一 宮 へ 初 詣

 明けましておめでとうございます。皆様はどこへ初詣でに行かれましたか?警視庁の発表によりますと、今年の初詣数は、@明治神宮290万人、A千葉成田山新勝寺260万人、B京都伏見稲荷260万人、C川崎大師255万人、D愛知熱田神宮233万人、E大阪住吉大社225万人、F福岡太宰府天満宮202万人、G神奈川鶴岡八幡宮190万人、H埼玉大宮氷川神社187万人、I浅草寺185万人だそうでした。私の住む山口県では何と言っても八幡様が圧倒的に多いです。次が天満宮、天照大神、住吉神社、稲荷神社、出雲神社、お寺などでした。神社の中で最も多いのが八幡宮(さま)で、宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮をはじめ全国で4万社とも言われている。八幡宮は神功皇后と第15代応神天皇が祀られている。関東では、出雲系の神社(諏訪大社、氷川神社など)とお寺(川崎大師など)への初詣が多いようですね。
 魏志の倭人伝には『248年卑弥呼が死亡すると、国中(倭国)は不服として、そのために殺し合いとなった。』と記載されているが、それ以後150年日本の歴史は空白となっている。日本史の空白の4世紀に何が起こっていたのだろうか?神社の記録をたどる以外に方法がないのではなかろうか?関門海峡を制したものが大和への道を進むことが出来たはずだ。となると長門と周防の国の一宮がどうだろうかと、気になる。

一宮とは、国中で第一の神社を言い、原則として1国1社である。
 一宮の起源は,奈良時代に始まり、国司が任国に赴任したときなどに巡拝する神社の順番とされ、平安中期から鎌倉初期までに逐次整った制度である。それは由緒の深い神社、または信仰の篤い神社におのずから階級的序列が生じ、その首位にあるものが一宮と呼ばれ、二番目に参る神社を二宮、三番目を三宮と呼ばれるようになった。当時北海道と沖縄を除く日本の国土を66の国と壱岐、対馬を合わせて68州に区分されていた。中央の朝廷は、それぞれに国司を派遣して管理していた。 国司の政務に一宮は欠かせない存在であった。豊作が税の安定徴収に繋がるために、一宮では国司が参列して、五穀豊饒を願って雨乞いをし、収穫を感謝する祭りを行った。国の兵の能力を高める為の祭事、流鏑馬も一宮では頻繁に行われたし、国司は都の文化や芸能を国に伝える役割も果たしていた。例えば端午の節句や七夕の祝、能楽などの芸術を中央から地方にもたらした。今昔物語(998年)巻17に、周防国の一宮玉祖大明神のことが見えるのが文献上の初見だそうだ。
 律令制度崩壊の後も、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けた。そして時代によって一宮が変遷したり、同時期に二つ以上の神社が一宮を争っていたりした。例えば、筑前で住吉神社が衰えて筥崎宮がこれに代わった。



周防一宮:玉祖(たまのおや)神社
 御祭神は、三種の神器の一つである八坂にの曲玉を造られた玉祖命である。もう一座は天照大神ではないかと言われている。
 社記には景行天皇(82年)筑紫行幸のみぎり、行在所を設けられたのがこの神社の森であったと伝えられている。また仲哀天皇、神功皇后西征の折りも、神社の西南の浜に着船して戦の吉凶を占ったと記されている。

 国幣社とは、1871年明治の太政官布告による社格の一つで、国家自らが経営する神社を官社、それ以外を諸社と定められた。官社には官幣大社、中社、小社、国幣大社、中社、小社の6つがあり、ここは国幣中社であった。この制度は戦後廃止された。


本殿

写真が撮れなかった 黒柏 天然記念物である。
羽毛は金属光沢をもつ緑紫黒色をした貴重な鶏である。
社伝では、天照大神が天の岩戸隠の時、常世長鳴鳥を集めて鳴かせたのが、この黒柏で、その後玉祖命がこの鶏をつれて来て、ここに留まっているという。



周防二の宮:出雲神社
 太古出雲族の佐波川流域への膨張発展に伴いその祖神を鎮祭したものと考えられている。鎮座は715年と伝えられ、737年周防国二の宮として勅許を受けている。

須佐之男命を祀ってある

上は、境内末社の八幡宮

左は、御神木の大杉



周防三の宮:仁壁神社は、住吉三神を祀ってある。

1497年大内義興は九州の戦陣から帰り、五社に拝した。この参拝の順に一の宮、二の宮、、、五の宮と呼ぶようになった。

日清戦争の記念碑もある。



周防四の宮:赤田神社は、139年に当時の吉敷の人々が島根県の出雲大社から大社の御祭神である大国主命(大黒様)のご分霊をお迎えして、ここに祀ったものである。

拝殿


拝殿天井には竜の絵が描かれている。 恵比須神社:摂津の国の西宮恵比須神社の御分霊を勧請してお祀りした。



長門一の宮:住吉神社、 
 住吉の大神は,神代の昔、伊邪那岐命が黄泉国(死の世界)から帰って穢を清められた時出現された神であります。
 仲哀天皇の九年(二〇〇年)神功皇后が三韓征討のときに再び御出なさいまして、「吾が和魂は玉身の寿命を守り、荒魂は軍船を導かん」との御教示により大神を守神として進軍され、その神助により交戦することなく戦勝した。その神恩に感謝し、神功皇后は、この地に祠を建てて、住吉大神の荒魂をお祀りされたのが住吉神社の起こりであります。長門の国一の宮と仰がれ,明治四年社格が制定されては官幣中社に列せられた。(神社HPより)
 本殿(国宝)は応安三年(一三七〇)大内弘世の再建で、室町初期の代表的な建築です。九間社流れ造りといって、五社殿を合の間で連絡し、社殿上の正面屋根(檜皮葺)に千鳥破風をのせ、春日造りと流れ造りを組み合わせた特徴のある建物です。(神社HPより)

拝殿(重文)は天文八年(一五三九)に毛利元就が寄進したもの。 末社、高元社:須佐之男命を祀ってある。



長門二の宮:忌宮(いみのみや)神社 193年、長門国二の宮で、仲哀天皇と神宮皇后が九州の豪族熊襲を鎮圧し西国平定の折り、ここに仮皇居として豊浦宮を建て200年までの7年間滞在したと言われている。
 195年には、渡来人が蚕種を献上したという蚕種渡来地の碑が境内の一角にある(シルクロード日本上陸の地)
数方庭と鬼石
 第14代仲哀天皇は九州の熊襲の反乱を平定のために、ここ豊浦に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内にも侵入し、討ち死に者が相次いだので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。賊軍は敗退し、皇軍は歓喜の余り矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍の回りを 踊りまわったのが数方庭(8月7日より13日まで毎夜行われる祭り)の起源と伝えられている。塵輪の顔が鬼のようであったところから、その首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。
            宿禰の銀杏:
 当社の御祭神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた武内宿禰が植えたと伝えられている古木でその子孫が繁栄している。



氏神様である遠石八幡宮

 花岡八幡宮は709年に建てられ、下松市の総氏神。
赤間神宮 防府天満宮

 山口県の長門の国では、一宮は住吉神社であり、二の宮は八幡さまと同じ神を祀ってある。周防の国では、出雲系が2社、天照大神、住吉が1社であった。八幡宮は周南市の遠石八幡宮、下松市の花岡八幡宮、旧新南陽市の山崎八幡宮、光市の浅江神社、宇部市の琴崎八幡宮と、山口県の各市には八幡宮が必ずある。私の地方では60%以上の人が八幡様に初詣に行く習慣になっている。私の地方は少し特殊かもしれない。
 これは八幡さま(神功皇后と応神天皇)が長門(関門海峡)を征服して、瀬戸内海を西へ向かって進んだが、神戸や大阪では出雲王国の攻撃に会い和歌山県より大和へ攻め登ったことが推測出来る。八幡さまは特に我が山口県を徹底的に攻撃して支配下におき、その証拠として八幡宮各地に作ったと推測する。出雲王国は、日本海沿岸に勢力を拡大し、四隅突出型墳丘墓が広がった。出雲系の一宮は、安芸国の宮島、備後国、美作国、播磨国、丹波国から武蔵野国の氷川神社、信濃国の諏訪神社などがある。八幡様は、瀬戸内海と畿内を征服したが、関東までは征服出来なかったのであろう。

山陽道
一の宮 二の宮 三の宮 四の宮
播磨国 伊和神社  大国主命 荒田神社 須佐之男命 住吉神社 武内宿禰
美作国 中山神社 出雲系 高野神社 出雲系
備前国 吉備津彦神社 吉備津彦 安仁神社 天照大神
備中国 吉備津神社 吉備津彦
備後国 素さ鳴神社 須佐之男命
安芸国 厳島神社 須佐之男命 速谷神社
周防国 玉祖神社 天照大神 出雲神社 須佐之男命 仁壁神社 武内宿禰 赤田神社 大国主命
長門国 住吉神社 武内宿禰 忌宮神社 神功皇后

古代史(日本人のルーツを訪ねて
呉服の国 蘇州神話の国 出雲吉野ケ里渡来弥生人説 土井ケ浜魏志の倭人伝対馬壱岐末盧国伊都国奴国天孫降臨薩摩天孫降臨高千穂日向1日向2神武東征隼人熊襲八幡宮百済飛鳥朝倉宮一の宮