天孫降臨 日向(ひむか)王朝

 645年蘇我氏を倒して大化の改新をした天智天皇崩御の後、672年壬申の乱にて即位した天武天皇が理想とした政治は、すべての権力を天皇の手に集めることであった。聖徳太子以来の仏教興隆政策を改め、天皇が絶対の支配者である。仏に代えて神を、天照大神を天上界の最高の神に祭りあげ、日本を統治する天皇の権利は、その天上の神から授かったものとして、歴代の天皇はその神の血統に繋がるものである(万世一系)と主張した。この主張を天下万民に知らしめるために編纂された書が古事記である。この古事記を元に訪ねてみた。
 この応神天皇以前の記紀を史実とする学者を、軍国主義的歴史観を復活するものとして厳しく批判する人もいるし、アレルギー反応を示す人も多い。しかし記紀を冷静に読んでみると、色々なことが推測出来てくる。
 洋の東西を問わず、上代の歴史は神話の形式で伝えられている。古事記(712年稗田阿礼が暗誦していた帝記を太安万侶が編纂した)と日本書紀(720年天武天皇の命を受け、舎人親王らによって編纂された日本最古の国史)には、神々が生まれ、国が産まれ、そして天照大神の孫のニニギの命は高千穂に天孫降臨し、ニニギの命のひ孫4人が大和へと東征して、四男の神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)の命が神武天皇として即位したと書かれている。私は、ダビデやソロモン王の活躍した紀元前600年頃のエルサレムやイスラエルの各地をも訪ねてみたが、高千穂の地の方が美しく、幻想的であり、深い感動を覚えた。



日向高千穂
 古事記によると、 『昔々、天と地が初めて開けた頃、高天原にイザナギノ尊とイザナミノ尊という男女の二神がいました。二神は天の浮橋に立って矛をおろし、混沌とした海をかき混ぜました。矛を抜いた時、そのしずくが固まったのが、おのころ島です。二神はおのころ島の周りに、大八島国を作り、さまざまな神を生みました。』とある。
雲海(高千穂町のHPよりダウンロードする)は、
神々がいたと言う高天原(天上界)を想像する。
幻想的な高千穂の地

  古事記によると、 『火の神を生んだ時、イザナミノ尊は大火傷を負い、黄泉の国(出雲と伯耆の国の境にある比婆山)へと旅立ちました。あきらめ切れなかったイザナギノ尊は後を追いましたが、イザナミノ尊の哀れな姿を見て逃げ出し、日向の国の橘の小門の阿波岐原で禊(みそぎをして、天照大神、月読神、須佐之男命が生まれました。』とある。
 古事記は3人は兄弟であり、姉の天照大神は、中国の呉の国からの渡来人で伊勢神宮に祀られている。須佐之男命は朝鮮からの渡来人で出雲大社に祀られている。月読神は先住民族であるアイヌではないだろうか。日本人とは、3人の混血であると言っているようである。
             みそぎの御池(宮崎市)
 黄泉の国へ行ったイザナギの命は、そこでおそろしい目に会い、その汚れを祓うために阿波岐原で「禊祓(みそぎはらえ)」をした、と古事記にあることから、阿波岐原はみそぎ発祥の地であるとされている。
        江田神社(宮崎市)
今も残る阿波岐原の江田神社は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)を祀っている。


天安河原

  古事記によると、 『須佐之男命は乱暴者で、母に会いたいなどど無茶を言い、イザナギノ尊からこの”国に住むな”と追放されてしまいます。いとまごいに天照大神を訪ねた須佐之男命は、狼藉を働き、その有様を見て、天照大神は天岩戸に身を隠してしまいます。太陽の女神が姿を消したので、世の中は真っ暗な夜ばかりが続き、災いも起こりました。そこで八百万の神々は、天安河原に集まって知恵を絞りました。』
                          岩戸開きのご神議が開かれたところ。神秘的な雰囲気が漂う。


天岩戸神社

  一番知恵のある思金神(おもいかねのかみ)は考えました。まず長く鳴く鶏を集めてきて、鳴かせてみました。また玉祖命(たまのおやのみこと)には勾玉を繋がせて、長い珠飾りを作らせました。天児屋命(あめのこやねのみこと)には美しい声で祝詞を唱えらせた。
 岩戸の前で天鈿女命(あまのうずめみこと)が面白おかしく踊ります。外が賑やかなのを不思議に思った天照大神がそっと岩戸を開き、身を乗り出したところを、手力雄命が岩戸を押し開け、岩戸の片方を戸隠村へ、もう片方を阿波岐原に投げ飛ばし、ようやく世界に光が戻りました。
天の岩戸を投げ飛ばす力自慢の手力雄命。長野県の戸隠神社まで飛んだと言う。

おがたまの木。天鈿女命がこの枝を持って舞った。神楽で使われる鈴はおがたまの実が起源であると言われている。モクレン科の木で、4月に白い小さい花を咲かせ、秋には鈴様の赤い実を結ぶ。

ご神体は、天照大神がお隠れになった天岩戸をご神体としている。
遥拝をお願いしたが、神域のために撮影禁止でした。
向かいの山の麓の右側に天岩屋戸がある。
 ニニギの尊が天降られたこの高千穂に、高天原にあるべき天岩戸があるのはおかしい?しかしニニギの尊の身になってみれば、自分をこの国へお遣わしなった祖母、天照大神をお祀るのが良いと考えて、天上の天岩戸に似た洞窟を探して、天照大神を祀ったのだと思う。



くしふる神社

 さてしばらくして天照大神は、地上界があまりにも乱れて来たので、孫のニニギノ尊に治めさせようと降臨を命じます。この時、ニニギノ尊に勾玉と鏡と草薙の剣の三種の神器を手渡した。天鈿女命(あめのうずめのみこと)をはじめとする天児屋命、玉祖命、思金神、天手力男神、天布刀玉命(アメノフトダマノミコト)など八百万の神々を従えて天降る途中、猿田彦命が道案内をして、一行は天の八重雲を押し分けて、筑紫の日向の高千穂のくしふる峰へ降り立ちました。
ここは、記紀神話で、天孫降臨の宮殿跡地とされている。”くしふるの峰”は、昔から神山として崇められている。
古事記には『筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたき)に天降りましき』とあり、また日本書紀には『日向の高千穂のくしふる峰に到します』と記されている。

くしふる神社は、ニニギノ尊を初めとする降臨に随行された神々と国譲り神話の神々が祀られている くしふる神社から高天原遥拝所へ登る

高天原遥拝所
天孫降臨後に神々がこの丘に集まり、天上の高天原を遥拝したと伝えられている。
八咫烏(やたがらす)は、熊野神社や日本サッカー協会の、また高句麗の建国のシンボルマークにもなっている。このマークは、農業に必要な太陽の黒点を表現しているので あろう。
四皇子峰:神武天皇のご兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられている。ニニギノ命が高千穂宮に住まれて3代後ウガヤフキアエズノ尊は玉依姫と結婚して、四皇子(彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神倭伊波礼毘古命)が生まれた。
 四皇子は、日向から筑紫、安芸、熊野へ向かったが、長男は矢にあたり、二男三男は海に落ちて死んでしまった。4番目の皇子-神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)はを熊野を経て大和に入った。この時一羽のトビが飛んできて神倭伊波礼毘古命の弓にとまった。これが金鵄勲章の由来になっている。高木神(タカミムスヒノカミ)は八咫烏(やたがらす)を遣わし、一行を案内させた。そして橿原神宮で初代神武天皇として即位したと、伝えられている。


高千穂神社
創建は1800年前と言われている。

狛犬

源頼朝は秩父の豪族畠山重忠を代参として天下泰平の祈願に参詣した。その時の手植の杉は、”秩父杉”となずけられている。樹齢800年



荒立神社
ニニギノ尊の道案内をした猿田彦と天鈿女が結婚して住まわれた地と伝えられている。周りの荒木で急いで宮居を造ったため、荒立神社と言う。 天孫降臨の時、天と地の分かれ道で待ち受けて立ちはだかる者がいました。天照大神は天鈿女命に調べに行かせると、”私は猿田彦という国つ神(この地の先住民族の長)で、皆の道案内をさせていただきたく、お待ちしていました。”と申し出た。これが二人の出会いでした。天鈿女命は天の岩戸開きの伝説で、岩戸の前で調子面白く舞ったとされる女神で、神々の中で一番の踊りの名手として有名である。
土井が浜遺跡より
先住民族である縄文人 渡来の弥生人
神楽では、天鈿女はおかめの姿で表される。
弥生人は鼻が低く、目が小さく顔の凹凸が少ない
猿田彦は天狗の姿で表される。
縄文人は鼻が高く、目が大きく顔の彫りが深い
 この天孫族の天鈿女命と地上の猿田彦との結婚は、渡来の弥生人と先住民族である縄文人との和合が果たされたことであり、また混血によって日本民族が出来上がっていった.



 高千穂の夜神楽とは、天照大神が天岩戸に隠れた折りに、岩戸の前で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が調子よろしく面白く舞ったのが始まりと伝えられている。毎年11月から2月にかけ、33番の夜神楽奉納が町内の約20か所で夜を徹して奉納される。秋の実りに対する神への感謝と翌年の豊穣を祈り、人々の無病息災を祈願する。

1時間のミニ夜神楽が高千穂神社の神楽殿で毎夜見物出来る。 1番彦舞は、天孫降臨の時に、道案内をつとめた猿田彦の一人舞
24番手力雄の舞:手力雄は、天照大神が隠れた岩戸を探しあて、岩戸を押し開く思案を重ねる。

25番鈿女の舞:天照大神が、天の岩戸隠れで闇となった世界に再び光をと、岩屋の前で衣もかなぐり捨てて踊り狂い、神々の大爆笑の渦をよんだのが天鈿女である。鈿女の舞は優雅で気品が高く美しい舞で、難しい舞の一つである。 26番手力雄(てじからのお)の戸取り舞:天の岩戸の根を掘り、髪をふり乱す手力雄の舞ぶりは、力強さがあふれている。赤面をかぶり、袴姿で汗を払いながら、岩戸を取り払い、力いっぱい岩戸を投げ飛ばし、天照大神を迎え出す。岩戸は長野県の戸隠山まで飛んで行ったと言われている。

20番御神体の舞:国産みの二神が仲良く酒を作って、仲良く飲み干すほどに、二神は抱き合うが、ほどなく夫のイザナギの浮気心が頭をもたげて、観客席に乱入し女性を物色、そして女性に抱きつく。これに妻のイザナミは怒り、夫を連れ戻し寝かせるが、そのスキに今度は妻自らも、観客の男性を物色する。結局仲直りをして、二神はにこやかに抱き合うが、この一連の仕草が何とも滑稽である。舞の心は、五穀豊饒、家庭円満、子作りの願いが込められている。 天の岩戸神社でも高千穂夜神楽をしていた。


高千穂峡
この幻想的な世界に佇むと、ここに神々が舞い降りたのだと言う気がしてくる。
                           5ケ瀬川と高千穂大橋
  5ケ瀬川は阿蘇溶岩を侵食して深いV字型の渓谷、そそり立つ断崖や深淵を作り出した。
       玉垂(たまたれ)の滝:高さ5m,幅15m
 この水は、天孫降臨の時、この地に水が無かったため、天村雲命が再び天上に戻り、天から水種を移した天の真名井の水が地下を通ってここへ流れ落ちていると伝えられている。

 古事記に出てくるオノコロ島
 古事記には『天と地の間にかかる天の浮橋の上に立ち、矛の先からしたたり落ちる潮水が積もり積もって島となった。この島がオノコロ島で、イザナギとイザナミの二神はその島に降り、神聖な柱と広い御殿を建てた。』と記されている。
   

真名井の滝:高さ17m.谷は深く、豊富な湧水は滝となって流れ落ちる。
稲作と養蚕の技術を持って渡来した弥生人にとっては、ここ高千穂は最も適しており、この地の支配者となった。
高千穂町観光協会  高千穂町


霧島山
 天孫降臨の高千穂とは、高千穂町の山々と、もう1か所霧島山の高千穂の峰との2か所がある。 宮崎県は、日向神話と伝説を新しい観光資源にしようと”ひむか神話街道(北の高千穂から南の高千穂まで)”を整備して、東国原知事自ら宣伝している。  
 紀元節の歌の”雲に聳ゆる高千穂の、高根おろしに、草も木も、なびきふしけん大御世を 仰ぐ今日こそ 楽しけれ、、”で歌われている高千穂は高千穂町ではなく、ここ霧島山であろう。この山の威容は見事である。霧島神宮は天孫降臨に値する立派な建物である。
     宮崎観光情報

標高1,574m高千穂峰は、宮崎県と鹿児島県の県境に位置する。 標高1700m、霧島山の最高峰である韓国岳(からくにだけ)
(絵葉書霧島より転写する。)

 古事記によると、 昔々、天と地が初めて開けた頃、高天原にイザナギの命とイザナミの命という男女の二神がいました。二神は天の浮橋に立って矛をおろし、混沌とした海をかき混ぜました。矛を抜いた時、そのしずくが固まったのが、おのころ島です。二神はおのころ島の周りに、大八島国を作り、さまざまな神を生みました。ニニギノ尊トが地上に降り立つ場所を雲の上から鋒を使って探した後、その鋒を山頂に逆さに立てたと言われる天の逆鋒。ここが天孫降臨の地であることの証か?
 それとも、霧島は古くから修験道の聖地であり、霧島信仰を体系つけるために修験者が平安時代に逆鋒を置いたのではないだろうか?
高千穂峰山頂の天の逆鉾



トンネルの駅
旧国鉄のトンネル跡地に作られた焼酎貯蔵庫。
通潤橋:阿蘇外輪山の南西側すそ野、上益城郡山都町に、全長79.64m、橋幅6.65m、橋高21.43m




 『天照大神は天岩戸に身を隠しすと、世の中は真っ暗な夜ばかりが続き、災いも起った』。これは、魏志の倭人伝の『二四七年この時、卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。直径は百歩余りで、男女の奴隷を百人以上殉死させた。あらためて男王を立てたが、国中は不服として、そのため殺し合いになった。当時千人余りを殺した。』は即ち卑弥呼の死であり、天照大神の死を指しているのではないだろうか?
  天鈿女命が面白おかしく踊りると、不思議に思った天照大神がそっと岩戸を開き、身を乗り出したところで手力雄命が岩戸を押し開け、ようやく世界に光が戻ったことは、 魏志の倭人伝の、『倭人たちはまた、卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(とよ)を王に立てた。国中はようやく、定まった。』とある。新しい女神の登場によって争乱から国が統一され、平和が戻ったことを意味しているのではないだろうか?この新しい女神こそ神功皇后ではなかろうか?
 稲作と養蚕と鉄器を持って中国大陸の長江流域からから移住して来た天孫族(弥生人)は、霧島の高千穂峰では、シラス台地のために稲作と養蚕には不向きだった。そこで、稲作に適した高千穂町へと移動したのではないだろう
 天孫族は、その後神代3代の時代、高千穂では狭くなり、西都市に移り、日南から薩摩、大隅の南九州を支配下に治め、さらにニニギノ尊のひ孫の四皇子は、日向から筑紫、安芸、熊野を経て大和へ攻め登っり、4番目の皇子-神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は橿原神宮で初代神武天皇として即位した。応神天皇も熊野から大和へ攻めのぼり、即位して大和朝廷を発展させた。
 我々の先祖は、この中国系の天孫族に、新羅系のスサノオの命たちの渡来人と縄文人(先住民族)との混合によって出来た多重構造である。
浅野温子が語る日本神話への誘い
古代史(日本人のルーツを訪ねて
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