金印(国宝)
中国の『後漢書』に西暦57年(弥生時代)、時の皇帝光武帝が奴国(なのくに)からの使者に印授を授けたことが記載されている。
この印が1784年偶然この地から出土した。印面には『漢委奴国王』(かんのわのなのこくおう)と凹刻されており、『委わ』は日本人に対する古い呼名で、『奴な』は現在の福岡市を中心とする地にあったその時代の小国家の名前である。 1辺2.3cmの正方形、厚さ0.8mm,重さ108gの純金に近いもので、つまみの部分は蛇がとぐろを巻いたような形をしている。金印がどのようなわけで、ここに埋もれたかは未だに謎とされている。 |
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福岡市立博物館より
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紀元前202年劉邦が、秦を倒した項羽を倒し漢を作り、7代武帝に至って中央集権力を確立して統一国家漢帝国が完成する。その後17年間外戚『新』により中断するが、25年武帝により統一し後漢となる。武帝は、異民族の王にも官位と印綬を与えることによって皇帝を頂点とする官職の証とした印章制度を作り、外交政策をした。『漢書』などによると漢の印綬制度では印の材質では上から順に玉、金、銀、銅とある。諸侯王は内臣の場合は金璽綟綬が授けられるが、外臣で王号を持つものは金印紫綬となる。(上海博物館には当時下賜された印鑑が沢山保管されている。)また漢の国は、国を治める指導原理に儒教を取り入れ、、『漢文』と言われるように文章が発達した。司馬遷の『史記』と班固の『漢書』は有名である。また葬倫が紙を発明したことは文化史上の貢献は大きい。また天文に関する機械の発明があったことは農耕の発展にも貢献した。黄布の乱を契機に220年滅亡した。後漢が滅びた後、222年〜280年三国時代(魏、呉、蜀)となる。 |
後漢書に
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
(建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす) |