神武東征

 古事記には、『カムイワレビコノ命は、その同母兄の五瀬の命と二人で、高千穂にいらっしゃって”どこに行ったら安らかに天下を治めることが出来ようか。やはり東の方へ行った方がよかろう”とご相談されて、日向を発って、筑紫へ行かれた。』と記されてる。

宇佐神宮
 古事記には『豊国の宇佐というところに着いたときに、その地の人であるウサツヒコ、ウサツヒメという名の者が、山を背にして、川に大きな柱を立てた、はなはだおもしろい宮を建てて、大いに御馳走をした。』


岡田宮

 古事記には、『しかしそこからまた移って筑紫の遠賀川下流の岡田宮に1年いらっしゃった。』と記されている。
祭神は、神武天皇、大国主命、
神武天皇が東征の折り、1年間留まっていたと言われている。
また神功皇后が三韓征伐の折当宮に詣でたと記されている。

柿本人麻呂の”大君の遠のみかど、あり通う 島門を見れば 神代しおもほゆ”万葉の歌 三条実美公が参拝した際に読んだ歌”玉ちはふ 神し照らせば 世の中の 人のまごころ かくれはする”


高島宮址
 古事記には『そしてそこからまた東へ向かった行かれて、安芸の国のタケリノ宮に1年いらっしゃった。またそこから東へ行かれて吉備の高島宮に8年(日本書紀には3年)いらっしゃった。』とある。その高島宮の伝承地は、備中の笠岡市高島の高島神社、笠岡市神島の神島神社、備後の福山市八幡神社なども言われていた。    高島宮

   岡山市中区賞田にある吉備高島宮址
 この一帯は高島山と言われていた。海辺がすぐ近くまでせまっていたので、軍船を停泊させる良い港であった。旭川は古来から出雲との往来が盛んであったし、船を造る木材の調達が容易であった。この平野は肥沃で農作物が豊かであった。など船や武器の整備をするのに適した地であった。

備前国総社
近くには吉備大宰府や備前国府があった。備前国総社も近くにある。

 総社は、律令制度下で平安時代末期までには、ほとんどの国に設けられた。
 総社とは国司が逐一出向いて拝巡すべき各神社が国内各所に分散して不便であるため、各祭神を国府の近隣の1か所に合祀することで、参拝を略式化するために設けられたもので、国府直属の祭祀施設である。


岡山市南区宮浦の高島宮
向こうに見える島が、岡山市児島湾に浮かぶ高島
高島の南端に高島宮が鎮座していると言う。
無人島なので定期船がなく、行けなかったのが残念!
宮浦には高島神社がある。
 文部省が皇紀200年行事として昭和13年から2年間をかけて当時の学会の総力をあげて学術的な”神武天皇聖蹟調査”を行った結果、現在の岡山市南区宮浦を聖蹟伝承地と認定した。しかし同様の伝承を有している神社は複数存在している。 



 古事記には、『またそこから東へ向かって船を進め、浪速(淀川の河口か)の船着場を経て、白肩津という港に船を着けた。そのとき、トミノナガスネビコという者が軍隊を率き連れて、イワレビコノ命たちが来るのを待って戦った。ここで五瀬命はトミノナガスネビコの放った鋭い矢を手に受け、負傷された。そして”私は日の神の子孫であるのに、いま日に向かって戦ったが、それが間違いであった。それで卑しい奴の為に酷い目に合った。これからは紀伊半島を東に回って、日を後ろに負って敵を打つことにしよう”と誓って、南の方からお回りになろうとされた。そしてまた南に向って、紀の国の男之水門に至ったとき、五瀬命はお亡くなりになった。』と記載されている。浪速の港から上陸を試みたが、2男、3男を失い、長男は瀕死の重傷をおった。そこで和歌山から攻めることにした。


和歌山市水門吹上神社

五瀬命が『賤しい奴のために手負いを負って死ぬのは残念』と言われて崩御された場所と、伝えられている。
祭神は水門神社が戎様と
吹上神社が大国様になっている。



矢宮神社
 神武天皇が紀の国に上陸後陣地を構えたとの伝承のある地である。

ご祭神は、ガモタケツノミノ命は、八咫烏(やたがらす)命とも呼ばれ、神武天皇が熊野より大和へ進まれる際に山が険しく進退きわまった時、皇軍を導かれ、また途中の賊将に帰順を諭するなど勲功を立てた大神である。熊野と吉野を行き来する山の民であり、一種の忍びであった。




竈山神社(かまやまじんじゃ)

負傷した五瀬命は”雄の水門”に上陸した後、亡くなった亡骸をここに埋葬した。よって五瀬命が祀られている。

皇軍は紀ノ川を遡り吉野へ進入したのではないかとの説が地元ではある。
古事記記載の熊野から吉野への道は険しく困難であろうと思われる。
神社の東側にあたる竈山陵に五瀬命の墓があります。


和歌山から紀ノ川に沿って登ると華岡青洲(1760〜1835年)の生家がある。

華岡青洲の住居兼診療所であり、医学校でもあった建物
麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を発明し、1804年世界で初めての全身麻酔による乳癌摘出手術に成功した外科医である。
青洲の名声は全国に広まり、この地に学んだ塾生は1033名を数えたという。

映画華岡青洲の妻 展示室:青洲が使っていた手術器具などが展示されている。



高野山
高野山は弘法大師(空海上人)が816年真言密教の根本道場として定められ、国の平和を祈り国民に安らかな生活への道を伝えるなど崇高な目的をもって開創せられた。

総本山金剛峯寺 壇上伽藍の根本大塔:真言密教の根本道場として建立された多宝塔。
中央に金色に輝く大日如来が、その四方に四仏が鎮座し、巨大な柱には十六大菩薩が描かれている。
この内部は胎蔵曼荼羅の世界を表していると言われている。

ばん龍庭:日本最大の石庭


奥の院
高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地です。

菩提樹の数珠と半袈裟をして

一乗院にて

写経:般若心経を1時間かけて写経をした。般若心経 般若心経 精進料理:三の膳まである。
朝は6時から勤行(ごんぎょう)、8時瞑想・阿字(息)観体験をした。




橿原神宮(橿原市)
神武天皇は橿原の宮で即位したという日本書紀の故事にちなみ、明治23年に創建された。

 神武天皇は御年45歳で日向国、美々津を船出し、10年の歳月を費やして、大和国に入られた。そして、国内を統一し、畝傍(うねび)山の東南・橿原の地に皇居を営んで、即位の礼をあげた。
 
 この先で玉串奉天し、お神酒を戴いた。した。  御垣内特別参拝をした。  53万uの広大な神域


神武天皇御陵(橿原市)

 古事記には、『ところで、カムヤマトイワレヒコの命(後の神武天皇)が、日向にいらっしゃったとき、阿多の小橋君の妹の名を阿比良姫という女を妻として、お生みになった子が、タギシミミの命であり、次にキスミミの命であり、このお二方の男の子がいらっしゃった。
 しかし天下を支配する王者となったからには、皇后にふさわしいような美しい女がほしいと思っていらっしゃった。イスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ))を妻として、そうしてお生まれになった御子は、長男がヒコヤイの命といい、次男がカムヤイミミの命といい、三男がカムヌナカワミミの命と言う三人の男の子であった。
 古事記には、この(神武)天皇がお亡くなりになった後に、庶子のタギシミミの命は、皇后のイスケヨリ姫を妻とされ、その三人の弟たちを殺そうと謀っておられたが、イスケヨリ姫は自分の子供たちにこのことを報せようとなさった。そこでタギシミミの命は次兄のカムヤイミミの命に”お兄さんよ、あなたは武器をもって部屋に入りタギシミミの命を殺しなさい”とおっしゃった。そこでカムヤイミミの命は武器を持って部屋に入りタギシミミの命を殺そうとしたが、手足が震えて、殺すことが出来なかった。そこで三男のカムヌナカワミミの命が、兄の持っていた武器を奪い取って、部屋に入りタギシミミの命を殺してしまった。
 そこでカムヤイミミの命は弟のカムヌナカワミミの命に天皇の位をお譲りなった。そして弟のカムヌナカワミミの命は綏靖(すいぜい)天皇として天下をお治めになった。

 古事記には、『神武天皇の次の2代綏靖天皇の後、3代安寧天皇が位をお継ぎになって天下をお治めになった。以下4代い徳、5孝昭、6孝安、7孝霊、8孝元、9開花といった順で天皇の位をお継ぎになり、天下をお治めになった』と記されている。10代の崇神天皇まで記載がないのはなぜだろうか?欠史である。次の古事記の記載は、10代の崇神天皇、11垂仁天皇、12代景行天皇、日本武尊、13代成務天皇、14代仲哀天皇、15代仁徳天皇、16代応神天皇と続く。
 古事記の主人公は何故いつも弟か?海幸彦と山幸彦の物語では、弟の山幸彦(火遠理命)の成功物語であり、因幡の白ウサギ神話も弟(大国主命)が主人公であり、神武天皇も4男の成功物語である。このように古事記は弟が賢くて優しく主人公になっている。古事記の編纂を命じた天武天皇は、壬申の乱で兄天智天皇の長男大友皇子を破って即位した、このことから弟が賢く優しいと考えて書いたのであろうか?外国でも弟が主人公が多い。


神武東行

古代史(日本人のルーツを訪ねて
呉服の国 蘇州神話の国 出雲吉野ケ里渡来弥生人説 土井ケ浜魏志の倭人伝対馬壱岐末盧国伊都国奴国天孫降臨薩摩天孫降臨高千穂日向1日向2神武東征隼人熊襲八幡宮百済飛鳥朝倉宮一の宮