呉服のルーツを訪ねて 蘇 州
 呉服とは、国語辞典によれば、(1)和服用の織物の総称。特に、絹織物をさすこともある。(2)中国、呉の国から日本に伝わった織り方によって作った織物。くれはとり(上代、中国の呉から渡来したと言われる織工。呉の織女の織る綾の意)。と記載されている。それでは呉の国とはどのような国だろうか?我々日本人は、呉の国の服(呉服)を着て、漢の国の字(漢字440年ころ伝わる))を使い、cha(茶)を飲んでいるが、我々の祖先はどこから来たのだろうか?
 呉とは、中国の江蘇省の長江(揚子江)以南の地方を言い、中国歴史上、呉の国は2度君主国家となった。呉の人々は戦災や敗戦の混乱を避けるために2,600〜2,400年前と1,800〜1,700年前の2波にわたりに大挙日本に渡来して来た。呉の国からの渡来人が織物を伝え、広がり、倭の国に住む縄文人を征服し、現在の日本人になった。呉の国の服が呉服、倭の国の服が倭服⇒明治になり洋服に対して和服となった。
呉は、周の古公亶父(ここうたんぽ)の長子太白と次子虞仲(ぐちょく)により紀元前12世紀に長江流域に建国され、国号を句呉(後に呉)と称した。
 @は、周の滅亡後、紀元前585年〜473年春秋時代に存在した国で、6代王闔閭(こうりょ)が現在の蘇州に都を置き長江付近を支配し、中国最強の国となり、繁栄した。しかし隣国の越により滅ぼされた。以後戦国時代を経て、紀元前221年秦により中国全土が統一された。
 紀元前6、5世紀に鉄器時代が始まったと言われるが、当時の製鉄技術では、農具などには使われたものの武器に使える強度では無かった。呉や越が強かった理由は、呉越地方で鉄製の剣や矛が作られ威力を発揮したからと云われている。また呉軍には兵法で有名な孫子(彼を知り己を知れば百戦殆うからず 。その疾きことの如く、その徐かなることの如く、侵掠することの如く、動かざることの如し等、、)がいた。
 この時代は、諸家百家と言われた数々の思想家が輩出した。中でも儒家思想を樹立した孔子(紀元前551〜479年)、孔子の思想を集めた論語が編纂され、その根本思想である『仁(思いやりの心)』は、国家権力と結合して我々日本人にも普及し、心に定着した。呉の人々の武を重んじる気風から、儒教や道鏡の精神が文教重視に変化し、学問教養を育む気風に変わっていった。またこの時代に呉の国には、世界遺産になっている美しい庭園がたくさん出来た。また米、絹織物や刺繍等が大量に生産された。
 臥薪嘗胆呉の6代王闔閭が越に殺された後、闔閭の子、夫差は薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。そして夫差は越に攻め込み越王勾践を討つ。許されて越に帰国した越王勾践は苦い胆を嘗めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。そして越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。この故事から生まれた、復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味を持つ。
 『呉越同舟』は呉と越の激しいライバル争いから生まれた言葉。

 Aもう一つの呉の国は、後漢が滅びた後、222年〜280年三国時代(魏、呉、蜀)に存在した長江(揚子江)流域の国で、首都は建業(今の南京付近)を都とした。この時代に仏教が伝来して民衆に普及した。蔡倫による製紙技術が改良され、文学書物が伝播された。しかし279年晋は30万の大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の兵士たちは残虐な孫晧を見切り戦わずして晋に下るものも多く、翌280年3月に建業を包囲されて孫晧は降伏、呉は滅亡した。この呉の国の人々が大勢日本へ渡来したと言われている。
春秋時代に蘇州、南京周辺を支配していた呉と隣国の越

  日本人のルーツ
 新人類(ホモサピエンス)は世界中へ広がり、4〜3万年前に日本列島にやって来た。縄文時代(1万年から紀元前4世紀頃)には、現在の日本の地形が形成され、温暖多湿なモンスーン気候が日本をおおった。縄文人は農耕や放牧を持たない採集経済のもとで定住生活を送っていた。縄文人が住む倭国(大宝律令施行直前の701年に国号が倭・倭国から日本へ改められた。新唐書旧唐書に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という記述がある。)へ大陸から東シナ海ルートと朝鮮ルートを通って、渡来系弥生人が九州北部に渡って来た。弥生人は日本各地に広がり縄文人と戦いまた一部は混血していった。(倭国大乱、蝦夷征伐、熊襲征伐、隼人征伐、アメリカインデアン、インカ帝国など殆が戦いによる縄文人の死亡で集結している)
@紀元前585年〜473年蘇州に都を置いて繁栄を極めた呉は、隣国の越により滅ぼされた。当時のルールでは、敗戦民は殺されるか奴隷にされた。また世は春秋戦国時代であり、呉の人々は、混乱と戦災を避けて縄文時代の終わり、約2600年前頃より、倭の国に渡って来た。考古学的調査により、彼らが最初に水稲と金属器、絹や綿製品も持ち込んたことが確認されている。
A222年〜280年長江(揚子江)流域の建業(今の南京付近)に都を置いた呉は、晋の30万の大軍により包囲され、滅亡した。この呉の国の人々が大勢日本へ渡来し、稲作と鉄器、織物を伝えた第2波であった。
  季節風が夏には中国から日本へと吹いている。呉の人達は、この季節風を利用して、また黒潮、対馬海流(7.2Km/h)に乗って、北九州や山口県に容易に辿り着くことが出来た。
 渡来人は、大和王国作りを助け、大化の改新後は縄文人である『蝦夷』征伐、熊襲征伐などを繰りかえし、滅ぼして行く。渡来系弥生人の影響が少なかった北海道と沖縄では、それぞれアイヌと琉球人が縄文人の姿形を色濃く残しながら、独自の文化を築き、その結果、いま、日本列島には、アイヌ・本土人・琉球人という三つの民族集団が住んでいる。

日本沿海の海流
 反日感情の激しい上海と蘇州へ2006年5月3日〜5日まで着物で訪ねた。着物姿は誰一人見なかった。現地の人々からは『その着物は100万円するのでしょう。』と尋ねられる。中国では、着物は100万円と言うのが通説となっているようでしたが、何故100万円?誰が教えたのだろうか?不思議だ!
 水の都蘇州(すうそう)は、最も早期の名称は『呉』と呼ばれて、この土地を呉地、人を呉人と呼ばれていた。 紀元前514年に呉王闔閭(こうりょ)が周囲25Kmの城壁を築いて都としたことに始まる。589年隋により『蘇州』と、1113年には『平江府』と改称された。宋代(960〜1278年)には刺しゅうと錦織も発達した。元代(1279〜1367年)にはマルコポーロがここを訪れ、その美しさを絶賛している。そして明代(1368〜1662年)には100万都市として世界有数の都市になった。
 緯度は鹿児島市とほぼ同じで暖かく、西には太湖が豊な水をたたえ、北には中国の大河長江が東へと流れている。町は外城河という運河に囲まれ、いたるところに細かい運河が網の目のように走っている。その運河の上には眼鏡の形をした太鼓橋がかかり、その下を荷物を積んだ小船が行き来している。その美しさは東洋のベニスと称えれている。古来より『蘇湖熟、天下足(蘇州や湖州の作物が豊なら、中国全土の食料をまかなえる)』とか、『天有天堂、下有蘇杭州(天上には極楽が有るが、地には蘇州と杭州がある)』と称えられてきた。
 稲作は中国の長江中、下流域で1万1千年前に栽培が始まった。日本には2500年前に蘇州(中国中南部)から直接渡来したと言う説が最近のDNA研究で確認されている。
 また絹織物と刺繍が盛んである。中国では5千年以上前に既に蚕を利用し始めている。夏の時代には既に絹製や麻製の衣装が作られ、朱砂が染料として用いられていた。@呉の時代には、紡績は社会の主要な生産様式に留まらず、国家への納税品(銭納から絹納)となっていた。この時代の刺繍、織のレベルはかなり高いものになっていた。Aの呉の時代は、絹の生産量は著しく増加し、種類も多様化し、色彩も豊で絹織物はこの時代にほぼ完成された。蘇州刺繍の発祥は2千数百年前の呉の時代から作られている。
遣唐使航路

福岡〜上海800Km飛行機では1時間20分


 蘇州の庭園の歴史を辿れば、2500年前呉王夫差が越の勾践から献上された美女西施の為に、離宮を建てた時代にまで遡る。蘇州はその豊な経済力を背景に造園建築も大いに発展し、特に明清時代には今の上海のように中国経済の中心となり、造園は最隆盛期を迎えた。清朝末期には庭園は200余りもあったと言われる。それ以降の混乱、文化大革命で多くの古典庭園は荒廃したが、1980年代以降徐々に復元整備された。現在世界文化遺産に登録されている庭園は9カ所ある。中国国内の庭園は多かれ少なかれ蘇州の庭園を模している。

拙政園(せっせいえん)中国4大庭園の1つ、世界文化遺産でもある。
16世紀中央高官であった王献臣が失脚後造営した庭園で、『拙者之為政(愚か者が政治を行っている)』から命名したと言う。
日本の名庭園は、殿様の庭園が残っているが、私庭園などない。中国の役人は高給かまたは贈収賄が多いのか?
面積5ha、東園、中園、西園からなり、水がテーマになっている。敷地の3/5が池や堀である。
 蘇州の庭園は私家庭園であるが為に、有限の空間を利用し、また住居と融合させた造園築造を心掛けている。
蘇州の庭園の特徴は何だろうか?

1.変化の妙
 歩く毎に異なる風景が見られる。

2.精巧な設計
 庭園のどこに佇もうと、1幅の絵画を眺めるような構図になっている。

3.味わいの情趣
 世俗を離れ、自然と癒合した朝夕、月夜、晴天雨天、四季折々それぞれの良さを味わえる。
庭園内はいくつもの回廊や壁で区切られている。



盤門
蘇州で唯一残っている古い城門。蘇州城が出来たのは紀元前514年だが、現存するものは1351年再建されたもの。
堅固な城壁と運河を組合わせた独特の城門。
運河にかかる眼鏡の形をした太鼓橋の上から呉門橋と瑞光寺
城門から見る蘇州の風景
水の都と言われる


盤門
        虎丘
 越に殺された呉の6代王闔閭(こうりょ)の墓稜葬儀の3日後に白い虎が現れて墓の上にうずくまったので、虎丘と呼ばれるようになった。
 虎丘の上には、高さ47mの八角七層の斜塔がある。961年に完成した。地盤沈下のために傾き始め、現在では15度傾いている。



寒山寺
唐時代の627〜649年寒山と拾得という二人の僧侶が住むようになって寒山寺と呼ばれるようになった。

張継が詩『楓橋夜泊』を作ったのはこの運河の向いの宿。
高校1年で習った
  月落烏啼霜満天 江楓漁火對愁眠 
  姑蘇城外寒山寺 夜半鐘聲到客船
はあまりに有名である。
姑蘇は蘇州の雅号として、歴代の詩人によく詠まれた。

現代の中国の漢字は省略され過ぎており、日本人には読めない。
例えば『橋』は禾へんに天と書く。『業』は上半分である。
『岡』は中がメである。『築』は木がない。

 空海(774〜835)は第16次遣唐使で804年5月12日難波津を出航し、博多で最澄(767〜822年。前年803年に第16次遣唐使船で出航したが、難破し、北九州に留まっていた)を乗せて、共に唐へ向った。同じ遣唐使一行には、最澄や後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はといえば全く無名の一沙門で、一私度僧として留学期間20年の予定で唐に渡った。
 この年の7月6日肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海が乗船したのは遣唐大使の乗る第一船、最澄は第二船である。この入唐船団の第三船、第四船は遭難し、唐にたどり着いたのは第一船と第二船のみであった。
 空海の乗った船は途中嵐にあい大きく航路を逸れて804年8月10日福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆したことは有名である。11月3日長安(今の西安)入りを許され、以後あらゆる辛酸を舐めながらも空海達一行が長安に入ったのは、12月23日であった。
 805年2月より西明寺に入り滞在。ここが空海の長安での住居となった。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
日本人の多くの寄付により再建された5重塔 寒山寺へも立ち寄ったとされる空海の像
 805年2月に最澄は帰国しているが、空海は、5月に密教の第七祖である唐長安青龍寺恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる。
 806年3月、長安を出発し、4月越州に到り4ヶ月滞在、ここでも土木技術や薬学を初めあらゆることを学び、経典等を蒐集。8月、明州を出航して帰国の途についた。10月に太宰府に無事帰国した。この船に乗れなかったら、空海の死亡した835年まで遣唐使船(第19回遣唐使は839年で以後は中止となった)は来なかったので、日本へ帰ることは出来なかった。
 唐招提寺を作った鑑真和尚(688〜763年)の像もここにある。鑑真はこの近くの生まれとのこと。
 私の好きな讃岐の手打ちうどん(男の料理を作るために讃岐のうどん学校へ行ってHPを作った)は、弘法大師が唐からもたらしたと言われている。呉ではワンタンの事を『饂飩』と書いて『うんどん』と発音することから、『うどん』と呼ばれるようになった。小麦は7千年前メソポタミアで栽培が始まり、前漢(紀元前1世紀)時代に中国に伝わった。中国原産の小麦による餅が、食べ易く改良されて生まれたとされる麺が、アジア各地に広がり、日本では『うどん』となり、またシルクロードを通ってヨーロッパへ伝播されるとパスタ(細長いのがスパゲッティー、短いのがマカロニー)となった。中国のラーメン(拉麺)は米の生産ができない華北地方で多く食べられており、日本では明治時代に神戸や横浜の中華街で作られて『支那そば、中華そば』と呼べれていた。1958年『日清チキンラーメン』が発売されヒットしてから『ラーメン』と一般的に呼ばれるようになった。

住職の筆による張継の詩『楓橋夜泊』を購入した。1幅5万円



                絹織物工場ではエルメスのネクタイが5000円、安い!購入した。
 222年〜280年三国時代の呉では、10数種類の絹織物、色彩豊で、デザインも複雑かつ美しい絹織物が完成した。
 シルクロードは、中国と地中海の間の歴史的な交易路を指す。19世紀のドイツの地理学者が『Seidenstrassen』と呼んだのが最初である。長安とローマの間の交易路を『絹』に象徴させて呼んだものであり、その由来は、中国で生産される絹は、他の地域では長らく生産されることがなく、遠くローマ帝国でも貴重な奢多品として渇望され、遠隔地貿易の対象になったためである。このシルクロードを通って、絹、陶磁器、絵画が、また仏教や文化などが伝播された。



上海博物館
1996年に新築移転した、外観は最上部に円盤を頂き、下部がの形状を模している。さらに、一見『取っ手』のような半円形の構造物が最上部に弧を上、弦を下に東西南北に設置され、博物館の外観が青銅器を象ったものである。

北魏時代の石仏が沢山集められている。照明設備も素晴らしい。

         3階の中国歴代の璽(じ)印館:
 印鑑に施された彫刻の模様の精巧さ、材質の美しさ、彫られた文字の造形美が鑑賞出来る。古いものは3000年以上も前のものもある。
 後漢書に記されている「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の『漢委奴国王』の金印と同じようなものが沢山展示されてある。
 紀元25年統一した後漢の武帝は、異民族の王にも官位と印綬を与えることによって皇帝を頂点とする官職の証とした印章制度を作り、外交政策をした。『漢書』などによると漢の印綬制度では印の材質では上から順に玉、金、銀、銅とある。諸侯王は内臣の場合は金璽綟綬が授けられるが、外臣で王号を持つものは金印紫綬となる。
4階中国少数民族工芸館の服装


豫園
1559年に着工し1577年に完成した5万uの、布政使という役人だった藩允端の私庭園である。

       『豫悦老親』(老いた親を悦こばす)に由来する。
 布政使という役人だった藩允端が、故郷を懐かしむ両親の為に築いた庭園。
その後1842年イギリス軍、1860年太平天国軍の軍事拠点として、
創建当時の面影が失われたが、中華人民共和国成立後の1956年
ようやく修復された。

ここでも和服を着ていると現地人から『一緒に写真を』との依頼を受ける。



上海
清朝とイギリスとの間でアヘン禁輸を巡って勃発したアヘン戦争は、近代兵器を装備したイギリス軍の圧勝に終わり、その結果1842年締結された南京条約によって、上海は外国に開放されることになった。上海の歴史は南京条約以降の新しい都市である。世界で一番発展の著しい都市でもある。
四川料理店での夕食 豫園一帯は人人人、賑やかだ。

 お茶の原産地は、中国南部とされている。唐の時代に、陸羽の書いた『茶経』が著され、お茶の生産が盛んになり、主に緑茶が飲まれていた。
 お茶の種類は、@酵素を失活させて酸化を防ぎ固有の緑色を保たせた緑茶、A茶葉のもつ酵素の働きにより発酵した紅茶、Bその中間型の半発酵茶であるウーロン茶に分類される。@緑茶は、茶園から摘み取った葉を速やかに加熱し、酸化酵素を失活させて、茶葉中の各種成分の酸化を防ぎ、製造したお茶を指し、加熱に蒸気を使う煎茶や玉露、番茶などの蒸し製緑茶(日本式)と釜で炒る釜炒り製緑茶(主に中国式)に分けられる。緑茶は、全体の茶生産量の約20%程度で、中国では全生産量の75%が、日本ではほぼ100%が緑茶です。またジャスミン茶は19世紀末に釜炒茶の香味を改善する目的で作られた。B半発酵の鵜龍茶は18世紀に福建省で生まれ、中国茶の5%を占めるが、日本へはその60%が輸出されている。
 世界でお茶を意味する言葉は、中国語の広東語では『チャ(cha)』、福建省(ミン南語)では『テー(tei)』に由来する。『チャ(cha)』の発音は陸路又は大航海時代以前に海路で伝搬したもので、日本語、韓国語、ベトナム語、タイ語、チベット語、ネパール語、トルコ語、アラビヤ語、ギリシャ語、ブルガリア語、ロシア語等になっている⇒チャロード。一方『ティー(tei)』はオランダからお茶を輸入した国々で、オランダ語(thee)、英語(tea)、ドイツ語(tee)、フランス語(the)、スペイン語(te)、イタリア語(te)、デンマーク語、ノルーウエイ語、インドネシア語等になっている⇒ティーロード
 ヨーロッパにお茶が伝わったのは、東インド会社(オランダ、イギリス、フランス、スエーデン、デンマーク)により福建省のティー(tei)として16〜17世紀に伝わった。18世紀には紅茶が広く愛用され、午後の喫茶の習慣が起こった。
お茶博物館にて、色々なお茶の煎れ方を実践してくれる。
お茶は、遣隋使や遣唐使が日本にもたらした。茶の栽培は、栄西(1141〜1215年)が中国からお茶の苗木を持ち帰ったのが最初だと言われている。茶の湯は明治時代に茶道と改められた。

左:金茂大廈(ホテルグランドハイアット)
1999年3月完成した、高さ450mの中国一、世界でも3番目に高いビル。ここの地上88階の展望室に上がって見た。

  上:金茂大廈の地上88階より見下ろしたバンド地区
 (バントbound外灘とは、外国人の岸、治外法権地域を指す。)
 1842年南京条約以後、イギリス人は揚子江(長江)に沿った西岸に広がる無人の湿地帯を造成し商館や住居を建築していった。そして上海の港として発展した所で、ここは19世紀後半から20世紀前半にかけて造られたヨーロッパ式の石造ビルが立ち並んでいる。
 日本も、日清戦争後から徐々に上海に進出し、1931年から1945年まで植民地化した。
 1649年中華人民共和国が建国されると、バンドを含む全土が100年ぶりに中国人の手に戻った。現在は発展を遂げる中国の牽引車として注目を浴びている。

午後7時になるとライトアップされる。


東方明珠電子塔(テレビ塔)
高さ468m、アジアでは1位、
世界でも3位のテレビ塔
浦東(揚子江に沿った東側)はもともと人が住まない湿地帯であったが、
近年商業地区として開発されている。
ナイトクルージングより見るバンド(外灘)地区の夜景。



上海雑技
手に汗握る妙技が続々繰り広げられる。1台の自転車に10が乗る。一人で10枚を回す皿回。



世界唯一の磁浮列車
リニアモーターカーに乗って時速430Kmで、上海から浦東国際空港へ
 渡来人とは、外国から渡って来た人を指すが、狭義には古代日本に朝鮮半島や中国大陸から渡来して帰化し、文化や技術を伝えた人々を指す。
 渡来人の移住の波は3波に渡った。@縄文時代末期〜弥生前期(紀元前600〜400年前頃)より中国の長江(揚子江)流域の呉から、春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡って来て、日本に水稲、金属器、衣類を持ち込んだ。徐福伝説もある。試論日本人の起源もある。
A3世紀〜4世紀、三国時代(魏、呉、蜀)の呉の国が滅びた後再度、呉から、三国時代の混乱と戦災を避けて日本に渡って来て、日本に水稲、金属器、衣類を持ち込んだ。
B5世紀以降は、呉の国よりも、562年任那(みまな)からの撤退や660年百済の滅亡を期に朝鮮半島にからの移民が増え、亡命貴族も多数渡来するなど、さらに古墳時代には大和王権を仕える技術集団として沢山の人々が渡来した。渡来人の数は100万人(年間1千人)であったとの推計もある。
大和王国に仕えた渡来人としては、
 王仁の子孫とされる西文氏。最後の百済王義慈王の王子の禅広は持統天皇より百済王氏姓を賜って、百済系氏族の長的存在となる。漢氏は、応神天皇(270年〜310年)の頃、阿知使主(あちのおみ)が引き連れて帰化した人々の子孫であると言われている。阿知使主は後漢の霊帝の曾孫で、魏の初頭に一族及び17姓、17県の男女を連れて帯方郡(204年の今のソウル)に移住していたが、帰化して大和に住み着き、繁栄して摂津、近江、三河、播磨、阿波などの諸国へ発展して行った。秦氏は、秦の始皇帝の子孫と称する弓月君が120県の人民を引連て、朝鮮に移り、大和王権に招かれて帰化したと言われている。秦氏一族の数は、雄略天皇の頃には18,670人と言われ、養蚕、絹織を業としていた。また渡来人の子孫には、鞍作鳥(止利仏師)、僧行基、国中公麻呂(大仏造立した)、高野新笠(桓武天皇の母)、坂上田村麻呂(征夷大将軍)、最澄らがいる。5世紀後半以後の渡来人は、仏像製作、文字、暦法、儒教、高級織物技術、金属工芸、製鉄技術、馬の飼養と乗馬、須恵器、土木技術、麦栽培などを日本列島にもたらした。渡来人の活動の上に飛鳥文化が花開き、天平文化へと発展する。
渡来人は、縄文人と戦い、金属器を持たない熊襲、蝦夷、隼人などを次々に征服していった。、そして現在の日本人が形成されていった。

 呉服は、絹織物の盛んな長江(揚子江)流域の呉の国(現在の蘇州付近)ー春秋時代の呉の国(紀元前585年〜473年)、三国時代の呉の国(222年〜280年)ーが滅びて、混乱と戦災を避けて日本に渡って来た人々が着ていた絹の服や呉の国の人から裁縫方法を教わって作った服を呉服と日本人は呼ぶようになった。絹でない普通の服を『着物』と呼んでいた。そして日本の気候と日本人のTPOに合った呉服に発展して行くことになる。当時の日本人の服装は、布の真中に穴をあけ、腰の部分を紐で結んだ貫頭衣を着ていた。庶民は麻、身分の高い人は絹を着ていた。一方外国人(中国や朝鮮)は、倭人が着てる服を『倭服』と呼んでいた。『倭』は侮蔑的な意味が込められているので、日本人は高級感のある「『呉服』を好んで使っていた。古墳時代(4〜6世紀)は右前と左前の両方の服装だったが、719年(養老3年)詔勅「続日本紀」元正天皇2月3日の条に『初メテ天下ノ百姓ヲシテ襟ヲ右ニ令ム』が発布され、以後日本では右前に、そして道端で『のたれ死』の人を左前に衣を着せて死者と生者の区別をした。
 明治になり、絹の規制が解除され日本各地に絹の紡績工場が設立された。絹織物も縮緬、お召し、銘仙など種類が増え、染色技術も発達し、呉服が人気を集めた。しかし西洋から洋服が入って来ると、『洋服』に対して、絹でなくても今まで着ていた服を全て『和服』と改めて認識されるようになった。日本人自身も『倭服』でなく『和服』と呼び、軽蔑の念が無くなった。

追加
 かって帰化人という呼名が主流であったが、戦後に左派の研究者から『帰化』には日本中心的なニュアンスがあるとして『渡来人』の呼称が提唱され、学会の主流となった。『渡人』には単に渡ってやって来たという語義しかなく、倭国王の支配下に入ったという意味合いを持たないため、やはり『帰化』を用いた方が適切だとする見解もある。

上記の説に誰が反対をしたが為に、真実が伝わらなかったのだろうか?
3人の反対論者の意見が大きく歴史を動かしたと思われる。
 @舎人親王(とねりしんのう)は、日本書紀を720年に編纂した。天皇の命を受け、神代から持統天皇までの時代を扱い、朝廷支配の正当性を歴史によって説明しようとする意図で作られた。『天孫降臨』と言う神話が正当化されている。記述を手掛かりに把握出来る時代はせいぜい6世紀以降に過ぎない。それ以前の事は中国の王朝の正史に記された記事を手掛かりに考える以外にない。
 A水戸光圀は、林羅山等の大和民族(倭人)を「呉の太伯の末裔である」という記述を発見して憤慨した事と、日本こそが中華思想に基づく正統な国家であるとの認識の元に『大日本史』を編纂した。紀元前6、5世紀の呉の地方では、髪を短を短く切る(素潜りをして魚を採るのに水の中で邪魔にならないように)、刺青をする(模様をつけることで魚に対する威嚇となる)この二つの風習があったと言われている。に関する記述でも同じような風習を行っていること(魏志倭人伝によると、男は、大人も子供も、皆顔に刺青をして体に文字を書いている。昔夏王朝の少康王の子は、会稽の領主にされたとき、髪を切って、体に刺青をして、咬龍の害を避けた。今の倭人は、魚やはまぐりを捕るために好んで潜ったりするが、体に刺青をするのは大魚や水鳥を追払うための呪いとしている。国によって体の刺青の模様が違う。身分によっても左に右に、あるいは大きく、小さくと差がある。一重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服とする)が見られ、これがもととなって、中国や日本において、倭人は呉王太伯の子孫であるとする説がある。また呉の国の人々が日本に逃げて来たと言う説があり、林羅山などの儒学者に支持されていた。縄文人は、仲間か敵かを見分けるために顔に刺青をしていた思う。当時の中国の地方でも刺青をしていたし、アイヌやインデアン、そして今でも奥地に住む民族は顔に刺青をしていた。刺青は縄文人の特徴の一つではないだろうか?
B明治末期以降の植民地政策により、中国や朝鮮の歴史が抹殺され、言語や文字の使用も制限され、そして渡来説も発言出来なくなったと言われている。