風待ちの港・北前船
みほとけの里 小浜
 御食(みけつ)国


 古代から若狭は朝廷に食料を献上する御食(みけつ)国の一つでした。これは大和王国との信頼関係が深かった証拠であると推測する。日本海で獲れた豊富な魚や貝が遠路はるばる京都へ運ばれ、いつの頃からか、【京は遠くても一八里】と言われるようになり、特に18世紀後半からたくさんの鯖が若狭の海で陸揚げされ、鯖街道を通って京都へ送られた。
出雲王国の四隅突出型墳丘墓は越にはあるが若狭にはない。ここは古くから出雲王国の支配下にはなかったようである。 また古くから大陸(特に朝鮮半島)との人の往来も頻繁であり、空海,最澄以前から仏教が伝わり、寺院が建てられ、仏像も作られた。そして戦災を免れて今日までたくさんの国宝が残っている。中国よりも朝鮮半島との交流があったにもかかわらず、八幡神社が小浜第一の氏神様であり市民の信仰が厚かったり、出雲大社が少ないのは何故だろうか?日本書紀には越前地方を治めていた継体天皇(26代天皇、応神天皇の5世の子孫)を626年迎えて倭国に都を定めることができたと記してある。また日本海側は、出雲王国の支配下にあったが、ここ越前と若狭には四隅突出型墳丘墓が発見されない点から考えると、大和の支配下に早くから入り、大和への日本海の玄関口であったと推測される。越前から丹後半島は大和が出雲王国に楔を打ち込んだという点からも貴重な存在であろう。

小浜湾 小浜城跡
初代藩主の酒井忠勝は、1587年三河の国で生まれ、1600年関ヶ原の合戦で徳川秀忠が真田昌幸幸村親子を攻めた戦いで初陣を果たした。1620年秀忠が2代将軍になると、老中になり、1634年11万3500石の小浜藩主となった。小浜のナチつくりの基礎を築くと共に大老に就任し幕府の重鎮として活躍した。 1601年京極高次関ヶ原の合戦での功績によって与えられた小浜で、着工し、その子忠高、その後1634年酒井忠勝が藩主となり、1638年に三層の天守閣を築いた。酒井氏は15代260年間の居城であったが、明治4年火災で焼失した。


小浜街並み保存地区

三丁町:千本格子の家々が軒を連ねる。三味線の音や着物姿の女性の何気ない会話の中に響く京言葉が、まるで祇園界隈を歩いているような錯覚を覚える。

明治初期に建てられた元料亭『酔月』を改修して、食の館としている。



八幡神社:七六九年創建、祭神は応神天皇、神功皇后、宗像三神である。(福井県で仲哀天皇が祀られていない)と社記には記されてある。

放生祭八幡神社の氏子が毎年九月14,15日に行う、小浜市最大の秋祭り。
放生とは、とらえた魚鳥に法を修して山野、池水に放つ慈悲行為を言う。山車九区、獅子舞四句、大太鼓五区などが順番で伝統の神事です。



常高寺
 近江の小谷城主浅井長政とお市の方との間に生まれる。
 姉は茶々(後の淀殿)、妹はお江(徳川秀忠の妻)。20歳の時に京極高次のもとに嫁ぎ、後に高次が小浜藩主となるとともに小浜の地に足を踏み入れた。高次が病死の後は、剃髪し常高院と称した。
 お初が夫京極高次を弔うため発願して建立されたのが始まりと言われている。

              
              右は常高院の墓


国宝明通寺806年坂上田村麻呂が創建したと伝えられる。
仁王門(鎌倉末期の建立)

国宝3重塔、1270年建立


若狭神宮寺

714年開祖の神仏混合寺院であり、天台宗の寺として七堂伽藍二五坊を誇ったが、明治の神仏分離令によって衰退した。
 毎年三月二日に行われるなら東大寺の二月堂へのお水送りは、この神宮寺の神事としてあまりにも有名です。


若狭彦神社若狭一の宮

海彦、山彦の神話で知られている上社の若狭彦神社と下社の若狭姫神社


若狭姫神社若狭二宮


萬徳寺高野山真言宗
 1370年頃真言宗に改宗しあ。守護大名武田信豊が若狭の国の真言宗本寺とした。1634年小浜藩主酒井忠勝は代々の祈願所として尊崇した。
 阿弥陀如来坐像は平安時代後期の彫刻で桧の1本つくりである。
書院庭園は、1677年に築造された。金剛界曼荼羅の庭園と言われ、大日如来を中心に諸仏が平和共存している真言密教の心の庭園である。国指定名勝庭園となっている。


多田寺749年開祖の高野山真言宗
本堂


妙楽寺
719年僧行基が開創、797年弘法大師が創建したと伝えられている。
本堂は若狭の国最古の建物である。

木造千手観音菩薩像



鯖街道
小鯛のささ漬が美味しい。皆へのお土産に沢山買って帰った。今回のレンタカーはトヨタマークXでした。
 若狭から京都へ至る多数の街道や峠道には本来固有の名前が付けられていた。運ばれる物資の中で『鯖』が特に注目されたことから、これらの道を総称して鯖街道と呼ぶようになった。
 そのうち、最も盛んに利用された道は、小浜から熊川を経由して高島市朽木を通り、大原を抜け京都に至る『若狭街道』です。
 若狭から運ばれて鯖が18里離れた京都に着くころには、丁度ど良い塩加減になったと言われている。

魚の小売店が並ぶ『いずみ町』鯖を焼く匂いと煙がたまらない。

 鯖街道の起点にある朽木屋の浜焼鯖。外はカリー、中はジューシー。脂がのり、味が鯖の身に沁みこみ美味しかった。日持ちも良いという



若狭瓜割り名水公園 

 名水百選にも選ばれた瓜割の滝。夏に瓜を冷やしておくと割れてしまうほど水が冷たいことが名称の言われ


熊川の宿
街道一の賑わいを見せた熊川の宿。関所、奉行所が置かれ、商店,旅籠、問屋、倉庫が軒を連ねていた。瓜割の水で鯖寿司を食べる。  おやつは葛スイーツ

熊川番所 豊かな速い水が流れている。

若狭の領主となった浅野長政は1589年に熊川が交通と軍事の要所であることから、諸役免除して宿場町とした。以来40軒ほどの寒村が200軒を超えるような町となりました。



舞鶴へ

田辺城跡
1580年丹後の国は細川藤孝(幽斉)、忠興親子の領地となり、田辺城が建てられた。以後290年間細川、京極、牧野氏の居城として栄えた。
細川忠興は織田信長の縁組取り持ちで明智光秀の三女玉(後のガラシャ)と結ばれた。
石田三成が1万5千の大群で攻め込み、田辺城籠城の舞台として有名な細川幽斉ゆかりの城。


港町舞鶴の風景
江戸時代から北前船の寄港地として発展を遂げた。
高野川河口に位置する竹屋町は大商人が多く居住し、藩内の商品流通を全国に運ぶ交易拠点になっていた。


五老スカイタワーから望む東舞鶴。海抜325mの展望室からの眺めは近畿百景第1と言われている。

舞鶴引揚記念館
引揚桟橋 停泊用のブイ
舞鶴港は、終戦まもなく引き上げ港に指定され、昭和20年10月7日から33年9月7日の最終船まで13年間に亘り、旧満州をはじめ、中国、樺太、千島などに残された人々66万人の同胞と1万6千柱の御霊を迎え入れた。ロシアでの抑留生活の苦難に堪えた人々、遠く故国に思いを寄せ心身ともに疲労し運よく帰還した人々、さらには幾年月も肉親の帰りを信じつつ岸壁にたたずむ母や妻の姿があった。私の小学校の担任の先生は、昭和27年にロシアでの抑留生活を終えて帰国し、28年4月から教えてもらったが、暗い先生との印象があった。50年後のクラス会で尋ねたら、言語に絶する抑留生活を話してくださった。

赤レンガ博物館レトロでロマンチックです。
レンガは土を使って容易に作ることができるために、1万年前から世界各地で作られてきた。
 舞鶴市には明治34年の旧海軍舞鶴鎮守府の開庁に伴い、海軍が建設したものを中心に多くの建造物が現存している。
 ここは明治36年舞鶴海軍兵器廠魚雷庫として建設されたもので我が国最古のものとされている。


自衛隊桟橋

 明治34年初代司令長官東郷平八郎がイギリスで食べたビーフシチューの味が忘れられず、部下に命じて作らせたのですが、これが肉じゃがのルーツになったと言われている。
今日は4艇が係留されていました。その中で護衛艦みょうこうを見学が出来ました。
またパトリオットと弾道ミサイルを大気圏外で迎撃できるSM3ミサイル垂直発射装置、魚雷発射装置もあります。
五老スカイタワーから望む自衛隊桟橋



潮待ちの港・風待ちの港
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