百済:くだらとは日本語では読めない。飛鳥あすか、斑鳩いかるがも同じく読めない。朝鮮半島では、50余りの小国家が統一され、4世紀には百済、新羅、高句麗が王国を築き、以後この3国間で激しい争いが続き、領土を拡大したり縮小したり、都を移したり、はたまた一旦滅んだ国を再興したりしながらも、驚くべき豪華な文化と最先端の技術を飛躍的に発展させた国があった。その百済と倭国は異常なまでに親密な関係にあった。百済は、仏教や論語、文字、土木技術などを日本へ伝えた。660年唐と新羅連合軍によって百済が滅亡すると、翌年9月百済再興の為に、倭国(斉明天皇、中大兄皇子、中臣鎌足ら)は人質として倭国に来ていた百済の皇子豊璋(ほうしょう)に5000人の兵をつけて百済へ送り帰した。また662年斉明天皇と中大兄皇子は飛鳥を出て筑紫の朝倉の宮に移って百済援軍の準備をし、663年3月倭国は5万とも10万とも言われる人と1千艘の軍隊を派遣して、唐-新羅連合軍と戦い、百済再興をはかった。倭国は何故自国が危機に瀕する程の援軍を出したのであろうか? |
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韓国の歴史書を読むと、高句麗は紀元前37年朱蒙(チュモン)によって建国され、百済は紀元前18年朱蒙の子、温祚(高句麗の2代王琉璃るりとは異母兄弟)は南の肥沃な土地へ逃れ、初代王になったと記載されている。
しかし魏志の倭人伝には、238年ころ、『倭人は、帯方郡の東南の大海の中にいる。山の多い島で、国や村で成り立っていて、もとは百余りの国があって漢の時代には朝貢する者もいたが、今は使者や通訳など通ってくるのは、30カ国である。』と記載されているように、高句麗や百済は記載されていない。当時朝鮮半島を支配していたのは公孫氏政権であった。204年に公孫度の跡を継いだ公孫康時代に朝鮮半島へ進出し、楽浪郡を手に入れ、200年から210年代にかけて楽浪郡の南に新たに帯方郡を置く等、朝鮮半島を支配していた。「三国志」によると、倭国や朝鮮半島南部の50余りの小国家(いわゆる馬韓.弁韓.辰韓の三韓)が帯方郡に従ったとあり、東方の異民族との外交権を掌中に収めていたことが伺われる。
景初二年(238年)の十二月、皇帝から倭の女王に詔が下される。 『親魏倭王卑弥呼に詔を下す。帯方郡の太守の劉夏が、使いをよこして汝の大夫難升米、、、、』と魏志の倭人伝にはある。
よって紀元前18年に建国されたということは百済の建国神話であると言える。実際に国として統一されたのは4世紀頃であろう。 |
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ソウル漢城346年〜475年
百済の起源が史料に明らかになるのは、馬韓の地域を統一し、現在のソウルの漢江の南岸に漢城を築き独立国家となったのが346年第13代近肖古王の頃である。国号を百済とした。371年平壌を攻めて高句麗の第16代故国原王を戦死させた。倭国は369年任那を確保しし、ここから朝鮮半島を干渉した。その後は高句麗の広開土王に押され気味となり、第17代阿芋王は高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになり、397年太子を人質として倭国に出したり、七支刀(奈良県天理市の石上神社に現存する)を倭国に送った。また405年百済の阿直岐,博士王仁などが応神天皇の招きで日本に渡来し、論語、漢字を伝え、皇子(後の仁徳天皇)の教育をした。405年阿芋王が死ぬと、日本に人質として送られていた太子を帰国させ、第18代腆支(てんし)王となり、倭国との関係を維持した。
高句麗の第20代長寿王は平壌に遷都し、百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟を結んだが、475年には首都・漢城を落とされ、第21代蓋鹵(がいろ)王が戦死した。よってソウルは高句麗の支配するところとなる。
第19代広開土王(391〜412)の碑には、
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・新羅、百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし倭が391年に海を渡り百済、加羅、新羅を破り、臣民となした。
・また『399年百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが『多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい』と願い出たので、大王は救援することにした。
・400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
・404年、倭が帯方地方に侵入してきたので、これを討って大敗させた。』とある。
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ここに記載の391年倭が百済新羅を征服したに対応するのは、古事記、日本書紀の『神功皇后は、朝鮮半島へ出兵し、新羅、百済及び高句麗を降伏させた』と記されていることから、神功皇后だろうか?また倭によって支配を受けていたことも明らかとなっており主従関係が存在しており、百済の王族は、倭によってその婚姻が決められており、基本的には百済王の后は倭人の中から選ばれ、その王子が王位に付くまでは人質として倭国に来ていたことがうかがえる。 |
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ソウルの北は高級住宅街と山が並ぶ |
百済の都は、漢江の南東にあった。現在も発展を遂げている。 |
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徳寿宮での衛兵の交代式 |
1395年創建された景福宮 |
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景福宮の美しい屋根と色彩 |
李氏朝鮮時代の歴史、史跡ばかりで、ソウルには百済の面影はなかった。、 |
その後、ソウルは、高句麗、新羅、高麗、李氏朝鮮が支配し、今は百済の遺跡はほとんど残っていない。 |
忠清南道熊津(ウンジン)時代、現在の公州市コンジュ475年〜538年
熊津(ウンジン)城と呼ばれた百済時代の城郭である。高麗時代以後は公山城と呼ばれ、朝鮮時代は双樹山城と呼ばれた。
475年王都漢城が高句麗によって滅ぼされた時、新羅に滞在していて難を逃れた文周(ムンジュ)王は都を熊津(現公州市、ソウルの南120Km)に遷都したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。また漢城が落とされるとすぐ倭王武(雄略天皇)が南宋に高句麗の無道を訴えたり、第24代東城(トンソン)王や第25代武寧(ムニョン)王が人質としての倭国から戻って王となると日本との関係が強化された。その武寧王は、南方に領土の拡大をはかり、一応王権が安定した。第26代聖明(ソン)王は、倭に仏教を伝えたように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。
一方、日本書紀によれば、『475年高句麗によって滅ぼされた百済は、477年に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って再興させた』とある。また山口県の大内氏は百済の聖明王の第3皇子である琳聖太子の後裔とも言われている。
ここ熊津は、周囲を山に囲まれ、北に白村江が流れるために防御には優れているが、生産性に劣っていたので、538年第26代聖明王は5代63年続いた熊津城から泗びの扶余城へ遷都した。 |
公山城は熊津(ウンジン)城である。
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海抜100mの稜線に位置する天然の要塞で、東西800m,南北400m。正午には城守兵交代式がある。現存する錦西楼で伝統衣装を貸してくれる。暑い |
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当時の服装をして |
王様と衛兵 |
旗は三足の烏が描かれている。高句麗と百済の建国のシンボルマーク。これと同じものが日本の八咫烏(やたがらす)や熊野神社、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている。このマークは、農業に必要な太陽の黒点を表現しているので あろう。 |
宋山里古墳群:武寧(ムニョン)王陵
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史跡第13号
百済第25代武寧王とお妃が合葬埋蔵されている。この王陵からは108種、906点余りの遺物が出土し、この中で12点が国宝に指定されている。 |
正面が6号墳、右が5号墳、奥が(武寧王)墳、その奥右に1〜4号墳
6号古墳の後山だと思われていたが、1971年5,6号古墳の濾水工事の為に掘ったところ、偶然武寧王古墳が発見された。未盗掘で完全にそのままで遺っていた。 |
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武寧王陵模型館
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武寧王陵及び5号、6号古墳を精密に実物大で再現した展示館です。
武寧王陵(462〜523年)は40歳で即位し、62歳で没している。民政の安定と国力の強化を図り、百済の国際的地位を高めた。その子聖明王の時に百済の全盛時代を迎えた。
日本書紀の雄略天皇紀5年(461年)の条に『百済の加須利君(かすりのきみ、後の第21代蓋鹵王)が弟の軍君(こにきし,後の昆技王)を倭国に派遣する際に、一婦人を与えた。一行が筑紫の加唐島まで来たところ、一児が生まれたので嶋君(せまきし)と名付けた。この嶋君が武寧王である』と記されている。(百済ロマンの旅より) |
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左は、王陵の羨道の入口に置かれた2枚の誌石。これによると王は523年5月7日に亡くなり、525年8月12日に王陵に安葬し、王妃は526年12月に亡くなり、529年2月12日に王陵に安葬されたと記録されている。これにより正確な年代が立証出来た。 |
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百済の文化、美術の水準の高さが伺える。
国宝154,155号王と王妃の金製冠装飾。国宝156号王の金製耳飾り。また梁の武帝から521年に冊封された時に贈られたと見られる環頭大刀も出てきた。 |
武寧王と妃の二つの棺は、高野山にしか自生しない”高野槇(コウヤマキ)”だと判定された。王の棺は倭国から送られたものだろうか?武寧王は日本で生まれ、育ったためだろうか?謎である! |
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玄室は東西2.72m、南北4.2m、高さ3.14mであり、長方形の平面にアーチ型の天井を有している。煉瓦はほとんどが蓮の模様が刻まれたものを使用している。王とお妃が合葬されていた。 |
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東西北の3壁には5つの灯が置かれている。 |
この煉瓦はお金の模様が刻まれているとの説明である。 |
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6号古墳:洞窟式煉瓦墓で、内部に漆喰を塗ってから、その上に青龍、白虎、朱雀、玄武の4神が描かれている。
第25代東城王か第27代聖明王の陵と推測されている。 |
国宝第161号青銅神獣鏡。4匹の動物と髪を結った半裸の神仙が狩りをしている姿が陽刻されている。 |
忠清南道泗び時代(扶余プヨ郡)538年〜660年
538年第26代聖明王は泗びの扶余城へ遷都した。最も絢爛な仏教文化を花咲かせた百済文化の最後の都である。
新羅との対立関係が続く中、倭国との同盟を強固にする政策を打ち出した。554年聖明王が新羅との戦いで戦死すると、百済は高句麗とも同盟を結び、新羅との対立が鮮明になった。そして倭国−百済−高句麗と新羅-唐の対立へと傾斜してゆく。
遷都の年に、百済から倭国に仏教が伝わる。その後僧侶や仏像、そして技術者が派遣される。威徳(イドク)王の阿左太子が聖徳太子の肖像画を描いたり日本の文化に多大な影響を及ぼした。現地のガイドブックには『扶余は飛鳥のふるさと』と書かれている。 |
国立扶余博物館
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便器と虎の子(小便) |
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左:昌王銘石造舎利龕 百済国宝第288号。
『百済昌王(第27代威徳王が567年に舎利を供養した』という内容が刻まれており、昌王の姉が亡き父である聖明王を偲んで作った王室の祈願寺であったことがわかる。聖明王は3万の軍を率いて新羅と戦ったが戦死し、昌王は寺を建立するなど、仏教によってその危機を乗り越えようとしたことがわかる
右:百済の蓮華文瓦当
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鳳凰
金製耳飾り |
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七支刀(しちしとう)
刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。
七支刀は4世紀末に百済王室が刀を製作して倭に与えたものである.この頃、百済は高句麗と競争しながら南へと領土を拡張しており、倭と友好関係にあった。(扶余博物館より)
また日本書紀には百済からの献上された七支刀が記載されている。 これとおぼしき物が奈良県天理市の石上神社に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられいる。この刀には『秦和4(369)年5月6日百済王は倭王(垂仁天皇または応仁天皇)の為に刀を作った。この刀の霊力を後世まで伝えて下さい』と刻まれている。
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国宝第287号百済金銅大香炉。
香を炊くのに用いたもので、蓋にある12個の穴から香の煙が出るようになっている。龍を形象化した台部と蓮弁により表現された胴部、そして幾重もの山並が表現された蓋部の32部からなり、蓋の上端には鳳凰が装飾されている。これは時代を超越した名品と評価されている。 |
金銀製装身具 |
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金銅観世音菩薩立像国宝293号
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扶余石槽:王宮で用いられた蓮池である。 |
東寺里石塔:高麗時代中期のもの。 |
ドラマ薯童謡(ソドンヨ)全55話 BS朝日 福岡放送 など日本でも放映された。大変面白く約1年間見たことが、百済への旅になった。
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薯童と善花(ソンファ)の説話をモチーフにした、百済の王と新羅の姫の運命の愛!
百済第26代聖明王が新羅遠征の帰路殺される場面からドラマは始り、朱蒙(チュモン)から続く百済の王家の血筋を引く王子チャンが、百済の公主との愛、そして第30代武王になるまでの恋と権力のし烈な争いのドラマである。皇后の死に際し、百済金銅大香炉を作りドラマは終わる。 |
扶余山城跡
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白馬江(白村江)の川下りで、扶余城跡を望む。
10万の倭国軍の遺体で真赤に染まったという。 |
落花岩
660年百済が新羅と唐の連合軍に攻め滅ぼされた時、宮殿にいた女官約3000人が奴隷として辱めを受けるよりはと、断崖から川に自ら身を投げた場所。その光景が花が落ちるように見えたので、命名された。 |
コラン寺
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扶余山の北、白馬江との崖の中腹にある。百済時代の尼寺の跡 |
ここから眺める白馬江は美しい |
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扶余の町並み。
中央が扶余山。白村江(はくすきのえ)今の白馬江が上中央から左下へ流れている。
町の南は平野が広がり、生産性の大きな大地である。都の周りには城壁をめぐらせ、町の北に王宮を作り、その北にある山に避難用の山城(扶余山城)を作り、高句麗が北から攻めてくるのを想定して備えた。しかも白馬江伝いに海へ出ることもできる地形である。
左:定林寺跡5重層石塔。町の中心地にあった寺院で、寺は6世紀半ばに建立された。 |
百済復興運動
倭国は、658年、,659年、660年の3回にわたり、阿倍比羅夫に船180艘を連ねて日本海側から奥州の蝦夷討伐をさせた。
660年7月18日唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。
百済滅亡を知った倭国では、百済復興を全面的に支援することを決定し、661年1月斉明天皇は筑紫国朝倉宮に遷った。7月ここで斉明天皇が病気で亡くなり、中大兄皇子は母の遺体を都まで運んだ後、即位の式もせずに、出兵の号令を出した。8月倭国に631年から人質として来て30年間滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる5000人の救援軍を派遣し、662年帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐の増援軍が到着し、663年8月23日倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだが、数で圧倒する倭国軍は1日足らずで大敗してしまった。蝦夷から集めた奴隷兵だったので、戦意に欠けていたのではないだろうか?または百済の貴族の救出作戦が主な目的だったのではないだろうか?
9月25日倭国は、亡命を希望する1万人とも言われる多くの百済貴族を船に乗せて出港した。豊璋は密かに高句麗に逃れたが、高句麗もまた668年に滅亡した。
平成天皇は68歳の誕生日を前に、日韓共催のワールドカップで韓国との交流がひろがることを語るなかで、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と語られました(2001年12月18日)。皇室が遠いむかしから百済王家と血縁をもっていたことは、『日本書紀』にも記されている。この報道は日本では余りされずに、韓国では大々的に報道されたようで、今回のガイド嬢が話してくれた。
山口県の大内氏は百済の聖明王の第3皇子である琳聖太子の後裔と称している。琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。とも言われている。
もし血縁関係がなければ、滅亡した百済を再興するために、亡国の危険を越えて援助することはなかったと思われる。また武寧王の棺も血縁関係があったから倭国が高野槇の棺を贈ったと思う。
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その後、唐と新羅から戦後交渉に来日した。そして日本は朝鮮式山城とヒフトを作り、防人を置くなど国防を強化すると共に内政に力を注いだ。さらに665年唐との関係を修復するために遣唐使を再開した。また遣新羅使を668年から776年まで31回送り、新羅の最新の文化を導入した。
1万人とも言われる百済からの渡来人は、奈良地方に住み、奈良時代以降の日本の政治や文化に大きな影響を与えた者も多い。一方最初はそれなりの地位を与えたられたが人民に降下させられ、関東に土地を与えて移民させたり、九州に移り住んだと言う話が残っている。
668年高句麗も唐により滅ぼされた。 |
韓国と言えば焼物。日本の焼物は、秀吉の朝鮮出兵による朝鮮からの陶工に負うところが大であった。
しか青磁は伝わらなかった。何故だろう?土と高温だろうか?
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そして余りにも綺麗なので思い切って購入しました。この透かしの技術に感心した。今回の韓国の思い出になった。 |
百済、日本の歴史 |