風待ちの港・北前船
潮待ちの港 敦賀
風待ちの港

 敦賀駅前には朝鮮(任那)の人の銅像が立っているのに驚いた。都怒我阿羅斯等は素戔嗚尊であろうか?ここが古来から朝鮮半島、新羅との交流が盛んであったことを物語っている。越前一宮の祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇であり、二宮の祭神は、素戔嗚尊、気比大神、忍熊王と社記には記載されてある。敵対する神々ではないだろうか?朝鮮特に新羅系の人々が素戔嗚尊であり、中国系が応神天皇ではないだろうか?日本書紀には越前地方を治めていた継体天皇(26代天皇、応神天皇の5世の子孫)を626年迎えて倭国に都を定めることができたと記してある。また日本海側は、出雲王国の支配下にあったが、ここ越前と若狭には四隅突出型墳丘墓が発見されない点から考えると、大和の支配下に早くから入り、大和への日本海の玄関口であったと推測される。ここは神功皇后の生誕地であり、ここから下関の豊浦の宮い行き仲哀天皇と暮らしたと記されている。越前から丹後半島は大和が出雲王国に楔を打ち込んだという点からも貴重な存在であろう。

敦賀駅前に立つ都怒我阿羅斯等(つねがあらしと)の銅像
 敦賀はもともと角鹿と呼べれていたが、その地名の由来は都怒我阿羅斯等の渡来によるものだと説がある。この伝説は日本書記に書かれている。その昔額に角がある人が船に乗って敦賀に着いた。話を聞くと日本に崇神天皇がいると聞き、加羅国(朝鮮)から仕えるために来たとここと。だが天皇は崩御したので、次の垂仁天皇に仕えて三年が過ぎ、故郷に帰ることになった。その時、崇神天皇の名前をもらい、国名を任那としたという話である。
 この伝説は、朝鮮半島から数多くの渡来人がやって来ていたことを示すものであり、敦賀に朝鮮との関係がある神社が多いことと合わせ当時の頻繁な交流を物語っている。

 角鹿神社は都怒我阿羅斯等を祀ってある。
 白城神社は、新羅と関係がある神を祀ってある。
 信露貴彦神社は、飛鳥時代創立という神社で、その名前から新羅に関係があるとされる。



松本零士モニュメント:1999年敦賀開港100年を記念して設置された。宇宙戦艦ヤマトと銀河鉄道999のブロンズ像が28体ある。
古代と森雪 佐渡先生 帰還。波動エネルギーは敵母星エネルギーと融合反応し、大爆発を起こした。敵母星を粉砕したヤマトは地球へ帰還してゆく。そしてサーシャと母スターシャの元へ、、、、 雪とアルフォン



気比神宮 越前の国一の宮。702年創建。
高さ11mの鳥居は、
春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つ。
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀ってある。




常宮神社 
 気比神宮と敦賀湾を挟んだ対岸に常宮神社がある。気比神宮の仲哀天皇が7月22日にここの主祭神の神功皇后に会うために年に1度御渡りになるという『総参祭』が両社で行われる。

本殿には天八百万ひめの命、神功皇后、仲哀天皇を祀っている。
天八百万ひめの命は養蚕の神としてこの地に鎮まり給い、今から2千年前、仲哀天皇の即位2年2月天皇、皇后が百官を率いて
敦賀に御幸あり、行宮を営み給うた。その後天皇は熊襲の変を聞き、紀州へご巡幸せられ、陸路山陽道を通り、山口県へ向かった。
 神功皇后は、2月より6月までこの常宮にとどまっていたが、6月中の卯の日に海路日本海を御渡りになり、山口県下関の豊浦の宮にて
天皇と再会された。この由緒をもって飛鳥時代の703年勅によって神殿を修造した。
 神功皇后は、三韓征伐の前、この地にて御腹帯を付けた後に、福岡県宇美八幡宮にて応神天皇を出産されてた故事によって、
古くから安産の神として信仰を集めている。また皇后はこの地から船出をされるにあたり,海神を祀り海上の安全を祈願され、
はるばる朝鮮半島まで無事航海された由縁により、海上の守り神として深い信仰を集めている。(常宮神社社記による)



国宝の朝鮮鐘が安置されていると言う。



越前二の宮剣神社
 祭神は、素戔嗚尊、気比大神、忍熊王と言う珍しい組み合わせである。
盞嗚尊を祀っていることは、日本海沿岸は出雲王国の支配下であったことが伺える。神功皇后摂政の頃、第一四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、剣大伸の神威を頂き当地方を治めることが出来たことを謝し、剣神社を建てたと社記は伝えている。神功皇后は敦賀の人だと言われているし、仲哀天皇の第○夫人であったとも言われている。何故忍熊王だろうか?正妻の二男が敦賀を征服したのだろうか?謎である。古事記によれば、神功皇后と応神天皇は大和に帰還するとき、仲哀天皇と正室(オオナカツヒメ)との間の香坂と忍熊の2人の皇子が迎え討ったとある、なのに一宮の祭神と二宮の祭神とが敵対関係であるのだろうか?
 中世以降は朝倉氏を初め武将の尊敬も厚く、特に織田信長は氏神として崇めていた。ここ越前町織田は、織田信長の祖先の故郷です。織田氏は剣神社の神官として代々神に仕えてきた家柄であったが、1400年頃に尾張に出て、次第に勢力を伸ばしたと社記に記されている。



金ケ崎城跡
 「江」の伯父織田信長の人生は、桶狭間の勝利以降、順風満帆だったように思われている。 かつて足利義昭を庇護していた越前の朝倉義景は、近国でありながら信長の上洛要請を拒絶した。激怒した信長は1570年4月、数万と言われる群勢を率いて越前に向け出陣した。西近江路を北上し若狭に入り、熊川(現:若狭町)国吉(現美浜町)を経て国境の関峠を越え、ついに敦賀になだれ打った。 朝倉軍が立て籠る金ケ崎城を一気に攻略した。
 浅井長政は、祖父以来の朝倉氏との親交もあり、近江で信長を牽制する動きを見せ、朝倉氏へ攻め上がろうとする信長の背後を脅かした。     浅井長政(信長の義弟)裏切りの報せが信長のもとにもたらされた。もし浅井・朝倉連合軍に南北から攻められれば、信長軍は絶対絶命。
 お市は、兄信長と夫長政の両方とも救うため、謎かけのような贈り物を信長の陣中に届けたと言われている。それが両端をしっかり留めた小豆袋だった。その小豆袋をみて「袋のねずみ」であることを悟り、長政の謀反を確信した信長は、すぐさま撤兵を決意する。 数十人の鉄砲衆を残し、木下藤吉郎秀吉に殿(しんがり)を託して、自らは金ケ崎城を脱出して、若狭を通って京都へ退却した。
 ここ金ヶ崎で起こった出来事により、お市と、その娘である三姉妹の運命は大きく変わったのかも、、、、。


芭蕉と奥の細道
1689年5月16日江戸深川を発し、8月14日敦賀に着き16日まで滞在し、4句が詠まれている。8月21日には大垣に着いている。

月清し遊行のもてる砂の上   名月や北国日和定なき
その昔、遊行二世上人が気比明神への参詣を楽にするために運んだという白砂。その白砂の上に清らかな月が輝いている。砂の表面に月が反射してきれいだ。清らかな眺めだ。


気比の松原:三保の松原(静岡県)・虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の一つ。
 長さ約1.5km・広さ約40万m2という広大さと、白砂青松のコントラストが印象的な松原。赤松、黒松約17,000本が生い茂る国の名勝地。

十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとった。
 その夜の月は特に見事だった。「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見れるでしょうか」というと、「越路では明日の夜が晴れるか曇るか、予測のつかないものです」と主人に酒を勧められ、気比神社に夜参した。仲哀天皇をおまつりしてある。境内は神々しい雰囲気に満ちていて、松の梢の間に月の光が漏れている。神前の白砂は霜を敷き詰めたようだ。
 十五日、芭蕉は気比の松原での月見を楽しみにしていたが、亭主の言葉どおり、あいにくの雨となり、そこで1句 『名月や北国日和定なき』と詠んだ。
  



柴田氏庭園
敦賀の豪商柴田氏が江戸時代の絵師狩野探幽に設計を任せたという庭園。参勤交代の時に小浜藩主の休憩場所として使用されていた。




北前船主の館・右近家
 右近家は、大阪と蝦夷地を結んで日本海廻りで各港で商いをしながら不定期に往復した
北前船主として1780年頃から活躍し、全盛期には30余船を所有していた。明治30年頃
からは蒸気船を導入し、海運の近代化を進めると共に、海上保険業に進出し、日本火災
海上保険株式会社として現在に至っている。


金ヶ崎緑地
この旧敦賀駅舎は、かって『欧亜国際連絡列車(新橋〜敦賀〜
ウラジオストック〜シベリア鉄道経由ヨーロッパ』の発着駅として
多くの人々や文化を運ぶ重要な
位置を占めていた。
金ヶ崎緑地
旧敦賀港駅舎や明治38年に建てられた赤煉瓦倉庫があり、
レトロな雰囲気をかもし出している




美浜原子力センター


上は美浜原子力センター内部 
  左から1号機、昭和45年建設、34万KW.。2号機昭和47年50万KW.。
      3号機、昭和51年82万KW..。合計で166万KW

 右はPRセンター内部:
      原子力発電の仕組みやエネルギーについて理解が出来る。

潮待ちの港・風待ちの港
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