東松浦地方では約2万年前の旧石器時代の終わり頃から人々の生活の跡が確認されており、縄文時代にかけても多数の遺跡が発見されている。縄文時代には日本列島と朝鮮半島との交流も活発になったようで、朝鮮半島の『櫛目文土器』の影響を受けた『曽畑式土器』が九州から沖縄にかけて分布する一方、石器の素材となる腰岳(佐賀県)産の黒曜石が朝鮮半島南西部の遺跡から出土している。また朝鮮半島南沿岸と九州北西部地域では、外海の大型魚類を捕獲するための石銛や釣針などの類似点から、共通の漁労文化があったことも推定されている。
紀元前6、7世紀に大陸から稲作や金属器が伝わり、農耕生活が始まった弥生時代には、各地に小さなクニが生まれ、鉄器(鏃)が武器となり、戦争や統合を繰り返して、佐賀平野の吉野ケ里遺跡に代表されるような大きなクニに発展した。生活が楽になる一方では奴隷にされる人々も出て来た。ここ東松浦半島の弥生遺跡も魏志の倭人伝に記載されているクニの一つである末廬国と考えられている。渡来した人々は、コロニーを形成し、時に戦い、時に融和した。彼らは半島や大陸の戦乱をくぐり抜けてきた人々で、日本列島にも防御力の高い環濠集落や、金属製の武器をもたらした。
末盧国は、現在の唐津市周辺に古来大陸との交流をもとに栄えた「クニ」であり、それが中国の王朝にも知られていたという。 末盧国には日本の稲作発祥の地(菜畑遺跡)や邪馬台国時代の王墓(久里双水古墳)など貴重な文化財の発見が相次いでいる。ここは大陸(唐の国)への玄関口(津)であり、稲作文化もここから日本全土に広まっていったのであろう。土器も薄く、色もちょっと灰黒色ぽくて、朝鮮の強い影響を感じる。
奈良時代までは、朝鮮、対馬、壱岐、末盧国、伊都国、赤間関のルートであったが、新羅と国交断絶の後は、壱岐から直接下関への航路に移り変わって行き、末盧国や伊都国は取り残されて行った。秀吉の朝鮮出兵では、名護屋城が拠点となり、人口は100万とも言われ、当時の大阪を凌ぐ賑わいを見せていたが、それも僅10年足らずで、秀吉の死亡と共に衰退して行った。 |
魏志の倭人伝(晋265〜316年の陳寿がまとめた書物)には、末盧国について、『海を南の方に千里余り程渡って行くと、一大国(一支国)に着く、、、、。また、千余里程海を渡ると末盧國に着く。四千戸余りあり、山麓や沿岸沿いに居住している。前の人が見えないほどに草木が生い茂っている。水の深い浅いに関係無く住民はもぐって魚や鰒(あわび)を捕る。陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。』とある。
唐津市周辺は、湿地が広く分布し、集落を営める場所は限られていたと推測されている。桜馬場遺跡の甕棺からは方格規矩秬(ほうかくきく)鏡−中国後漢初期に鋳造された第1級の名品−2枚が、銅釧(腕輪)26個、出土している。この甕棺は弥生時代後期のもので、出土品から末盧国の王の墓と考えられている。しかし末盧国の中心地は未だ見つかっていない。朝鮮や中国製の副葬品の出土は少ないのは、末盧国との交易については記載がないことと関係するのだろうか。伊都国に上陸せずに、末廬国に上陸したのは、倭諸国偵察巡行の為ではなかろうか。 |
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上:名護屋城跡から見る壱岐の島。
古代の人々は釜山、対馬、壱岐、末盧国と有視界航海をして往来していた。
←左 3世紀の倭国 |
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鏡山から見る東松浦半島
海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 松浦佐用比売(さよひめ) 万葉集 山上憶良 |
菜畑遺跡・末盧館−日本最古の稲作遺跡である!
菜畑遺跡は、昭和55年〜56年に調査が行われ、日本最古の稲作の「ムラ」が発見された。菜畑では今から2500〜2600年前の縄文時代晩期に大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行なった。
遺跡からは、これを証明する多数の炭化した米、稲穂をつみとる石包丁・木のクワ・エブリなどとともに小区画(20〜30平方メートル)の水田跡も発見された。また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギ・などの五穀をはじめ、メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実・根菜も栽培していた。
平成元年には家畜としてのブタも飼育していた新事実が確認され、菜畑は文字どおり「日本農業の原点」であることを証明した。 |
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菜畑遺跡は、日本最古の稲作の村として名を全国にとどろかせている遺跡であるが、現在は埋め戻されている。遺跡の上に資料館が建っている。 |
稲作の開始
稲の原産地はインドシナの三角地帯と呼ばれる山岳地帯である。稲作は中国では4千年前に始まり、日本へは縄文晩期に伝わった。中国大陸や朝鮮半島から、稲作、織物、金属、支石墓が同時に伝えられると、それまでの狩猟採集生活から農耕社会へと急速に変化して行った。 |
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炭化米:焼けて黒焦げになったお米が日本で最も古いお米だ。2500〜2600年前
アメリカのリビー博士(1960年ノーベル化学賞受賞)によって放射性炭素法と呼ばれる
C14の測定によって年代が決定された。 |
方格規矩秬(ほうかくきく)鏡−中国後漢初期に鋳造された第1級の名品−2枚が出土した。 |
古代復元水田
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菜畑遺跡で発見された日本最古の水田は、小規模(10〜20u)なもので、谷に沿って細長く広がった谷水田と考えられている。
稲作を知らなかった縄文時代は,餓死と栄養失調に悩まされ、人骨の鑑定によると平均寿命は25〜30歳であったとされている。縄文人が貝でカロリーを取ろうとすると、蛤が600〜700個も必要となる。縄文時代は1万年もかかったが、弥生人は2500年で現在の科学を手に入れた。これは保存出来る主食である米が人口の増加と文明の発展をもたらしたと言える。
倭国に伝わった稲作は、急速に日本全国へ広がっていった。青森県の垂柳遺跡や砂沢遺跡からは、弥生前期の水田跡が発見され、日本海ルートを通って東北へ伝わっていった。伊勢湾沿岸にも弥生前期末には伝わっていたが、関東地方には稲作農耕の痕跡が発見されない。これは、伊豆半島や房総半島には多数のそして強力な縄文集団が勢力を誇っており、新興の弥生農耕集団の移住は出来なかったのであろう。 |
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支石墓は市内の宇木汲田遺跡で発見されたものをこの地に移したもの。
今から約2600年前の縄文晩期から弥生時代前期に掛けて作られたもので、掌石が長さ3.07m,幅1.04m厚さ0.39m、重さ3tもある。墓の内部は土葬と考えられる。支石墓は朝鮮半島に多い。 |
久里双水古墳から発掘された末盧国国王の甕棺 |
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漆器は英語でJapanというくらいだから、もしかしたら中国ではなく日本がルーツかもしれない。 |
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久里双水古墳3世紀末から4世紀初めの前方後円墳である。
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全長 108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mの前方後円墳。魏志倭人伝に記述される「末廬国」の王墓ではないかという見方もある。 |
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支石墓(朝鮮半島に多い墳墓である) |
古代の森
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2万年前の唐津旧石器人が大陸より携えてきたと考えられる石器や、卑弥呼とともに生きていた出土品の数々、双水古墳群の貴重な出土品と模型、小十古窯跡の出土陶片などが展示されている。 |
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そもそも日本人とは何だろうか?
渡来人が稲作と金属器をもって日本に来たという。弥生時代は、稲作文化が普及し、農地、水利、さらには金属器の流通をめぐって争いの絶えなかった時代でもあった。渡来文化を受け入れつつも縄文的な風習を継承した人々も確認されている。両者は棲み分けと融合を繰り返していったのであり、渡来人と縄文人とが融合したことは、日本語が縄文中期には既に完成しており、現在まで継承されていることからも言えるのではないだろうか。もし渡来人による征服だったら日本語が存在しないと思う。また当時は朝鮮半島は3つに分裂していた。もし百済、新羅、伽耶のどこかが倭国に攻め入れば、他の国は千載一遇の好機とばかり隣国を攻め滅ぼしていただろう。渡来人は歴史時代に入っても次々とやって来て、日本各地に散らばっていったのである。 |
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唐津市に一言
古代の森、末盧館、唐津城、曳山展示場など唐津市立公共施設の入場料は、4歳以上が有料である。知らずに夫婦2名を支払うと、子供二人を請求された。保育園児だと説明すると、唐津市では4歳から子供料金(大人の半額)、15歳以上は大人料金が必要とのこと。ある市では、博物館は、高校生以下は無料であった。このような歴史や文化施設こそこれからの子供たちに見せて、学ばせたいと思う。唐津市の趣旨が理解し難い。
唐津市の回答(電話を頂いた)は、4歳から子供料金、15歳から大人料金の徴収は昭和40年代から行われていることであり、30年以上続いている。ご意見のようにしたいが、経済的な理由で出来ないとの事であった。そこで、職員を減ずれば、可能だと指摘した。 |
横田下古墳
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5世紀後半の古墳で、円墳、我が国における横穴式石室墳である |
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垂綸石(すいりんせき
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神功皇后が三韓征伐時に玉島の地に寄り、河畔の石上に登り、針を曲げて釣針を造り飯粒を餌として「この度の戦さ我に運あらば釣針を呑め」と勝敗を占ったところみごとな鮎がつれたという伝説があります。そこで鮎という字は、この地で生まれたと言われています。
また、釣台となった石は、玉島神社前のこの石であると言う。この時皇后はその魚を「めづらしき物」と仰せられ、この故事によりこの地を梅豆羅国(めづらのくに)といい、それが訛って松浦(まつら)になったといいます。 |
大伴旅人の句
(万葉集第5巻863 |
人の羨しさ |
妹らを見らむ |
玉島の浦に若鮎釣る |
松浦川 |
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玉島神社
神宮皇后が祭神である。 |
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邪馬台国研究
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唐津おくんち 14台の曳山が3日間町を練り歩く
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14番曳山七宝丸(上) 曳山展示場(下)の13番鯱と14番七宝丸 |
武田信玄の兜(上) 金獅子(下) |
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唐津城
1602年から7年の歳月を費やして完成した。廃藩置県にて解体したのを昭和41年再建した。 |
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唐津市 |
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