谷は深く、美しい木々、この自然もダムが建設されると、消えて行く。
ここにダムが出来る。

ダム建設現場、この下は水没する。
五木村の案内標識

五木村の中心部(中央に子守唄公園がある)はダム建設により湖の底に沈む
現在は村役場、学校などを始め殆どの建物が右奥の高台に移転している。左側には新しい橋が建設中。

子守唄公園
には、平成2年から4年まで3回にわたり開催された「子守唄像彫刻コンクール」入賞作品の一部が置かれ、他にも藁葺民家、子守茶屋、子守像などがあります。
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどる
おどんが打っ 死 ( ち ) んだちゅうて だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く
おどんが打っ 死 ( ち ) んだら  住環 ( みち ) ばちゃ 埋 ( い ) けろ 通るひと 毎 ( ご ) ち 花あぐる

"ママあいたかった" "風の中にふるさとの声が聞える " "翔"
花はなんの花 ツンツン椿 水は天からもらい水   おどまいやいや 泣く子の守にゃ 泣くと言われて憎まれる
ねんねした子の 可愛さむぞさ おきて泣く子のつらにくさ   つらいもんばい 他人の飯は 煮えちゃおれども のどこさぐ

 わずかな耕作地しかなく、細々と生計をたてていた山の人々は、家族の食いぶちを減らすために娘が7、8歳になると人吉市の裕福な家に子守りや女中奉公に出していました。 娘たちは家を離れ、両肩にかかる背中の子の重さや、他人の飯を食べる辛さに耐えなければなりませんでした。このような中で生まれたこの子守歌は、我が身の不幸を訴え、子守りの辛さを唄っています。
人吉市 は鹿児島県と宮崎県に接する熊本県にあり、球磨川下りや、球磨焼酎、相良藩の城下町などで知られる。

      駅前のからくり時計
人吉城をイメージして作られたもの午前7時。
人吉城跡 相良藩700年の居城、現在は緑の木立に苔むした石垣が残るのみ。

相良藩の武家屋敷は火災と西南の役において殆ど焼失した。唯一焼け残った建物。

豊富な清水、米、米麹で作る球磨焼酎 平家ゆかりの民芸品”きじ馬”伝承蔵にて
平家の一族が、子供たちの玩具として作ったもの


                願成寺
人吉城主相良家の菩提寺。往時を忍ぶ相良家一族の墓

          栄国寺
1877年西南戦争の際、田原坂で敗れ撤退する西郷隆盛はここを本陣として33日間滞在した。しかし攻め寄せる官軍との、人吉市街戦で全焼した。幽霊寺とも呼ばれ、この幽霊の掛け軸が有名です。
            石水寺
相良藩第9代藩主が開いた曹洞宗の寺、石をくりぬいたおにぎり形の山門。
五木の子守歌 五木の子守唄 五木の子守唄石川さゆり   五木の子守唄 
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