奴 国

 後漢書には、『57年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。光武賜うに印綬を以てす。』と、また『107年倭国王帥升、生口160人を献じ、請見を願う。』とある。 あの『漢委奴国王』の金印で有名な奴国である。2世紀末に後漢王朝が揺るぎ始めると、北九州連合は後ろ盾を失い、出雲王国の侵略も受け、倭国大乱を経て、3世紀初頭には奴国や伊都国も邪馬台国に従った。
 魏志の倭人伝では、『伊都国に着く。東南の方に百里行くと奴国に至る。官を馬觚(しまこ)という。副官を卑奴母離という。二万戸あまりある。』と記載されている。 邪馬台国の出現をもって弥生時代は終焉に向い、その後大和政権が誕生し、倭国は古墳時代となる。

須珠(すぐ)岡本遺跡奴国の都だと推定されている。



           奴国の丘歴史公園
 この一帯から墳墓、遺跡が発見されており、中でも青銅器やガラス製品、鉄器を製作した工房跡が各所にみられる。
王墓の上石:この大石の下から中国鏡30面、銅剣、銅矛、ガラス壁、ガラス勾玉など多数の副葬品と共に甕棺墓が発見され、この大石が王墓の上石ということが解った。

今から2千年前の甕棺、土壙、木棺墓と竪穴遺構を発掘当時の状態で公開している。王一族の墓地と推定され、これまでに100基以上の甕棺墓が発見されている

奴国の丘歴史資料館
 この甕棺は、単独で墳丘墓に納めれれた可能性が高い。この墓はその質、量ともに突出した内容から王墓とみられており、年代的には57年に後漢の光武帝から金印を賜った王より数世代前の奴国王の墓と考えられている。
 

     青銅器鋳型
 青銅器鋳型の出土は、北部九州と関西地方に集中する。その中でも須珠岡本遺跡周辺からの出土数は突出しており、外型に限っても全国の3割以上を占めている。鋳型(外型)は北九州の場合は殆ど石型に限られているが、関西では石型から土型へ変わっていった。
 武器形祭器、銅矛:朝鮮半島から伝えられた青銅武器は、やがて我国でも生産が開始され、しだいにその大きさを増していく。青銅武器は元来副葬品として墓の中に納められていたが、中期も終わりころになるとしだいに副葬されなくなり、かわって地中に埋づめられるようになる。埋葬された青銅器はもはや武器としての機能は失われており祭器であったと考えられている。



王墓出土鏡
 須玖岡本遺跡の王墓には、30面前後の中国製鏡が埋葬されていた。とりわけ注目されるのは、3面の草葉文鏡で、いずれも面径が20cmを超える大型鏡である。このような大型の草葉文鏡は中国でも出土例が少なく、奴国王の強大な権力を物語るものといえる。


志賀島 (相島の隣の島)この地が後漢の光武帝が奴国の使者に授けたと言われる金印(国宝)が発見された場所
海の中道を通って、志賀島へ(午前6時の様子) 金印公園から博多湾を望む。元がこの湾に攻めて来た。

 金印(国宝)
 中国の『後漢書』に西暦57年(弥生時代)、時の皇帝光武帝が奴国(なのくに)からの使者に印授を授けたことが記載されている。
 この印が1784年偶然この地から出土した。印面には『漢委奴国王』(かんのわのなのこくおう)と凹刻されており、『委わ』は日本人に対する古い呼名で、『奴な』は現在の福岡市を中心とする地にあったその時代の小国家の名前である。 1辺2.3cmの正方形、厚さ0.8mm,重さ108gの純金に近いもので、つまみの部分は蛇がとぐろを巻いたような形をしている。金印がどのようなわけで、ここに埋もれたかは未だに謎とされている。
福岡市立博物館より
 紀元前202年劉邦が、秦を倒した項羽を倒し漢を作り、7代武帝に至って中央集権力を確立して統一国家漢帝国が完成する。その後17年間外戚『新』により中断するが、25年武帝により統一し後漢となる。武帝は、異民族の王にも官位と印綬を与えることによって皇帝を頂点とする官職の証とした印章制度を作り、外交政策をした。『漢書』などによると漢の印綬制度では印の材質では上から順に玉、金、銀、銅とある。諸侯王は内臣の場合は金璽綟綬が授けられるが、外臣で王号を持つものは金印紫綬となる。(上海博物館には当時下賜された印鑑が沢山保管されている。)また漢の国は、国を治める指導原理に儒教を取り入れ、、『漢文』と言われるように文章が発達した。司馬遷の『史記』と班固の『漢書』は有名である。また葬倫が紙を発明したことは文化史上の貢献は大きい。また天文に関する機械の発明があったことは農耕の発展にも貢献した。黄布の乱を契機に220年滅亡した。後漢が滅びた後、222年〜280年三国時代(魏、呉、蜀)となる。
後漢書
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす)



板付遺跡
 板付遺跡は、福岡平野のほぼ中央の標高12mの低い台地を中心として、広大な弥生時代の遺跡である。日本で稲作が開始されたころの農業の農業集落の代表的な遺跡である。
 紀元前300年頃、稲作と金属器をなど新しい技術や風習を持った人たちが海を渡って来た。彼らは低地を水田に変え米作りが始まった。台地の上には幅約4m,深さ約2m、断面がV字形をした溝が東西に約80m,南北約110mの楕円形に巡らされている。環濠の内外には米やその他の食料を貯蔵するために竪穴が多数堀られている。大地の東西の低地段丘には水路が引き込まれ、完備した水田が開かれ、早くから稲作農耕が開始されていたことがわかった。甕棺の中から細型銅剣、銅矛各3本が発見され、有力者が台頭していたことが推定される。
 板付遺跡は集落、墓地、水田が一体となって把握される数少ない遺跡である。


昭和53年に発掘された弥生時代前期(今から約2300年前)の水田を復元したものである。稲の穂を摘み取る石包丁や田を耕したり水路を掘る木製の鋤や桑などの農具が発見されている。 板付遺跡弥生館

弥生人の足跡




発掘された弥生の水郷・平塚川添遺跡(邪馬台国か?)

 平塚川添遺跡は、紀元前1世紀から4世紀の弥生時代後期に最も栄えた集落跡、低地であることと、多重の水の入った環濠に囲まれているのが特徴である。
 魏志の倭人伝には、『末廬国に着き、陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。千戸余りある。代々王がいるが、みな女王国に属している。帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する。』と、また『女王国より北には、一大率という指令官を置いて、諸国を監視させている。諸国は指令官を大変恐れけむたがっている。一大率は伊都国にいるが、国中に監視員を派遣していろいろ報告させている。王の使いが魏の都、洛陽や帯方郡や韓国から帰還した時、また、郡の使節が倭国へ行く時はみな津で文書とか送り物とかを点検し、不足や食い違いがないようにしてから女王のもとに運ばせる。』と記載されている。 『 南へ水行二十日程で、投馬国に着く。南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に至る。女王の都である。七万戸余りある。女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。。』と記されてある。

  これを連続読みにすると、投馬国から船で10日の後、歩いて1か月と解釈すれば近畿説である。一方放射読み(伊都国までは方位、距離、到着国の順で記載されて、その先は方位、到着国名、距離の順と変わることから、伊都国までは行程、伊都国以降はすべて伊都国を起点に記述したと読む)にすると、奴国から船なら10日、歩いたら1か月と解釈すれば、ここ平塚川添遺跡こそが、邪馬台国であると言われている。

多重の水を貯えた環濠に囲まれている。

竪穴式住居が約300軒も発見された。中央には村長の館や祭殿が発見された。



焼ノ峠古墳(福岡県筑前町)

九州最大の全長40mの前方後方墳で、3世紀後半のものである。


古代史(日本人のルーツを訪ねて
呉服の国 蘇州神話の国 出雲吉野ケ里渡来弥生人説 土井ケ浜魏志の倭人伝対馬壱岐末盧国伊都国奴国天孫降臨薩摩天孫降臨高千穂日向1日向2神武東征隼人熊襲八幡宮百済飛鳥朝倉宮一の宮