天孫降臨 薩摩

日本人はどこから来たのだろうか?
 国立科学博物館によると、私たち世界中の現代人は、ホモ・サピエンス(新人)という一つの種に分類される。新人は、10万年前ごろにアフリカで誕生し、6万年前にアフリカを出発し、ユーラシア大陸に広がり始めた。東南アジアにやってきた新人(ホモ・サピエンス)たちは、海水面の低下によって生じた広大なスンダランド(インドネシアとその周辺を含む亜大陸)を発見しました。彼らは、気候がよく豊かな食物資源に恵まれていたスンダランドで人口をふやし、ある人々は、海を越え、東隣のサフールランド(オーストラリアとニューギニアを含む大陸)へと旅立っていきました。また、陸を踏破し海を越え、何世代もかかって、中国や日本列島にやってきた人々もいたことでしょう。日本列島では、4〜3万年前に人間が住み始めていたそうです。これを縄文人と言う。 紀元前6、7世紀に西日本には、縄文人とはまったく異なった顔だちや身体つきの人々が現れた。渡来系弥生人とよばれる人々です。彼らによって、水田稲作の技術と金属器の文化が大陸から伝えられ、人々の生活は大きく変化していきました。弥生時代の中頃(紀元前後)になると、大陸から渡来民が大勢やってくるようになった。渡来系弥生人は、九州北部から日本列島各地に広がり、縄文人と混血しつつ、本土人の主体を形成した。

徐福求仙登蓬莱之像(鹿児島県いちき串木野市)

 中国では紀元前770年から秦が統一する221年までを、春秋戦国時代と言う。呉と越の2国が強国となり、呉国は紀元前514年に都を蘇州に移し、軍師に孫武(孫子の兵法で有名)がなると強国になったが、呉国は越によって紀元前473年に滅びた。滅んだ呉の国から多くの人々が倭国へ落ち延びてきた。また越は紀元前334年楚に滅ぼされた。また三国時代の呉(222年-280年)は晋によって滅ぼされる。長江流域の民は、国が滅びる度に殺されたり奴隷にされるのを逃れて、1千年にわたり、倭国などへ落ち延びて来た。
  また紀元前210年秦の始皇帝が地方巡幸の時、斉の方士(神道を信じて神仙を目指している人)である徐福は、『はるか東の海に蓬莱、方丈、えい州という三神山があり、そこに仙人が居ます。私は斎戒して汚れなき童男童女数千人を連れ、不老不死の仙薬を得たいと思います。』と願い出た。そこで秦の始皇帝は、徐福に童男童女数千人をつけて、海上に送り出して仙薬を求めさせた。
 徐福は海に出て仙薬を求めたが、数年経っても莫大な資金を費やしただけで、ついに仙薬を得ることが出来なかった。そのため、徐福は始皇帝の怒りに触れるのを恐れ、『蓬莱に行きさえすれば仙薬を得ることが出来ます。しかしいつも大鯨に苦しめられて島にたどり着くことができません。どうか大鯨を射止めるために弓の同道をお許しください。』と偽りの奏上をした。(司馬遷史記)
 そこで秦の始皇帝は、さらに良家の童男童女三千人と五穀の種子と様々な分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。しかしその後、何日もの航海の末に徐福がどこに到達したかは不明ですが、平原光沢の王となって中国には戻らなかったと記載されている。
 この平原光沢は日本であると言われており、徐福が上陸したとする徐福伝説はここ冠岳をはじめ、佐賀市、三重県熊野市、和歌山県新宮市、富士吉田市など日本各地にある。
照島(いちき串木野市)
徐福はここから上陸したと伝承されている。  朝鮮出兵した島津義弘が朝鮮の陶工を連れて帰り、上陸した地点。薩摩焼きの開祖となった


冠岳展望公園:串木野にたどり着いた徐福は、荘厳な霊峰に至り、己の冠を山頂に留めたので、この山を冠岳(516m)と呼ぶようになったと伝えれれている。
2000年に串木野市政50周年記念として日本一の徐福の像(6m)を建立した。

蓮苑:湧水を利用した池や、蓮心亭、洞門を配した公園 冠嶽園:明、清の時代に作られた蘇州近郊の庭園をモデルにして造られた。中国では、『蘇州の庭園は天下一』と言われている。


@ニニギの命の代

 ニニギの命を長とする天孫(天照大神の孫)族は、何らかの理由で新しい天地を求めて日本へやって来たのであろう。天から降臨したとしているが、科学的には信じられない。神話を歴史的な事実の反映として考えると、高天原は中国ではなかろうか?中国では、後漢(25 -220年)の頃に戦乱があり、または飢饉があったのかも知れない。ニニギの命達の上陸地点は、南さつま市の野間半島だと伝承されている。ただし海からやって来たと言うのは記紀の伝承と矛盾する。しかし人間神である以上は、天からやって来るのは不可能であり、やはり海の向こうから来たと考えねばならない。八百万の神々を従えての天孫降臨は、米作と養蚕と鉄器をそして高度な文化(呉服と呉音、文字など)をも持って中国の長江流域から船出をして、真東に進むと笠沙に、着く。卑弥呼の少し前の時代にやって来たのだろう。
 ニニギの命は、大山津見神の娘コノハナサクヤ姫との結婚によって平野の支配権を得た、ホホリの命(山幸彦)はわだつみの娘豊玉姫と、ウガヤフキアフズの命は豊玉姫の妹のタマヨリ姫との結婚により漁業権を得た、カムヤマトイワレビコの命は吾田隼人の娘アヒラ姫との結婚によって航海術と武勇を得た。天孫族は、中国から渡来して積極的に土着の姫と結婚し、4代でその種族の力を利用して東征し、大和を征服した成功物語である。神武天皇には、隼人の血が7/8も入っている。

神代三代とは、最初に日本に来たニニギの命から、ホオリの命、ウカヤフキアフズの命の3代である。この時代に鹿児島と宮崎を支配下に治めた。   

天照大神
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アメノオシホミミの命
(天忍穂耳命)
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天火明命

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  @ニニギの命===
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コノハナサクヤ姫

@ホデリの命
(海幸彦)
Aホスセリの命 BAホオリの命===
(山幸彦)
     ┃        
トヨタマ姫の命
 豊玉姫


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Bウガヤフキアエズの命
       ┃  
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タマヨリ姫の命

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Bミケヌの命
Aイナヒの命
Cカムヤマトイワレビコの命
神武天
@五瀬の命
南さつま市の黒潮が岸辺を洗う坊津町は、むかし唐の港と呼ばれていた。


上:中国や西南諸島からは、開聞岳を目指して日本へ来た。


右:北九州には奴国を盟主とする北九州連合国があり、中九州には熊曾がいた。そこでニニギの命は、南九州にそっと上陸せざるを得なかった。
ニニギの命上陸地点、南さつま市の笠沙の宮、川内市の可愛山稜、高尾山上稜、霧島神社、皇子原、高千穂、美々津など

南さつま市笠沙
 古事記には、”ここは韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日のたださす国,夕日の照る国ぞ”と、また日本書紀には”あたの長屋の笠狭のみさきに到ります”とあるように、天孫降臨が語られる時に、古事記も日本書紀も”笠沙のみさき”、”笠狭のみさき”と言うのが出てくるが、この笠沙とは、南さつま市の笠沙町であろう。そして”ここは韓国に向ひ”は、霧島連峰の一つの韓国岳(からくにだけ)に向かっていると解釈する。

 野間半島の南西岸は、切り立った断崖が続く、ニニギの尊はこの海を渡って、中国の呉の国からやって来たのだろう。
       ここにニニギの命の上陸地の碑がある。
 宮の山遺跡は、ニニギの命上陸地の近くに、ニニギの命が初て宮居と定めた笠沙宮である。また岩窟が3カ所ある。
  古事記には『笠沙のみさきに、麗しき美人に遇いたまひき、”誰がむすめぞ”と問ひたまへば、”大山津見神の女、名はコノハナノサクヤ姫と云う”と答え。”吾、汝に目合せむと欲ふは如何に”と言われた。、、、、しばらくしてコノハナノサクヤ姫はニニギの命の所にやって来て”私はあなたの子供を孕んだのです。今は産み月にあたっています。”とおっしゃった。ニニギの命は”一夜の契りを交わしただけなのに、妊娠したとは。これは私の子ではあるまい。きっと国つ神の子に違いない”とおっしゃった。そこでコノハナノサクヤ姫は”私の孕んだ子がもし国つ神の子であれば、無事に産まれないであろう。反対に天つ神の子であれば、無事に産まれるであろう”と言って、すぐに入り口のない広い御殿を作り、その御殿に入り、土でその周りを塗り籠めてしまいました。そして今子供が産まれようとする時になって、その御殿に火をつけて、子どもを産み、3人の子どもを無事に産んだ。その火が盛んに燃えているときに産まれたのが火照命(ほでりのみこと)であり、次に産まれたのが火須勢理命(ほすせりのみこと)であり、次に産まれたのが火遠理命(ほおりのみこと)である。』とある。
 笠沙の岬で、ニニギの尊は山の神の娘コノハナサクヤ姫と出会った。 野間神社:ニニギの命とコノハナサクヤ姫が祀られている。



黒潮が岸辺を洗う坊津は、むかし唐の港と呼ばれ、伊勢の安濃津、筑前の博多津とともに日本三津と言われ、遣唐使の南島路の寄港地として知られていた。唐の制度を模範として大化改新が行われ、大宝の律令が発布され、長安の都になぞられて平城京が新営され、急速に日本の国家体制は整えられて行く。
鑑真上陸の地は笠沙の岬の隣りである。
唐の高僧鑑真和上は、日本渡海を5回も失敗し、ついに盲目となり、6回目に遣唐使船で753年に坊津に上陸した。

鑑真記念館



竹屋神社(南さつま市加世田
ホオリの命とその妃である豊玉姫と三兄弟が祀ってある。神社のある宮原には笠狭宮がある。

 笠沙の宮跡:ニニギの命は最初は宮の山遺跡に笠沙の宮を作ったが、次いでここ南さつま市加世田に笠沙の宮を移した。
ここでホオリの命を初め三人の子供が成長した場所である。

  磐境
古代の祭りが行われたところである。

ニニギの命は晩年川内に移り、そこで亡くなったと言われている。



         猿田彦神社(霧島市田口の辻)
 ニニギの命の道案内をした猿田彦と天鈿女が結婚して住まわれた地と伝えられている。
 天孫降臨の時、天と地の分かれ道で待ち受けて立ちはだかる者がいました。天照大神は天鈿女命に調べに行かせると、”私は猿田彦という国つ神(この地の先住民族の長)で、天照大神のご子孫が天降りなさると聞きましたので、道案内をいたそうと思って、お迎えに参りました。”と言った。これが二人の出会いでした。天鈿女命は天の岩戸開きの伝説で、岩戸の前で調子面白く舞ったとされる女神で、神々の中で一番の踊りの名手として有名である。

 この天孫族の天鈿女命と地上の猿田彦との結婚は、渡来の弥生人と先住民族である縄文人との和合が果たされたことであり、また日本民族の成立を物語っている。ニニギの命と国つ神のコノハナノサクヤ姫と、ヒトホの尊(海幸彦)は国つ神の豊玉姫となど、天孫族は常に国つ神の娘と和合して異民族との混血をはかって来た。

  狭名田(さなた)の跡(霧島市田口の辻)
 ニニギの命が初めて水稲を作られた田であると言い伝えられている。
 ニニギの命の妃であるコノハナノサクヤ姫がホオリの命(山幸彦)を生んだ時に、狭名田と名付けたと言われている。
 三つ子には母乳だけでは足らないので、この狭名田稲で甘酒を作り、これをお乳の代わりとして養育されたと伝えられている。
 コノハナノサクヤ姫は火中で出産したことから安産の神とも、御神酒の元祖とも、酒の神とも言われている。



川内市
 ニニギの命は、コノハナサクヤ姫といっしょに海路東シナ海を北上し、川内の地に着いた。この地に立派な千台すなわち高殿を築いて住まわれたことから川内と呼ばれるようになったと言われている。 そしてここ川内で亡くなられ、お陵(墓)が作られ、新田神社に祀られるようになった。
 現在の鹿児島と宮崎は、『日向国』と呼ばれ、国府は西都原に置かれていたが、703年に分割されて薩摩国が出来、国府は川内に置かれた。以後薩摩の律令政治の拠点として栄えた。 


薩摩国分寺跡(川内市)
 741年聖武天皇の詔により、諸国に国分寺が建立された。南北130m,東西117mと推定され、南大門と北門に囲まれ、中門、金堂、講堂が配置されていた。



  可愛山(えのさんん)陵(川内市)

 ニニギの命の御陵は、新田神社の裏山の可愛山(えのさん)稜に祀られており、御霊は霧島神宮に祀られている。(明治7年7月に決められた))

新田神社(川内市、薩摩の国の一宮)
新田と言う名前は、ニニギの命が川内川から水を引いて新しくたんぼを作られたという意味から付けられた。

ニニギの命を祀ってある。 頭をなでると安産の霊験ありと記されている。。



霧島神宮:祭神はニニギの命である。
 壮大な威風堂々たる建物である。
 霧島神宮の偉大さが、ここが天孫降臨の地だとする思想が正しいと思われ、また明治の尊王,倒幕思想、そして神仏分離、廃仏毀釈の運動へと発展していった。そして薩摩藩から始まったこの運動が、日本政府の政策となり、伝統の文化財が徹底的に破壊されたことは国家の損失であった。。

 霧島神宮は、540年高千穂峰の近くに社殿が建立sされていたが、度重なる噴火火災に会い、現在地に移転した。現在の社殿は1715年に島津藩主によって造営された。




Aニニギの命の子のホオリ(火遠理、山幸彦)の命の代

玉ノ井(指宿市)
神代の昔から日本最古の井戸と言われ、ニニギの尊の子のホオリ(火遠理、山幸彦)の命が豊玉姫と出会った場所と言われている。

  古事記によると、『兄のホデリの命は、海幸彦として、弟のホオリの命は山幸彦として暮らしていた。ある日ホオリの命は兄のホデリの命に、”互いに獲物をとる道具を換えて仕事をしてみたいと思うがどうだろう”と言って、道具を交換した。ホオリの命は兄の釣針を借りて、魚を釣ったが、一匹も釣ることが出来ないばかりか、その釣針を海の中に失ってしまわれた。兄は元の釣針を返せと言うので、ホオリの命は船に乗ってわだつみ(大隅と薩摩の地を支配する豪族)の神の宮殿に行き、宮殿の門の井戸のそばの桂の木に登っていると、やがて出てきたワダツミノ神の娘豊玉姫は、井戸に映った山幸彦の姿を見つけて、一目で好きになって男女の交わりをされた。そして家の中に入って父のわだつみの神に報告すると、わだつみの神はホオリの命と豊玉姫をすぐに結婚させた。その後手厚いもてなしを受けたので3年間その国に住んでいた。ある夜ホオリの命はここへ来た本当の目的を思い出し、豊玉姫に話をした。魚たちが”この頃赤鯛が喉にとげが刺さって、食べものが食べられないとぼやいています”と言った。そこで赤鯛の喉を探すと、釣針があったので、取り出した。ホオリの命は地上に帰って、その釣針を兄に返した。
 その後、豊玉姫はホオリの命の所へ来て、”私はすでに身ごもっているのです。いまが丁度お産の月です。天つ神の子を海の中で産んではいけないと思って、わだつみの宮からここへ来ました”とおっしゃった。そこでさっそく産屋を建てた。産屋に入られて産もうとされる時に、夫のホオリの命に、”一般に、他国の人は、子どもを産む時は、元の国の形に戻って産むものです。だから私も、いまは元の形に戻って、子を産もうと思いますので、どうかわたしを見ないでください。”とおっしゃった。それを聞いて不思議に思われたホオリの命は、そうとのぞき見をすると、わが妻は大きな鮫となって、腹這いになって、這い回っておられた。ホオリの命は、それを見て、驚き恐れて、逃げ退かれた。豊玉姫は”はずかしくて、もうお目にかかれません”とおっしゃって、産んだばかりの子を置き去りにして、わたつみの国に帰ってしまわれました。』 この子が神代3代のウガヤフキアエズの命である。
 天孫族は、国つ神(縄文人)と積極的に混血を図ったが、民族の違いは出産に於いてもっとも顕著に現われ、その風習の違いが多くの不幸を生んだ。

薩摩一の宮、枚聞(ひらきき)神社(指宿市)
天照大神とその子である天忍穂耳命を祀ってある。
ここはワダツミの神の宮殿跡と言われている。
ここで、ホオリの命は3年間過ごした。



大隅国分寺跡(霧島市)
713年薩摩国がさらに分割され、大隅国が出来、国府は国分に置かれた。
聖武天皇の天平年間、飢饉、疫病、反乱がおこり国内の世情が不安定となった。聖武天皇は仏教の信仰をもって国家の統治を図るために741年国分寺の建立の詔を出した。



鹿児島神宮(霧島市隼人町)大隅国の一宮。ホオリ(火遠理、山幸彦)の命と豊玉姫を祀ってある。
相殿には仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀ってある。すなわち八幡宮である。
 720年に当時日本全国にまで勢力を伸ばしつつあった大和朝廷が、税の徴収や律令制度を徹底させたことに反対して大隅国府を隼人の人々が襲い長官を殺害するという事件が発生した。これに対し大和朝廷は征伐軍を送り込み、神々への信仰は厚く、征伐軍には敵対するものを倒す神力が授かれるとして宇佐八幡(宇佐神宮)の神様が同行されたそうである。戦いは1年を超える長期に及び、隼人の軍は制圧された。ところがその後、宇佐地方には作物の不作や病の流行が起きるなど災いが発生し、人々は「これは戦いによって亡くなった隼人の人々の霊の仕業では」と思うようになる。そして隼人の乱の後に、この地に八幡様が祀られたのではないだろうか。その後この地で信仰が深まり、他の八幡宮とは異なるということで正八幡を名乗ったのではと言う。


社殿正面には、正八幡宮の額がかかっている。
龍宮の亀石。豊玉姫が乗ってきた亀



高屋山上陵(鹿児島県姶良郡溝辺町)
   ホオリの命と豊玉姫命を祀ってある。 
 ホオリの命は神代三代の第二代目で、神武天皇の祖父に当たる。御霊は鹿児島神宮に祀られている。
 古事記によれば、命の御陵は日向の高千穂山の西に在ると記されてある。日本書紀には、高屋の山に葬るとある。
 高屋山上稜は、面積は5万3千uで、円墳である。

Bウガヤフキアエズの命の代

吾平(あいら)山稜
神代三代の第3代目のウガヤフキアエズの命とタマヨリ姫の命の御陵は、吾平(あいら)山稜に祀られている。御霊は宮崎県の鵜戸神社に祀られている。
 


Cカムヤマトイワレヒコの命の代

皇子原(おうじばる)(宮崎県高原町):神武天皇御降誕の聖地とされている。

神武天皇がお生まれになった場所の碑がある。 5世紀後半から6世紀前半に作られた地下式横穴墓が6基ある

1号古墳の上に鎮座する皇子原神社は神武天皇を祭る狭野神社の来社。 「産婆石」の表面をなぜると安産が出来ると伝わっています。

狭野(さの)神社

 狭野神社参道の杉並木は、国の天然記念物に指定されている立派なものである。これは豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した島津義弘が、無事帰還したおれいとして奉納したもの。

 狭野神社は、幼名狭野尊、カムヤマトイワレヒコの命、後の神武天皇を祀ってある。

 カムヤマトイワレヒコの命は、吾田(あた)隼人の娘 吾平津(アイラツ)姫と結婚した。吾田隼人は、薩摩半島の南西に住んでいた隼人で、イモガイやゴホウラガイを南方から輸入し、それらを加工して貿易していた。おそらく大きな船をたくさん持ち、南方から本州や四国にも船を出していたに違いない。
 神武天皇は、航海術にたけた吾田隼人の娘と結婚することによって、遠く海上に活路を求めようとしたのだろう。当時もっともすぐれた航海術を持ち、また武勇にも優れた種族だあった吾田隼人の援助を得て東征の軍を起こし、大和を征服しようと考えたのではないだろうか。
 ニニギの命から4代で薩摩と日向の国を支配し、福山町の宮浦神社から出発し、日向の美々津に寄港して、さらなる準備をし大和をめざして東征したのであろう。
 吾平津(アイラツ)姫との間に生れたタキシミミの命とキスミミの命の二人の皇子も大和へ同行した。

霧島山系は、地下水の湧き出る泉や滝が多い。

霧島から見る桜島
 狭野の地は稲作農業に適していないし、桜島や霧島の火山爆発により多大な被害をもたらしたのではないだろうか?
火山爆発を契機に、兄弟4人は新しい土地を求めて旅を計画したのではないだろうろか?
聞けばはるか東方には、大和という豊かん土地があるという。



宮浦宮(霧島市福山町)

 神武天皇のお船出の記念木として一対の大銀杏(高さ37m,周7.6m,樹齢千年以上)がそびえ立っている。高床式のご神殿があったが現在は取壊されており、新築予定であった。
 更にこの祭場は3種の神器奉斎の霊場跡であると記載されてあった。

 カムイワレビコの命は、五瀬の命らと共にここ宮浦宮から船出して、美々津に立ち寄って東征に出発したと伝承されている。


神社の近くに壷づくり純米黒酢(霧島市福山町)があった。
 黒酢作りは、蒸し米と米麹と地下水を原料として、薩摩焼の壷に入れて2、3年発酵、熟成させる。一年の平均気温は18.7℃。福山は平野部がほとんどない三方を山に囲まれ南向きの丘陵地帯です。造る場所は蔵でもなく工場でもなく、“壺畑”です。“畑”というのはくろず造りが農作業のように野天で行われるということと壺の並ぶ光景からそう呼んでいます。第2は、良質な地下水。鹿児島は姶良カルデラを持ち、そのシラス台地からおいしい水が出る場所です。第3は、港の存在です。福山は、もともと商業港だったからこそ、くろず造りに欠かせない薩摩焼の壺を容易に手に入れることができました。また薩摩藩時代、藩への上納米の集散地が福山の港だったのです。
 くろず造りには発酵にちょうど良い気温、太陽エネルギーを一身に浴びることができる壺畑、壺に住みついている微生物が欠かせません。これらの条件が重なって黒酢は、この福山で生まれたのです。


薩摩半島での見どころは、指宿温泉と知覧、開聞岳であろう。
知覧の武家屋敷庭園 知覧特攻平和公園

2008年大河ドラマ”篤姫”。指宿篤姫館にて 枕崎お魚センターの海鮮丼



 古事記や日本書紀に記載されている天照大神系の天孫族(ニニギの命)は、呉の国(長江流域)から船出して、真東に進むと、南さつま市の笠沙に着いた。天孫族は積極的に国つ神(縄文人)の娘と混血して、支配を広げて(平定して)いった。
 私は、稲作と養蚕と鉄器を持って中国大陸から移住して来た天孫族(弥生人)は、霧島の高千穂峰では、シラス台地のために稲作と養蚕には不向きだったと思う。そこで、稲作に適した良い国を求めて移動したのではないだろうか?
 その後、天孫族は3代で、日向、薩摩、大隅の南九州を支配下に治め(平定し)、さらにニニギの命のひ孫の四皇子は、筑紫、安芸、熊野を経て大和へ攻め登り、4番目の皇子-神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は橿原神宮で初代神武天皇として即位した。
 古事記によれば、大国主神は、『天照大神の命令どおり、須佐之男命の子孫である大国主神が治めている葦原中国を差し上げます』と言わされている。そして天照大神は『いま、葦原中国はすっかり平定されたと言う報告を受けた。だからおまえ(ニニギの命)は天下りして、そこを治めて欲しい』と言った、とある。
 一方考古学的には、弥生時代の3世紀頃、銅剣と銅鉾を支配のシンボルとする北九州文化が、銅鐸を支配のシンボルとする出雲文化との間に戦争があり、銅鐸文化は滅んだことが証明出来ている。出雲や近畿地方で突然銅鐸が埋められたり、砕かれて埋蔵されている。これは九州地方の支配者が東進して、大和地方の支配者となり、その流れを引くものが日本全土の支配者となったことを証明している。
 薩摩が天孫降臨の地であり、また神代三代の神々と神武天皇を祀る神社が薩摩にあることが、島津藩に尊王思想が生まれ、倒幕、明治維新への大改革へと動いていった。
 そしてこのような動きの中で明治時代になると、日向神話3代の神々の御陵の指定が行われた。1874年ニニギの命は鹿児島県川内市の可愛(えの)山陵、ニギニギの命の子であるヒコホホデの命(山幸彦)は溝辺町の高屋山上陵、ニニギの命の孫であるウガヤフキアズの命は吾平町の吾平山上陵にそれぞれ定められた。神代三代の陵墓と伝承される場所は他にもあったが、薩摩人が支配する明治政府によって鹿児島県に持って行かれたわけである。また神仏分離、廃仏き釈の運動も薩摩から始まって、明治政府の政策となった。

古代史(日本人のルーツを訪ねて
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