明 日 香 ・ 飛 鳥 

 九州から攻め登ったカムイワレヒコの尊は、和歌山から紀ノ川を遡って、奈良県に入り、畝傍(うねび)の橿原宮で即位した。それ以後の4代綏靖(いとく)天皇までは橿原の宮近辺にいたようであるが、以後肥沃な奈良盆地の中央へ、第14代仲哀天皇から大阪へそして第28代宣花天皇の時代に初めて大和盆地の南端である飛鳥に都を定めた。何故狭い僻地の飛鳥に都を定めたのであろうか?
 飛鳥時代とは、飛鳥に都があった時代を言う。第33代推古天皇が豊浦の宮を造った592年から、舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、弘文天皇、天武天皇、そして第41代持統天皇が都を飛鳥浄化御原から藤原宮へ移した694年までの103年間と言われている。
 103年間に飛鳥を離れて他の地に都があったのは、小墾田、百済、難波、近江、そして藤原京の5つの都城で、20年弱しか続かなかった。なぜ飛鳥を逃げ出さねばならなかったのであろうか?そしてまた5回(崇峻5(592)年倉梯から、舒明2(630)年小墾田から、皇極2(655)年百済から、斎明元(655)年難波から、天武元(672)年近江から)も飛鳥に都が戻って来たのだろうか?この短期間の遷都の意味するものは何であろうか?
 また、飛鳥をなぜ"あすか”と読むのであろうか?




蘇我稲目 28
宣化天皇
橘仲皇女
┿━
蘇我馬子
蘇我小姉君


















蘇我堅塩姫








29
欽明天皇















〓┫
┏蘇我倉麻呂 ┿蘇我蝦夷




┃┃┃┃
┯┃┃┃┃┃


┏32
崇峻天皇
┿穂穴部皇子 ┓穴穂部皇女



31
用明天皇
33
推古天皇
30
敏達天皇







〓〓





┃┃┃

蘇我入鹿




┃┃┃┃

┃┃┃┃┃女


刀自古朗女





















聖徳太子


34


 明
 天
 皇




中大兄皇子
┣━
3735
斎皇
明極
天天皇皇
┓36

徳天皇
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 第29代欽明天皇(きんめいてんのう=539〜571年)陵。
 全長140m、周濠を持ち明日香村で唯一の前方後円墳である。日本書紀によれば、 欽明天皇32年(571年4月15日に亡くなり、9月に檜隈板(ひのくまいた)合陵に埋葬されたとある。欽明天皇は馬子の姉と妹の二人と結婚したが、姉であり、推古天皇の母である堅塩姫(カタシヒメ)を612年に合葬したとある。
 欽明天皇12(552)年には、百済の聖明王の使者が仏像と経論数巻を献じた。蘇我稲目は崇拝を、物部氏は廃物を主張して争い、それぞれの子である蘇我馬子と物部守屋の代まで続いた。また欽明天皇の代は、任那が滅亡し、後に開花する飛鳥文化の源となる時代であった。
 欽明天皇には6人の后妃がおり、25人の子供がいた。死後、皇位継承をめぐり争いが生じるのは当然であった。30代には蘇我氏の血を引かない敏達天皇がなった。

橘寺
572年聖徳太子生誕の地。当時はここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があった。

二面石:飛鳥時代の石造物で人の心の善悪二相を表したもの 観音堂の如意輪観世音菩薩(藤原時代の作と言われている)
観音様が片膝を立てている!!びっくり

飛鳥寺

588年蘇我馬子が建設を始め、596年建立された高句麗様式の寺院である。
 飛鳥寺は第32代崇峻天皇元年(588)蘇我馬子が発願し、高句麗の援助を得て、第33代推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺であり、寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺とも呼ばれた。高い塔を3つの金堂が囲む高句麗様式の巨大なお寺であった。
 ところが、605年推古天皇は蘇我氏の作った仏像を退けて、新しく飛鳥大仏(釈迦如来座像)を鞍作鳥(止利仏師)に作ることを命じた。609年に完成した日本最古の仏像である。鞍作鳥は蘇我氏とも関係の深い東漢氏(やまとのあや)系の渡来氏族であった。これは蘇我氏の仏教から、天皇の仏教に、国家の仏教へと変わったことを意味する。624年には飛鳥寺には46カ寺もあった

 美術史では、仏教伝来から大化の改新まで(主に推古天皇)を飛鳥文化と呼び、大化の改新から710年平城京遷都まで(主に天武天皇、持統天皇)を白鳳文化と呼んでいる。飛鳥文化の仏像は、国際性豊かな渡来系の工人によって造られ,その主流を示したのは、飛鳥大仏、法隆寺金堂の釈迦三尊、夢殿の救世観音など止利式の仏像であった。止利式の仏像は北魏の系統をひき、正面性を備え、杏仁形の目、左右対称の衣の襞などに特徴がある。止利以外の仏像には、百済観音や広隆寺の菩薩半跏像などがある。

日本で最初に瓦を使用した建物である。
百済からの帰化人の作ったものであろう。
飛鳥寺の瓦と百済の瓦は良く似ている。



小墾田(おはりだの)宮
天皇の居住する大殿と公的儀式の場である南庭とから構成され、かなり恒久的な宮であったと推測される。

 死を忌み嫌う日本では、天皇の住んでいた宮殿に死者が帰ってくるのを恐れて焼かれるか壊された。倭国にはこの古い呪術的宗教が韓国や中国よりはるかに遅くまで残っていた。そのために7世紀の初めまで、都城は日本には作られなかった。
 推古天皇は、崇峻天皇殺害という、我が国唯一の現行天皇の殺害の実行者である蘇我馬子によって擁立された政権であり、我が国初の女帝であると言うことは、多くの臣民に不安を抱かせたであろう。よって天然の要塞である飛鳥とそこを根拠地とする蘇我氏とそれを支える帰化人の集団、東漢氏の力によって守ろうとするものであった。
 しかし摂政になった聖徳太子は、601年斑鳩に宮を定め、そこに中国や高句麗、百済、新羅に劣らない都を作り、天皇中心の律令政治を行おうとした。
 飛鳥から20kmも離れた斑鳩を選んだのは、蘇我氏の影響力の届かない地、そして飛鳥は辺境の地であり狭いので大きな都が作れない、やはり古くから天皇がいた奈良平野の中央を選んだと思う。でも毎日20Kmを通勤出来たのであろうか疑問である。
593年に豊浦宮で即位した推古天皇は、600年第1回遣隋使を、また新羅征討軍を派遣した。
603年推古天皇は、ここ小墾田宮に遷宮した。ここには隋からの使者を迎えるに十分な構造を備えていた。
603年12月に十二階の冠位が制定され、秦河勝が広隆寺造営に着手した。
604年4月には17条憲法が制定された。これらは後の大宝、養老律令制度の先駆をなしたと言われている。『厚く三宝を敬え』という憲法の条文を持つ仏教中心の政治を理想とした。
607年遣隋使を派遣し、法隆寺を建立する。
613年都から難波へ通じる道を開く。
622年聖徳太子没する。628年推古天皇没する。
642年皇極天皇(645〜654)が小懇田宮で即位する。

 石人像:男女が寄り添う姿を彫られているが、その顔立ちは異国人のようである。内部の足元から開けられた孔が途中二つに分かれ、それぞれの口につながっている。噴水施設としてのオブジェであろう。

607年法隆寺を建立する。

談山神社

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。 この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公天児屋根命の22代孫)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。

たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、 聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、 西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。

ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、645年大化の改新(公地公民、戸籍簿、班田収授の法、地方制度の整備)を行い、難波に遷都したり、、近江大津京遷都など 一生涯を国政に尽くしました。天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、 内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。 藤原の姓はここに始まります。

鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。


     日光東照宮造営の際のお手本となった。
   

6月1日から7月31日まで、「秘仏談峯如意輪観音像」のご開帳が行われていました、本年度は感染症流行収束を御祈念

 十三重塔
父の追福のために建立した。
現在の塔は1532年再建である。
   



蘇我氏
 応仁天皇の時代、本国の難を逃れて、百済から多くの学者や技術者がやって来た。その主な者が王仁(わに)、阿直岐(あちき)、阿知使主(あちのおみ)、弓月君(ゆずきのきみ)である。彼らは大和平野の端の山沿いの未開の地である明日香に住み着いた。そして明日香は5世紀末頃から、帰化人の侵入が著しく進んだ。仁徳天皇の死後、多くの皇子の間で後継者争いが起きた。この後継者争いに貢献したのが東漢(やまとのあや)の祖である帰化人であった。勢力を増してきた帰化人を統率したのが蘇我氏であった。6世紀前半の蘇我稲目は、大陸や半島の外来文化を積極的に取り入れて飛鳥地方の開発を本格的に進めてた。そして蘇我馬子の時代には天皇を凌ぐほどの力を持つようになり、その蘇我馬子が擁立したのが推古天皇であり、聖徳太子であった。だから推古天皇が即位すると都を飛鳥の地に遷都したのだろう。
 蘇我稲目は、蘇我高麗の子で4男3女の父であり、欽明天皇元年(540)年が即位すると大臣となり、娘の堅塩媛と小姉君を29代欽明天皇の妃とした。堅塩媛は七男六女を産み、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位している。小姉君は四男一女を産み、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位している。
 蘇我馬子は、敏達天皇の時に大臣となり、その後用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えたが、587年聖徳太子らと物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を即位させるが、592年蘇我馬子は東漢直駒を使い崇峻天皇を暗殺して、推古天皇を擁立し、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いたが、626年蘇我馬子は没した。馬子は、娘を32代崇峻天皇と34代舒明天皇と聖徳太子の妃とし、外戚となって権勢を振った。

後方は蘇我氏が住んでいた甘樫の丘
644年11月蘇我蝦夷と入鹿は、家を甘樫の丘に並べて建てた。甘樫の丘一帯を軍事要塞化し、それを守る主力部隊が漢直(あやのあたい)であった。
 蘇我氏の唐や百済、新羅、高句麗との協調路線が滅びると、中大兄皇子らは百済重視の路線へ進み、唐−新羅連合軍と白村江で戦い、大敗すると、唐の報復を恐れて防人、山城を作り防衛するようになった。
入鹿の首塚と言われる五輪塔。
645年6月12日板蓋宮で中大兄皇子と中臣鎌子(後の鎌足)らは、三韓(新羅、百済、高句麗)からの進貢の使者が来日した儀式の最中に入鹿を暗殺した。斬られた蘇我入鹿の首がここまで飛んできたと言われている。

 飛鳥は、大和盆地の南の端にあり、土地は狭く交通の便が悪い地になぜ再三にわたって都が作られたのであろうか?
@周囲が山に囲まれた軍事的な要地であり、防御には適した土地である。飛鳥は恒久的な都としてではなく、一時の都として考えられていたのではないだろうか?
A明日香の地は、帰化人のたくさん住む土地であり、その中でも新興貴族である蘇我氏と東漢氏(やまとのあや。後漢の霊帝【168−188年在位】の後裔で、漢から魏への政権交代時に、朝鮮の漢の領地である帯方郡に逃れたと言う。そして313年頃に帯方郡が北の高句麗と南の百済から攻められて滅びた時、その根拠地を失ったので一族は離散した。応仁天皇の御代に本国の乱を避けて7姓の漢人等を率いて帰化するとある。坂上田村麻呂の6代祖と言われている)の根拠地である。時の天皇は、蘇我氏の権力とその裏方の東漢氏の力を借りて政治の安定を図ろうとしたのであろう。
 このように東アジアを数世紀にわたって流浪する民族がいた。彼らは高い文化と技術を身に着けた誇りある貴族の末裔であったに違いない。古くは呉の国(紀元前585年〜473年)が越にそして秦に滅ぼされた紀元前221に長江下流から直接倭国へやって来た。また秦の始皇帝の時の徐福伝説もある。東漢氏のように後漢(25−220年)が滅びて朝鮮半島を経由して倭国へ来た集団もいた。また三国時代の魏は265年、呉は280年、蜀は263年に晋に滅ぼされた。中国の王族は滅ぼされた世の中では志を得ず、安息の土地を求めて放浪し、倭国にやって来た。後漢の霊帝の時は魏志の倭人伝に『倭国大いに乱れる』とある。これは神武東征の話か?それとも北九州連合と出雲、大和勢力の戦いであると思われる。長江流域から来た呉の国の人々が日本征服を終えようとしていた時に、再び別の勢力が日本へ渡来して来た。稲作と強力な武器を持った集団が、狩猟を営んでいた縄文人を征服して、または混血して倭国を作り、東アジアで最も強力な国家にした。
 帰化人(渡来人)は高い知能と技術を持っていたので、貴重な扱いを受けていた。三韓からの貢物が多くなると朝廷は国の財を管理するために帳簿を使い始めた。また478年には倭王武(雄略帝)が宋の順帝に送った上表文が残っているが、これは実に堂々とした漢文である。おそらく阿知使主や王仁、そして東漢氏の文書能力によるものであろう。巨大な古墳もまた帰化人の技術であろう。
 645年6月12日蘇我入鹿を暗殺し、無血革命を成功させたのは、蘇我蝦夷が最も信頼していた東漢氏の寝返りがあったからである。

石舞台
我が国最大級の石室を持つ方形墳。蘇我馬子の墓と言われている。

 方墳である。石室が露呈しているが、人為的に露出されたのではないだろうか?墓を暴くことは、死者に対する侮蔑と共に、子孫に対する最大の冒とくである。しかし馬子の墓をあばき、その石棺を壊すことは、帰化人の思想では積年の恨み晴らすことになったのだろうか?
または、蘇我氏と聖徳太子の一族は中大兄皇子と藤原鎌足によって滅ぼされた。祀り手のない怨霊である。後世の人が祟りを恐れ、怨霊を鎮めるために巨石を重ねて封じ込めて祀ったのではないだろうか?天満宮と同じではないのだのだろうか?

622年聖徳太子没す。
626年蘇我馬子没す。
628年推古天皇没す。
 この三人の死によって政局は大きく変わる。山背大兄皇子が皇位につくと思われていたが、蘇我入鹿はかたくなな理想主義者である山背大兄皇子(聖徳太子の子)は受け入れられず、蘇我氏と血の繋がりのない舒明天皇を即位させた。ところが舒明天皇は蘇我入鹿の意志どおりにはならず、また舒明天皇の妻は蘇我氏と血の繋がりのない後の皇極天皇であり、二人の間の中大兄皇子こそ恐るべき男であった。

 蘇我氏の名前は、馬子、入鹿いるか、蝦夷えみし、赤兄あかえ、など異常な、そして動物の名前、蔑視か、まるで獣に類する名前である。敏達天皇の時に大臣に任命され、馬子の姉妹、娘、孫は沢山天皇に嫁いでおり、朝廷をも凌ぐ権力者が、つける名前ではあり得ない。では誰が名づけたのであろうか?朝鮮系渡来人だからだろうか?それとも大化の改新で殺された悪者として後世に名づけられたのであろうか?



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』持統天皇http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87


岡寺
663年天智天皇2年草壁の皇子が住んでいた所を下賜された。
本尊如意輪観音像は我が国最大の塑像で、如意輪観音像としては最古の作品である。



飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡
飛鳥の宮殿は天皇の代度にその位置を変えていたが、舒明天皇以降はその場所は、伝飛鳥板葺宮跡の地域に固定されていたようだ。
しかし狭くなり、藤原京、平城京へと発展してゆく。草ぶきの屋根から板ぶきの屋根に代わったのでこのように呼ばれた。瓦は未だ使われていなかった。
630年舒明天皇は、飛鳥岡本宮(伝飛鳥板蓋宮跡1期)に遷都する。これは舒明天皇が、聖徳太子の権力の影を離れて蘇我氏の権力の下で安定した政治を行おうとしたのだろうか?しかし舒明天皇と蘇我入鹿との間に感情的反発が生じる。そして636年宮が焼失すると、田中宮、百済宮へと遷都し蘇我氏からだんだんと離れて行った。
642年皇極天皇(645〜654)が小懇田宮で即位し、643年飛鳥板蓋宮を再建し遷都する。未亡人である皇極天皇は入鹿と相愛関係にあったので、入鹿の意思に押されて飛鳥板蓋宮に遷都をし、また入鹿の専横が目立つようになる。
643年11月蘇我入鹿は斑鳩に皇極政権を脅かす山背大兄王を襲撃し聖徳太子一族を皆殺しにした。この蘇我氏の仲間割れが蘇我政権の崩壊に繋がって行く。
645年6月12日板蓋宮で中大兄皇子と中臣鎌子(後の鎌足)らは、三韓(新羅、百済、高句麗)からの進貢の使者が来日した儀式の最中に入鹿を暗殺する。
645年皇極天皇は譲位し孝徳天皇が即位し、難波宮に遷都し、大化の改新を実施する。
655年斉明天皇(皇極天皇)は飛鳥板蓋宮で再び即位するが、宮は1年で焼失する。656年に後飛鳥岡本宮(伝飛鳥板蓋宮跡)に遷都する。
658年阿部比羅夫(阿倍仲麻呂の父)が水軍180艘を率いて蝦夷征伐を行う。
660年唐と新羅連合軍によって百済が滅ぼされ、倭国は、日本に人質として来ていた百済の皇子豊璋(ほうしょう)を王に即位させ、百済へ援軍と共に送り帰した。
661年斉明天皇は、新羅進攻の為に筑紫に朝倉宮を置き、そこで没する。
663年中大兄皇子は2万7千の兵を百済に送るが、唐新羅連合軍に惨敗する。対馬から大和まで山城を築き、唐新羅の復讐を恐れた。
667年近江大津宮に遷都し、天智天皇は668年即位する。
673年天智天皇が死ぬと、壬申の乱が起こり、天武天皇は飛鳥に帰り、浄御原宮(伝飛鳥板蓋宮跡)で即位する。
694年持統天皇は藤原宮へ遷都する。
710年元明天皇は平城京へ遷都する。


 大化の改新後は、都を難波、近江へと一時事的には遷るが、舒明天皇以後は、飛鳥寺の南の伝飛鳥板蓋宮跡の地域に固定された。天武、持統両天皇による飛鳥浄御原令と文武天皇による大宝律令の施行によって、天皇中心の律令国家体制が出来上がった。律令制度が整ってくると、中国の隋や唐の都を見ながら大極殿や官舎の造営、道路の整備など古代都市が徐々に整備拡大されて行った。
 飛鳥文化は、中国の南北朝文化を朝鮮半島経由で受容したものであり、仏教文化をはじめ、学術、技術など多方面への影響が認められている。また七世紀後半(大化の改新以降)の文化を白鳳文化と呼んでいる。これは遣隋使や遣唐使によって伝えられた隋、唐の文化的影響が強く表れている。この時期には百済や高句麗の滅亡による亡命者の渡来が増加し、律令国家に大きな役割を果たした。
伝板蓋宮跡:第35代皇極天皇の宮跡で大化の改新の舞台となったところ。
上層部は天武天皇の飛鳥浄御原宮跡の可能性が強くなった

     酒船石遺跡
 斉明天皇のころ、祭祀に使われた場所であろう。敷石された空間には、湧水施設から水を小判形石造物、亀形石造物へと流していく構造である。
万葉集。 奈良県立万葉文化館
酒船石
 祭祀として用いられたものだろうか?いけにえの台であり、動物の首や胴を乗せて、その血を取ったのであろうか?または酒を造る?油を搾るためであろうか?

         飛鳥水落遺跡跡
  斉明天皇6年(660年)5月、中大兄皇子は日本で初めての水時計を作って人々に時刻を知らせたと『日本書紀』に書かれている。ここでは精密に堅固に築いた水時計建物と、建物内の中央で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置とが見つかった。
 当時の日本は、中国の先進文化を積極的に取り入れて、律令制に基ずく中央集権的な国家体制を急速に整えつつあった。
また石神遺跡は、斉明朝の時代に外国使節をもてなし、服属儀礼や饗宴を行う飛鳥の迎賓館があった。

683(天武12)年に造られた富本銭。
飛鳥池遺跡から発掘された和同開珎より古い最古の鋳造貨幣
            飛鳥池木簡
『天皇』と記載された最古の木簡が発見され、天武天皇の時代には天皇と呼ばれていたことが証明できた(発掘された飛鳥、明日香村より)

     薬師寺:
 680年持統天皇の病気祈願により天武天皇により発願し、697年持統天皇によって本尊開眼した。更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見た。その後、平城遷都(710)に伴い、718年現在地に移された。
 蘇我氏の仏教から逃げ出すためにも、また天智天皇と持統天皇との間の皇子にのみ皇位継承権を確保するために、仏の加護を与える新しい寺が必要であったと思う。



終末期古墳群

前方後円墳の築造は6世紀後半に一斉に停止される。欽明天皇が最終とされている。その後は一辺が30〜60mの方墳や円墳に変化してくる。しかし古墳築造は実は8世紀初頭にまで及んでいた。646年の大化薄葬令や大宝律令の施行や平城京遷都によって古墳は完全に姿を消してゆく。

 吉備姫王(きびひめのみこの)墓と猿石と呼ばれる4体の石造物
36代孝徳天皇と35代皇極(37代斉明)天皇の生母にあたる。

高松塚壁画館
694〜710年に築造された終末期古墳。この付近は帰化人(渡来人)が多く住んでいたところでした。
着物は左前に着ている。

衣干したり 天の香具山


一巻二八持統天皇
春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 
 天武天皇、持統天皇陵。壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた第40代天武天皇と、その皇后で次に即位し、天皇として初めて火葬された持統天皇(第41代)が合葬されている御陵である。墳丘は東西58m,南北45m,高さ9mの円墳である。      万葉集



古代石造物:暴かれた古墳ではないだろうか?
亀石:巨大な古墳の蓋石だろうか。

鬼の雪隠:これは墳丘土を失った終末期古墳(7世紀後半、飛鳥時代)の石室の一部である。本来は鬼の俎板(まないた)から蓋石が横転したものだろうと言われている。 鬼の俎板:花崗岩の巨石を精巧に加工した底石、蓋石、扉石の3個の石を組合せた石室の底石の部分である。大化の改新以後に子孫の罪によって、石棺が露呈され、底石と蓋石が離れ離れにされたのだろう?鬼とは亡霊を連想する。

八釣マキト五号墳:明日香村大字八釣に広がる古墳群のうちマキト支群の5基は6世紀中ごろから7世紀全般にかけて次々に作られた横穴式石室墳。5号墳はその中で最も大きな墳丘k2mの円墳で、6世紀の後半に築かれたものです。

 日本人は3世紀から8世紀初頭まで古墳を作ってきた。王の最大の仕事は前代の王の墓を造ることであった。これは権力の示威であり、不死の観念があった。いつかはまた生き返るという再生を願って古墳が作られたのであった。
 しかし、再生の思想は仏教によって否定された。仏教では、すべての人間は無に帰する。また浄土教では死後極楽浄土へ行くと説く。巨大な古墳に屍を保存するのは無用なことであり、仏教は古墳を終息させたのである。



 古墳時代から我が国に移住してきた多くの渡来人たちが、さすらいの果てに得た安住の地『安宿』が転じて"あすか"となったと言われている。古代朝鮮語意味するスカに、接頭語のアがついて出来たという。その枕ことばである『飛鳥』も”あすか”と読ませることになったと言われている。中国の呉の国から逃げて来たニニギの尊(大和朝廷先祖)は、中国や韓国から攻められるのを恐れて、大和盆地へ都を置いたのであろう。後から来た朝鮮経由の帰化人は、大和盆地の南の隅である明日香に住んでいた。そこで力を得たのが蘇我氏と東漢氏であった。不安定な政権を持つ天皇は、蘇我氏と東漢氏の力によって政権を安定させようとして飛鳥に都を5回も移した。また、蘇我氏の力から逃れ、真の律令制にふさわしい都作りをするために、都を飛鳥から他の土地へ5回も移した。
 603年聖徳太子は、馬子の政治でなく太子の政治を行おうと小墾田へ遷都をし、随や三韓並の恒久的な都を建設しようとした。640年舒明天皇も蘇我氏の圧力から逃れるために百済宮を建設し、恒久的な都城の建設を目指した。645年蘇我氏が滅亡した後の孝徳天皇も蘇我氏や聖徳太子の影のない新しい恒久的な都城を目指して難波宮を建設しようとした。667年天智天皇の近江への遷都は、唐と新羅連合軍の侵入を恐れてまた蘇我氏と東漢氏の影のさしている飛鳥を離れて新しい政治を始めようとした。694年の持統天皇の藤原遷都も律令制の実現のためであり、随なみの近代国家にするためであった。この飛鳥時代の103年間に、政権を安定するために飛鳥に都を5回定め、また律令制を実行するために5回飛鳥を離れる相反する動きが繰り返された。
 このような飛鳥時代の中で、蘇我氏と藤原氏の二つの豪族が歴史の動きを変えた。聖徳太子と蘇我氏は理想を追い過ぎてまた直接手を下して失敗した。一方天智天皇、天武天皇と藤原氏は律令国家が作られると共に彼らの子孫は末長く日本を支配した。東漢氏の子孫は坂上田村麻呂の功で平安時代半ばまで続いた。
 飛鳥とは歴史の裏に帰化人が活躍し、政治革新を行おうとすれば飛鳥から逃れなければならぬ矛盾を含んだ時代であり、また仏教は人を殺してはならない、殺生をしてはならないことが根本思想であるが、政治は、戦いもせねばならないのが基本である。よって宗教と政治との間に存在する矛盾に苦しんだ人(聖徳太子、蘇我氏など)がいた時代でもあった。山背大兄皇子は僧であったなら立派な死であるが、政治家としてはまさに失格でる。聖徳太子においても、国家と仏教は矛盾に満ちた関係であり、その矛盾が一族の滅亡に至ったではなかろうか?聖徳太子一族の怨霊を鎮めるために法隆寺が建立されたのではないだろうか?天満宮と同じではないだろうか?
飛鳥時代の年表 御陵参拝案内 天皇と宮 高校日本史ノート
古代史(日本人のルーツを訪ねて
呉服の国 蘇州神話の国 出雲吉野ケ里渡来弥生人説 土井ケ浜魏志の倭人伝対馬壱岐末盧国伊都国奴国天孫降臨薩摩天孫降臨高千穂日向1日向2神武東征隼人熊襲八幡宮百済飛鳥朝倉宮一の宮