天孫降臨   日向(ひむか)王朝   NO.2

 古事記に書かれてある、天孫降臨から東征までを訪ねてみたが、沢山の伝承がある。日向神話と言われるものもある。中国から来たニニギの命らは、先住民との政略結婚により、3代で山と田と海の支配権を手に入れ、天孫族は4代目のカムヤマトイワレヒコの命の代で勢力を得て大和へと東征する。

Cカムヤマトイワレヒコの命の代



皇子原(おうじばる)(宮崎県高原町):神武天皇御降誕の聖地とされている。
 古事記には、『ウガヤフキアエズの命はトヨタマ姫と結婚し、ここ皇子原で、4人の子を産んだ。長男が五瀬の命、次の子が稲氷(いなひ)の命、次の子が御毛沼(みけぬま)の命、次の子が若御毛(わかみけ)の命別名カムヤマトイワレヒコの命後の神武天皇である。稲氷の命は海原に行ってしまし、御毛沼の命は波の上を踏んで常世の国にお渡りになった』と書かれている。
神武天皇がお生まれになった場所の碑がある。 5世紀後半から6世紀前半に作られた地下式横穴墓が6基ある。

1号古墳の上に鎮座する皇子原神社 「産婆石」の表面をなぜると安産が出来ると伝わっています。

狭野(さの)神社(宮崎県高原町)

 狭野神社参道の杉並木は、国の天然記念物に指定されている立派なものである。これは豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した島津義弘が、無事帰還したおれいとして奉納したもの。

 狭野神社は、幼名狭野尊、カムヤマトイワレヒコの命、後の神武天皇を祀ってある。第5代孝昭天皇の御代に神武天皇御誕生の地に創建されたと伝えられている。宮崎神宮の別宮に指定されていたが、戦後は独立神社となった。

 カムヤマトイワレヒコの命は、吾田(あた)隼人の娘、吾平津(アイラツ)姫と結婚した。吾田隼人は、薩摩半島の南西に住んでいた隼人で、イモガイやゴホウラガイを南方から輸入し、それらを加工して貿易していた。おそらく大きな船をたくさん持ち、南方から本州や四国にも船を出していたに違いない。
 神武天皇は、航海術にたけた吾田隼人の娘と結婚することによって、遠く海上に活路を求めようとしたのだろう。
 ニニギの命から4代で薩摩と日向の国を支配し、日向の美々津から出港して大和をめざして東征したのであろう。



駒宮神社[日南市)
  神武天皇を祀ってある。
 皇子原(高原町)で幼少を過ごした神武天皇は、宮崎の宮に向かわれる前、吾平津姫をお妃に迎えてここで過ごされたとされる少宮跡(しょうぐうし)と伝えられている。
日向シャンシャン馬(新婚夫婦が鵜戸神宮へお参りする風習)発祥の地でもある。
神武天皇の石像とご神馬龍石号の石像が立っている。
神社に伝わる古跡には、海辺で釣りをしていたとき、白髪の老人から龍馬を与えられ、「龍石」と命名した。その龍石馬に乗って鵜戸神宮の父・ウガヤフキアエズの命に会いに行った話。また、宮崎に出立する前に、愛馬・龍石を立石(海岸沿いの地名)に放牧したことから、立石は日本最古の牧場と言われる。

古跡御鉾(みほこ)の窟(いわや)
 
 ここは神武天皇がお若い頃に住まわれたとされた少宮跡と伝えられている。
 日本書紀には『年15にして立ち太子となりたまふ。日向国の吾田邑(あたむら)の吾平津姫(あひらつ)姫を娶き妃としたまふ。テギシミミの命を産みたまふ』と記されている。


宮崎神宮(宮崎市)
 神武天皇の孫にあたるタテイワタツの命が九州の長官に赴任した時、祖父のご道徳をたたえるために建立したと言われている。また第10代崇仁天皇、第12代景行天皇が熊襲征伐の折に社殿を造営し、応神天皇の頃に日向の国造が修造したと伝えられている。

神武天皇をお祀りしてある。 皇軍発祥の地の碑


皇宮屋(こぐや)(宮崎市)
住居跡
 カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が東征されるまで過ごされた所。古事記には、『カムヤマトイワレビコの命は、兄の五瀬の命と二人で、”どこへ行ったら、安らかに天下を治めることが出来ようか。やはり東の方へ行った方がよかろう”とご相談され、日向を発って筑紫へ行かれた。』とある。ここ皇宮屋(こぐや)で東征の軍議をされた場所だと言われている。

公園には、約400基の埴輪の複製が並んでいる。
平和の塔(宮崎市)と埴輪公園
 紀元2600年を記念して日名子実三氏(日本サッカー協会のマークである八咫烏(やたがらすの制作者)により建設され,「八紘一宇の塔」と呼ばれていた。石材は当時の大東亜共栄圏の隅々から集めた。塔の入口の青銅の扉は、天地創造から神武天皇の美々津港御船出までの模様を浮き彫りし、それを囲むように古事記の諸物が62の模様で物語風に描かれている。



美々津(日向市)

 カムヤマトイワレビコの命が、大和へ向け出発、船出した港がここ美々津であったと伝えられている。カムイワレビコの命は時に45歳であった。兄五瀬の命と、吾平津(アイラツ)姫との間に生れたタギシミミの命とキスミミの命の二人の皇子も大和へ同行した。
 美々津の町は、江戸時代から明治時代には日向(宮崎県)と京阪神との経済、文化交流の拠点であった。当時は『美々津千軒』と呼ばれるほどに回船業にて栄えていた。美々津の町並は、虫籠窓や京格子をはじめ、通り庭風の土間に代表されるように、京都や大阪の町家造りを取り入れたものとして注目され、上町、中町、新町の通りは、今なお当時の面影を残している。
 今回は亀甲柄の大島紬の長着と、諭吉柄の大島紬の羽織で、小倉、別府、臼杵、延岡を経由して日向市へ行ったが、国道10号線は遠かった。

 江戸時代には高鍋藩3万石の商業港として重要視され、藩主の秋月氏もこの港を参勤交代に利用していた。
 美々津の商人達が九州の林産物を千石舟で大阪地方に運び、帰路は、関西の特産物や美術工芸品を持ち帰った。

 全国的に珍しい河口に面した港のある江戸時代の町家をしのぶことができる。

立磐(たていわ)神社
神武天皇東征の折り、ここで戦勝と海上安全を祈願したと言われ、後に第12代景行天皇の時代に創建されたと言われている。

神武天皇が腰かけたと言われる岩が、『お腰掛け岩』として祀られている。

  神武東征。帰らずの島
 美々津から舟出した神武天皇一行は、沖に浮かぶ二つの岩礁の間を通って旅立った。その後、天皇一行が戻られることがなかったため、この岩礁の間を通ると戻れないとされ、現在でもこの間を通って沖に出る漁船はないそうです。
 その後、カムヤマトイワレヒコの命は豊国宇沙へ、そして筑紫の岡田宮で1年、安芸の国のタケリの宮に7年、吉備の高島宮に8年いらっしゃって明石海峡を通り、紀国から紀ノ川を遡上し五条から飛鳥へ攻め込んだ。

 神武天皇は慌ただしく出発の用意をする中で、着物がほころぶが、立ったままでお付きの者がほころびを縫った故事に由来する。
「立縫」と言う地名が今も残っています。
上:美々津の郵便受け。おきよ丸

  左:日向市歴史民俗資料館
 1855年に建てられた旧廻船問屋、「元河内屋」を昭和57年に復元されたもので、日向市歴史民俗資料館として開館した。

共同井戸 ツキヌケ:町を延焼から守るために作られた防火用の大通

高札場


和カフェ 「理庵」 

 天保七年(1836)に造られた美々津で二番目に古い商家。
 
お食事: 蒸し寿司(せいろで蒸した京風のお寿司) 700円

          ばんこ
 「ばんこ」とは、ポルトガル語の banco やオランダ語の bank からきた言葉で縁台・床几・腰掛など意。折りたたみ式になっていて、通りに面した家の軒先に作られている。近所の人たちが一寸腰掛けてお喋りする社交場。
橋口氏庭園
天文年間[約460年前)に作られた庭園。

    美々津の渡し場。
 江戸時代この地方の特産物である炭や木材を耳川の高瀬船で河口の美々津に集め、千石船で京、大阪へ運んでいた。美々津はそれら特産物の積出港として賑わい、元禄年間(1688〜1703)には回船問屋や商家が数多く軒を連ね美々津千軒と呼ばれるほどに栄えていた。
 明治の廃藩置県により日向国は、美々津県と都城県に分割され、美々津には県庁が置かれた。明治6年両県は統合され宮崎県となった。
 大正12年日豊本線が開通し、その後国道10号線が開通し、輸送の主役が鉄道や自動車に移って行くと、美々津は急速にさびれて行った。

   日本海軍発祥の地の碑:  この碑は、神武天皇率いる水軍が初めて編成され、進軍したことから、紀元2600年記念事業として建てられた。


 カムイワレビコの命は、美々津から東征に出発したと伝承されているが、私は鹿児島から船出して、美々津に立ち寄って北上したと思う。ニニギの命一族が、西都原を支配していたのなら、この平野は豊かで気候にも恵まれ稲作にも適している。、豊かに育った人はのんびり、おっとりとした気質になる。危険を冒して東征する必要がないと思う。よって船出をしたのは、鹿児島県の宮浦神社からであろう。
 むかい神話街道(北の高千穂から南の高千穂まで) 日向神話その舞台

古代史(日本人のルーツを訪ねて
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