神功皇后・八幡宮 神功皇后は第14代仲哀天皇の妃で、応神天皇の母親である。

 神社の中で最も多いのが八幡宮(さま)で、全国で4万とも言われている。神功皇后と第15代応神天皇は、宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮をはじめ全国各地の八幡神社に祀られている。八幡神は北九州に生まれ、土着のさまざまな信仰や外来の仏教を巻き込みながら、国家神へと発展し、日本中に浸透した強力な神様である。特に、源氏の氏神とされて源義家が”八幡太郎義家”と名乗ったり、1180年源頼朝が鶴岡八幡宮を源氏一門の守護神として篤く祀った。これにならって鎌倉御家人を初め全国各地の武士も崇拝するようになり、全国各地に八幡信仰が広がった。元寇の役の時には季節外れの暴風雨が襲ったのは、八幡神の神威(神風)だとされ、以後国家鎮護の神、武神としての名声を不動のものとした。しかし太平洋戦争の時は神風は吹かなかっった。
 248年卑弥呼が死亡すると、国中(倭国)は不服として、そのために殺し合いとなった。以後150年日本の歴史は空白となっている。この間に何が起こっていたのだろうか
 神功皇后の夫である仲哀天皇(正妻を初めたくさんの妃がいたようであり、神功皇后は4番目の妃であったともいう)は、熊襲征伐のために長門(山口県)に来て、193~200年豊浦の宮を造り、199年筑紫に上陸し九州平定中に香椎の宮において急死する。遺志を継いだ神功皇后は蘇我氏の祖である武内宿禰(住吉大神)?との間に応神天皇を懐妊して、熊襲を征伐し九州を平定するとさらに三韓征伐をした(高句麗の広開土王碑によれば391年倭が海を渡り新羅を破り、臣民となしてしまったとある)。帰路九州の宇美八幡宮で応神天皇を200年12月4日に出産したと言う(神社記載の年代は卑弥呼の時代以前であり真実性に欠ける。私は120年加算する説を取る)。応神天皇は4世紀の中頃に東征して、瀬戸内海沿岸、出雲王国、近畿の先王朝を平定し、天皇となったのではないだろうか。関門海峡を制したものが、出雲王国を制覇しながら、大和への道を進むことが出来たはずだ。この経路には八幡様も多い。また主な住吉神社は、壱岐、筑前、長門、難波と続くラインつまり神功皇后凱旋の経路にある。
 応神天皇は九州から東遷した新たな征服王ではなかろうか?大和朝廷の象徴とも言える前方後円墳は応神天皇陵が有名であり、その子の仁徳天皇陵は世界最大である。そして応神天皇の時代は、統一国家の強化と百済と新羅に朝貢をさせ、三韓の文化と技術を導入し、国家体制を確立した時期であった。日本建国の偉大な王であり天皇ではないだろうか。



下関市忌宮(いみのみや)神社:神功皇后の出発点は、長門二の宮と呼ばれていた 忌宮神社からであった。
 香椎宮縁起によれば、『193年仲哀天皇は南国を巡狩しようと、神功皇后(母の生家は出石族であると古事記に明記されている)をば敦賀(角鹿)に留めおいて紀伊国に来たとき、熊襲が又王命に背き朝貢せず。仲哀天皇は熊襲の国を討たんと豊浦(穴門)に6月10日着き、使いを出して、7月5日神功皇后を敦賀から豊浦に呼び寄せた。』とある。
 忌宮神社記載によれば、『西暦193年、第14代仲哀天皇と神功皇后が九州の豪族熊襲を鎮圧し西国平定の折り、ここに仮皇居として豊浦宮を建て西暦200年までの7年間滞在した。仲哀天皇7(198)年7月7日には、朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内にも侵入し、討ち死に者が相次いだので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。塵輪の顔が鬼のようであったところから、その首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。』とある。この地で激しい戦いがあったことを物語っている。また空白の7年間何をしていたのであろうか?関門海峡の制海権を手に入れるのと北部九州侵略の準備に要したのであろう。



福岡県香椎宮 は神亀元年(724年)の創立とされている。祭神は仲哀天皇と神功皇后であり、元来は神社ではなく、神社と陵墓の中間の廟(びょう)、香椎廟と言っていた。古来から皇室の崇敬が厚い。
 香椎宮縁起によれば、199年仲哀天皇は、熊襲征伐の為に、6年間住んでいた下関の豊浦宮(忌宮神社)から香椎の宮に神功皇后と共に移った。ここ筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后からお告げを受けた。 それは『西海の宝の国(新羅)を授ける』という神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず住吉大神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年200年2月に急死してしまった(一説には熊襲の矢が当たったとも)。
楼門
現在の建物は、1801年に筑前藩主である黒田斉清が再建したもので、ここだけの様式である香椎造は国の重要文化財に指定されている。
香椎造りといわれている社殿 香椎の宮拝殿正面

境内にある武内神社 男装の神功皇后と大臣武内宿禰(おおおみたけうちのすくね)  この御神木は、西暦200年に神功皇后が『とこしへに本朝を鎮め護るべしと祈りを込めてお植えになった杉』と記載されてある。

仲哀天皇樫日宮跡(かしひのみやあと)
 仲哀天皇は熊襲平定に訪れ、この地に仮宮(皇居)を置いた。熊襲平定を急ぎたい仲哀天皇と新羅征伐を急務と考えた神功皇后との方針調整中に仲哀天皇は崩御された。皇后は天皇の喪を秘し、天皇の棺をこの椎の木に立て掛けて、天皇親臨の御前会議を開いた。この時棺より薫香漂いたるにより香椎の名が起こったといわれている。その後再び神託が下され、『神功皇后の胎中の子に宝の国を授ける』とのことであった。皇后は神託に従い、身重のまま男装に紛し、新羅を攻めたが、新羅王は戦わずして降服、朝貢を誓い、高麗、百済も朝貢を約したという。(三韓征伐)。後の聖武天皇時代の神亀元年(724)に社殿を造営、二人を祀ったこの地は香椎廟と呼ばれ、明治時代より官幣大社香椎宮、戦後香椎宮と呼ばれて現在に至る。



宮地獄神社
 ご創建は、約1600年前。神功皇后(じんぐうこうごう)が古事記、日本書紀等によれば渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとある。その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りした。当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮である。(宮地獄神社HPより)


日本一の大しめ縄。重さ5トン、長さ13.5m,直径2.5m

宮地獄神社本殿と  、神社より見下せば、すぐ下が玄界灘であり、ここから皇后は神託に従い、身重のまま男装に紛し、朝鮮に攻め込んだ。



唐津市の玉島神社:神宮皇后が祭神である。
垂綸石(すいりんせき)
 神功皇后が三韓征伐時に玉島の地に寄り、河畔の石上に登り、針を曲げて釣針を造り飯粒を餌として「この度の戦さ我に運あらば釣針を呑め」と勝敗を占ったところみごとな鮎がつれたという伝説があります。そこで鮎という字は、この地で生まれたと言われています。
 また、釣台となった石は、玉島神社前のこの石であると言う。


壱 岐
壱岐の勝本の港。ここから対馬へ、そして釜山へ渡った。 爾自じじ神社の東風石(こちいし)。神功皇后が三韓征伐の折、勝本浦に寄港したが、追い風が吹かないために、この石に順風祈願をすると、石は二つに割れて爽やかな東風が吹き出し、出船ができたと言う。

壱岐の聖母宮:神功皇后、仲哀天皇、応神天皇を祀っている。
創建は717年とされる。

壱岐住吉神社

神功皇后が応神天皇を出産し、産湯を使ったとされる湯ノ本温泉平山旅館

双六古墳。6世紀中頃の築造。全長が91、長崎県最大の前方後円墳
神功皇后の跡には、大和朝廷の支配下になったという前方後円墳がある。


新 羅
 古事記には、『お船を乗せた波は、新羅国に押し寄せて、ついに国の真中まで来てしまった。それで新羅王は、恐れつつしんで、これから後は、天皇の御意思のままに、馬飼として、毎年多くの貢ぎ物を積んだ船を並べて、船を送らない年はなく、天地の続く限り、怠ることなく、天皇にお仕えいたしましょうと申し上げた。そういうわけで、新羅国を馬飼と定め、百済国を海の向こうの天皇の領地と定めた。そして持っていた杖を、新羅の国王の宮殿の門に突き刺して、そこに住吉大神の荒御魂を祭って、日本の国を守る神様として、そこに鎮め祭って、海を渡って帰って来た。』と記されている。

 4世紀末から5世紀に倭がしばしば新羅に侵攻した事実を複数の史料から確認できる。新羅本紀には「倭人、来たりて金城を囲む」、第17代奈勿王(なもちおう356-402)三十八年(393年)条。「倭兵、来たりて明活城を攻む」、第18代実聖王(402-417)四年(405年)条、とあり、倭が王都を襲来したことを伝えている。
 また高句麗の広開土王碑には、『そもそも百済、新羅は高句麗の属民であり、朝貢していたが、391年倭が海を渡り百済、新羅を破り、臣民と為す』と記されている。また『399年百済誓ひに違き、倭と和通せり。王平城にに巡下して曰く”倭人その(新羅)国境に満ち、城池(新羅城)を潰破し、新羅は高句麗に援軍を求めた”』とある。これも神功皇后の功績だろうか?
 こうした情勢のなかで、新羅は倭に対して人質外交を展開する。 新羅本紀の実聖王元年(402)条に「三月、倭国、好を通ず。奈勿王の末斯欣を以て質となす」とあり、実聖王が前王(奈勿王)の子の末斯欣を倭に送ったことを伝えている。
 これは、4世紀末から5世紀初めにかけて、新羅は、倭国と高句麗の両国へ「質」を出し、百済は、倭国に「質」を出していた事になる。特に新羅は、ほぼ同じ時期に倭国と高句麗の双方に質を出していて、その苦しい立場が察せられる。倭国と外交折衝を行い、新羅への侵攻中止の約束を取り付け、その見返りとして王子を入質させたのであろう。一方倭国と高句麗は、「入質」はあったが、他国に質を出すという事はなかった。


対馬に毛麻利叱智殉国碑があった。
 新羅では、『三国史記』新羅本紀に、402年に新羅王の即位とともに「倭国と好を通じる」目的で「質」となった末斯欣(みしきん)が、新羅王の交替直後の418年に「秋、王弟の末斯欣、倭国より逃れ還る(かえる)」とあり、結局、末斯欣は倭との合意なしに新羅に帰還している。朴堤上(ぼくていじょう)伝によると、末斯欣奪還のために倭に渡った堤上は、計略を用いて末斯欣を新羅に逃しながら、自らは倭軍に捕まって火あぶりにされ、命を落としてしまう。
 『書紀』神功皇后摂政紀五年三月条によれば、新羅使として来倭した毛麻利叱智らが、この時新羅の「質」として倭国にあった微叱許智を取り返そうと計略をめぐらして、微叱許智の一時帰国許可を神功皇太后からなんとか引き出した。さらに皇太后の命により微叱許智送還の使者として新羅へ向かっていた葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を欺き、対馬付近で微叱許智を逃すことにも成功した。そのことを知って怒った襲津彦は、毛麻利叱智らを捕らえて焼き殺し、そのまま新羅に行って蹈鞴津(たたらのつ)に宿営し、草羅城(さわらのさし)を攻め落とし、俘人(とりこ)を連れ帰ったという。(古代を考える 日本と朝鮮より)この資料に基づいて建てられたのが下の殉国碑である。

 東アジアが激動の時代であった5世紀初頭、倭国と新羅国は通交関係にあり、新羅は親善の為に奈勿(なむる)王の子末斯欣を倭国へ送ったが、その後この王子の帰還を要請して、王使毛麻利叱智を倭国に派遣した。418年王子末斯欣と新羅国使一行が帰国の途中、対馬の上県町の佐護湊においてトラブルが起こり、毛麻利叱智は、王子を無事帰国させたが、自身は捕らえられ、使命に殉じて果てたとされている。この毛麻利叱智の忠節を称えた殉国碑。
     (上県町の佐護湊にて)


 神功皇后は、三韓征伐をし、百済と新羅から王子を人質として連れ帰ったのではないだろうか?百済の王子扶余豊の人質は有名である。



福岡県二丈町鎮懐石(ちんかいせき)八幡宮
 鎮懐石とは、神功皇后が百済を救援するために新羅攻略に出兵する際に、応神天皇を懐胎しながらこの地を通って新羅へ向かって兵を出された。卵形の美しい石2個を肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られた石。願いは叶って帰国後宇美にて応神帝をご安産されたのである。そこで皇后はこの石をこの丘の上に拝納されてより、世人はその奇石を崇拝するようになった。古事記には、『その御裳に巻かれた石は、今でも筑紫国の伊斗(いと)と言うところにある。』と記載されている。



福岡県宇美八幡宮 宇美八幡宮の本殿には、祭神として応神天皇、神功皇后、住吉大神が祀られています。社記によれば、『熊襲を征伐中に急死した仲哀天皇の後を継いで第15代天皇として即位した神功皇后は、新羅への進出を実行し自ら遠征した。そのとき神功皇后のお腹には応神天皇が宿っていた。戦いは長期に及び、10ヶ月が経過した出産の時期にも神功皇后は朝鮮にいた。神功皇后は呪術?(鎮懐石)を用い出産を遅らせる処置をして、筑紫の国に戻ってから出産、なんと妊娠から15ヶ月後の仲哀天皇9(200)年12月4日ことだったという。その地を宇美と名付けた』と記載されている。応神天皇の父親は、仲哀天皇の死後15カ月もして生まれた事から考えると、蘇我氏の祖である武内宿禰(住吉大神)ではないかと推測される。

 宇美八幡宮の創建は、574年、宇美八幡宮と呼ばれるようになるのは後のことのようです。
 戦国時代の兵火により、焼失し、江戸時代に福岡藩主により再建された。
 神功皇后が応神天皇を出産される際に立ち会った官女が、今でいう助産婦の役割を行ったと伝えられており、湯方殿として「湯方神社」が祀られている。安産の神様として祀られ、子安の石は湯方神社の社周辺に沢山並べられている。

宇美八幡宮は、「古事記」に『その御子生みたまえる地を、宇美とぞ謂ける』とあるように神功皇后が新羅からの帰国中、この地で応神天皇を無事出産されたという伝説に由来している。この二人を祭る安産信仰の神社です。
   子安の石という習慣がある。
 これは神功皇后が応神天皇を安産でお産みになったということに起因する。ここから石を預かって帰るとご利益があり、めでたく出産となればその石とともに別の石に生まれたお子様の住所、氏名、生年月日を書いて納めるという慣わしである。  沢山の名前を書かれた石が納めてあるが、その量から信仰の篤さを感じるところだ。
天然記念物「湯蓋の森」
 樹齢2000年とも言われる樟。応神天皇の産湯に使った湯槽の上を覆った樟樹を湯蓋の森と名付けた。
神功皇后を祀る社



筥崎宮
 筑前の一宮と呼ばれ、筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられている。御祭神は、福岡県宇美町で生まれた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后をお祀りしている。創建は、平安時代の中頃である西暦92年醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっている。
 鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大社の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩歴代藩主の崇敬を受け、明治18年には官幣中社に、大正3年には官幣大社に社格を進められた。

 文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められたが、楼門高く掲げられている額の文字は1594年、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したものです。 「敵国降伏」の額を掲げていることから伏敵門とも呼ばれている。

現在の拝殿、本殿は1546年山口の大内義隆が再建したもの 楼門から1の鳥居を

文永11年(1274年)10月20日、蒙古軍3万は900隻の艦船に乗って博多に迫りわが軍と激戦を交えたが翌21日朝には湾内から姿を消してしまった。(神風神話)
古来、博多付近から蒙古軍の碇石といわれるものが十数本でているがこれはその一本。
神木筥松は、応神天皇がお生まれになったときの御胞衣(えな)を箱に入れ、この地に納めたしるしとして植えられた松であると言われている。この箱が納められたことで箱崎と呼ぶようになった。

1の鳥居、2、3の鳥居の向こうは海へと続いている。ここから関門海峡を通って大和へ征服に行った。



宇佐神宮全国に4万余社といわれる八幡宮の総本宮である。
  上宮の南中楼門
1400年ほど前の奈良時代に創建された。 宇佐八幡宮の威力は、東大寺大仏鋳造の時、協力して成功させたことが、仏教と結び付き、朝廷の崇敬を受けるようになり、八幡神は地方神から中央に知られるようになった。その後神仏習合の神として在来の神々の中でも菩薩の称号が与えられた。平安京が作られると、岩清水八幡宮が作られ、皇室の祖神、都の守護神となり、伊勢神宮と並ぶ重要な神社として発展していった。



 山口県では、下関市には亀山八幡宮、山口市に今八幡宮、宇部市に琴崎八幡宮、新南陽市に山崎八幡宮、徳山市に遠石八幡宮、下松市に花岡八幡宮、光市に浅江神社と八幡宮が全国一多い。関門海峡を制することが、瀬戸内海へ入り、大和へ行くことが出来たのだろうか?
 花岡八幡宮は709年に建てられ、現在は末武上・中・下、笠戸、米川(下谷、菅沢、山中など)の総氏神。

 住吉の案内により神功皇后と応神天皇を乗せた軍船が畿内へ攻めのぼるのを、香坂カゴサカと忍熊オシクマ(仲哀天皇と正室であるオオナカツヒメとの間の2皇子)が迎え撃った。しかし応神天皇は、先王朝の二皇子を殺して、天皇となったのである。神功皇后は、この相異なる王朝を1系に結び付けようとするために作られたのではないだろうか?応神、仁徳王朝は、仲哀王朝までとは血縁的に無関係かも知れない。仲哀天皇は熊襲に殺されて、神功皇后は誰の子供を孕んだのであろうか??武内宿禰(住吉大神)は蘇我氏の先祖とも言われるが、もしかして    ?
 応神天皇の時代は統一国家の強化と三韓文化と技術の流入など国家体制の確立した時期であった。百済王の子直支が人質として倭国に来て、文学や経典を教えたり、また古事記には、『この天皇(応神)の御世に、百済から阿知吉師がやって来た。その後和邇吉師(日本書紀では王仁、わに)が論語10巻と千字文1巻を携えてやって来た。そしてやはりその御世、朝鮮の鍛冶や、呉の機織、秦造の先祖、さらには酒の醸造を知ったすすごりなどが、日本にやって来て、帰化した。』と記載されてある。この記事を持って、文字の伝来と言われているが、紀元前600年頃に中国の呉の国から稲作と金属器を持って日本に来た民族は、文字文化と相当に高度の教養を持って来たと思う。ニニギの命の時代には既に文字があり、呉音で話が出来、呉の服を着ていたと思う。



 広隆寺のパンフレッによれば、広隆寺は603年に建立さた渡来人秦氏の菩提寺である。弥勒菩薩半跏思惟像は、国宝第1号で百済伝来である。赤松で彫られているが、この赤松は朝鮮産で、日本には生息していないと記されている。
 日本書紀によると、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り、それをご本尊として建立したとあり、そのご本尊が現存する弥勒菩薩である。
 
 百済伝来の仏像であるが、朝鮮に現存する半跏思惟像より美しく清楚である。


 また秦氏族は、大勢で日本に渡来したのは、応神天皇16年で、養蚕機織の業を主にして、大陸や半島の先進文化を我が国に輸入することにも努め、農耕、醸造など地方産業発展に貢献したと記されている。


大和建国の特徴は、前方後円墳という日本固有の埋葬文化が誕生したことだ。3世紀に始まり7世紀に至まで継続していた。大和朝廷と大和の王家の象徴でもあったはずだ。朝鮮からの征服者なら故郷の朝鮮でつくっていたであろう墳墓様式を王家の墓として日本に導入していたに違いない。
  かって朝鮮半島は文化、文明の通り道であったと思う。日本は海外から来る良い物を積極的に受け入れ、日本固有の物に作り替え、さらに純度の高い物を作り上げて行く体質が培われていた。かたや中華思想に染まった朝鮮半島にすれば、日本からの逆流して来る文化を軽蔑し拒否し続けていたのではないだろうか。

BC108年前漢が古朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など郡県制度を設置する。
BC 57年朱蒙(チュモン)が高句麗を建国する。18年にはその子温祚は百済を建国する。
AD7年 倭の奴国が後漢に朝貢し、印綬を授けられる。(漢倭奴国王)
247年 邪馬台国卑弥呼没する。
350年頃 大和朝廷が中央政権として国家を統一した。
         頃出雲王国は日本武尊(仲哀天皇の父)により滅ぼされる。
346-376年百済王第13代近肖古王が応仁天皇に朝貢する。
391-404年 倭は、新羅、百済を従え高句麗と4回戦う。 百済と新羅は倭国へ王子の人質と朝貢をする。
400年高句麗は南部に出兵して倭を打つ(広開土王391-412年碑より)
405年百済の阿直岐,博士王仁など応神天皇の招きで日本に渡来し、論語、漢字を伝える。皇子の教育をする。
418年 新羅国使殉難の碑(新羅は王子奪回を謀る)
527年 新羅では仏教を国教とする。
538年 仏教が、百済より倭国へ伝わる。百済の都を泗沘しびに移す。
562年任那が滅亡し、3韓時代になる。 
589年 隋が南北朝を統一し、高句麗に出兵
600年 境部臣を大将軍とした新羅遠征軍が新羅を撃破する
608年 遣隋使として小野妹子を派遣~614年まで4回全て対馬に停泊 する。
618年唐の建国する。
630年 遣唐使(669年5回まで対馬を経由)対馬に停泊
646 大化改新の詔
660年 唐は13万の軍を派遣し、新羅との連合軍は百済を滅す。
660年12月斉明天皇は筑紫に行幸し、朝倉宮で百済援軍の指揮をとるが、661年7月死亡し、中大兄皇子が指揮にあたる。
662年 百済王子豊璋を大和より百済に帰し、援軍をもて再興を計画する。
663年 百済救済に向かった倭軍は白村江で新羅、唐連合軍に敗退する。9月3日百済援軍の最後の拠点の州柔城も落城し、百済の人々が倭国へ渡来する。王豊璋は数人の部下と共に船で高麗へ逃げ去った。
664年 唐、新羅が逆に日本を攻撃する危険が感じ、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽(とぶひ)を配置した。対馬には烽台を8カ所設置する。
664年百済打倒までは唐と新羅は親密な協力体制にあったが、唐は新羅の野心を押さえ込むために、旧百済領に旧百済王子の隆を熊津都督に任命し、唐の傀儡政権を樹立した。
667年 対馬に金田城を築き、防衛、侵攻の最前線基地とした。
668年 新羅は高句麗を滅ぼし、新羅使、遣新羅使が始まり779年まで続く
670年唐は韓半島を直接支配しようとして、新羅と全面戦争に発展する。
671年新羅は対唐戦争に対処するため,対日外交を積極的に推進し,支配下に入った高句麗,百済,耽羅(たんら、済州島)の使者をも日本に送る。
676年 唐は韓半島から撤退し、統一新羅が誕生する。 その後、新羅は唐と倭国の両国と朝貢関係を強いられることとなる。
673年 ~780年、遣新羅使、新羅使が相互に行き交った。
701年 対馬で産出したと称する金を朝廷に献上する。 日本最初の金の産出を祝って年号を『大宝』とする。倭国を日本改める
710年 平城京遷都
735年新羅は唐との国交が修復すると,日本に対し対等外交を要求したため,両国の外交がしだいに疎遠となり,779年以後国交は途絶する。8世紀に入ると日本との貿易がしだいに盛んとなり,8世紀の中には日本の貴族が新羅の奢侈品を購入するため,一度に綿数万屯を支払うほどであった。
736年 阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使は6月難波を出て、倉橋島、上関を通り、秋には壱岐、対馬を通り新羅に着いた、大和に帰ったのは翌年の1月であった。この時に詠んだ歌が万葉集第15巻に掲載されている。
741年 国分寺建立の詔
752年 新羅王の来朝を求め、新羅を朝貢国扱いとする。
753年 唐での朝貢の時、大伴古麻呂は新羅と席次を争い、意を通す。
935年 新羅は高麗に滅ぼされる。
1392年 李成桂が朝鮮王朝を建国する。
 日本には土着の神である自然の神々がいたが、朝鮮の新羅の国からスサノオの尊の一族が来て、出雲を拠点に日本海沿岸に出雲王国をつくり、大国主の尊の時代には出雲大社が出来、出雲神社が出来た。一方紀元2世紀から3世紀のの頃、天照大神の孫ニニギの尊が(天孫降臨によって)呉の国から日本の鹿児島へ来た。征服と和合によって3代で鹿児島と宮崎を征圧して、その曾孫が大和へ攻めのぼり神武天皇となる。4世紀の中頃から末に応神天皇が大和へ攻めのぼり第15代天皇になる。応仁天皇と神功皇后を八幡宮として祀られている。この系列は日本書紀神話の目的は、住吉抹殺であり、これは7世紀の蘇我氏であり、3世紀の武内宿禰であった。8世紀に政権を牛耳っていたのは藤原氏で、彼らは蘇我氏を滅ぼすことで権力を手に入れた。そこで藤原氏は蘇我氏を倒した正統性を証明する必要に迫られた。そこで中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏を悪役に仕立て上げることで、蘇我氏の業績をすべて横取りすることに成功した。そして藤原不比等は藤原氏こそが、日本を救った偉大な一族だという幻想を日本書紀の中で構築することに成功したのではなかろうか?
古代史(日本人のルーツを訪ねて
天孫降臨呉服の国 蘇州神話の国 出雲吉野ケ里渡来弥生人説 土井ケ浜魏志の倭人伝対馬壱岐末盧国伊都国八幡宮一の宮