朝 倉 宮
四世紀末、朝鮮半島は百済、高句麗、新羅の三国に分割され、七世紀に至ると、660年7月百済はついに新羅、唐連合軍に滅ぼされ、同年10月日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子、中臣鎌足らはこれを受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。
斉明天皇は百済救援の為に、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)ら文武百官を従えて共に難波の港から海路筑紫に向かい、翌661年1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日に博多に至り、5月9日にここ朝倉橘広庭宮(博多から30Km離れている)に遷られた。しかし天皇は滞在75日、7月24日御年68歳で病のために崩御された。
なぜ宮を博多にしなかったのであろうか?博多湾から攻められたら、筑後川を船で有明海へ逃げ、有明海から攻められたら博多湾へ逃げられる朝倉の地を選んだのだろう。日田では攻められると袋の鼠である。この朝倉は、飛鳥と同じように防備に適した辺境の地である。飛鳥時代の天皇は、中国からの攻撃に常に怯えていたのではないだろうか?やはり彼らは中国からの亡命者だろうか?
天皇家の先祖はここ朝倉であり、ここから大和へ東征したという記憶を持っていたのではないだろうか?だから朝倉に宮を作ったのであろう。
中大兄皇子の右腕である中臣(藤原)鎌足がこの時期に姿を消している。中臣鎌足が姿を消す前に百済王子豊璋が来日している。もしかして中臣鎌足は百済王子豊璋ではなかろうか?だから中臣鎌足は蘇我氏を滅ぼし、百済救済に政策転換をさせたのだろう。
桂の池跡:斉明天皇が船遊びの御宴を催されたとされる池。
朝倉橘広庭宮の一角をなし、天皇が政務を執った大本営があった。
別所神社:中大兄皇子が母斉明天皇の病気平癒を祈願された神社
長安寺廃寺:中大兄皇子が母斉明天皇の冥福を祈って建てられたと言う説がある。
恵蘇八幡宮:斉明天皇は百済救援のため朝倉町の橘広庭宮に皇居と大本営を遷された。中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と武運を祈願のため宇佐神宮の祭神応仁天皇の御霊をここに祀った。
濾刻(水時計):671年6月10日天智天皇は濾刻を作って人々に時を知らせたと伝えられている。中国で用いられていた濾刻の形式を模したものと考えられる。4個の桶を段違いに設置し、第一の桶に水を入れ、管を通って第4の桶に流れ込んだ量を測って時間を知る仕組みである。これを再現してある。
斉明天皇の御陵と言われる前方後円墳(町では円墳2基とみて指定している)がある。斉明天皇は661年5月9日橘広庭宮に着き、7月24日病のために68歳で崩御された。中大兄皇子は母の遺骸を7日後の8月1日ここに埋葬し、喪に服した後奈良へ移した。その後兵を整え663年5万とも10万とも言われる大軍を派遣して白村江で唐新羅連合軍と戦った。
水城跡
663年白村江の戦いで大敗した我国は、国防の強化を図るためにその翌年水城を築いた。水城は全長約1.2km,基礎幅70m,高さ14mの人工の土塁で、福岡から筑後に広がる平野の最も狭い部分を塞いでおり、敵の太宰府侵入を防ぐための施設である。日本書紀には『筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ、名づけて水城という』とある。百済からの帰化人が指揮して作った。
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