長谷川等伯ゆかりの地
富山・能登

 長谷川等伯は、安土桃山時代(1539〜1610)に活躍した、能登半島七尾出身の絵師である。生家は武士の奥村家、染色を生業とする長谷川家に養子として迎えられた。30代で上洛するまでこの地で過ごし、若いころから仏画を描いていた。等伯がその名を馳せたのは50代の頃。狩野派が台頭していた京都で、秀吉から障壁画を一任されたのがきっかけでした。
 等伯については、かって日経新聞で連載されていたので知っていた。この度、日経新聞の広告を見て、作家の安部龍太郎先生の講演も聞ける日経カルチャー主催のツアー『長谷川等伯のゆかりの富山、能登の旅』に参加して訪ねた。
 第1日目は5月4日、のぞみに乗車して、京都9時9分発のサンダーバードにて4時間で金沢へ、新幹線で新高岡に11時42分に着いた。高岡の大法寺(釈迦多宝如来像・日蓮像を鑑賞)し、高岡瑞龍寺(前田家の菩提寺)、富山の松月にて夕食とおはら風の盆の夕べを鑑賞した。第2日目は氷見蓮乗寺、青柏祭、一本延寺(等伯の生家の菩提寺で等伯筆涅槃図)、和倉温泉の加賀屋で阿部龍太郎氏による特別講演会を聞いた。第3日目は石川県立七尾美術館(朗読と琵琶演奏、そして長谷川等伯展を学芸員による特別鑑賞、羽咋の妙成寺(等伯ゆかりの寺)を見学後、金沢駅での解散となった。
  海秀山高岡大法
 亨徳3年(1453年)、京都大本山本圀寺(ほんこくじ)第九世 妙勝院 日曉(みょうしょういん にちぎょう)聖人の弟子、栄昌院 日能(えいしょういん にちのう)聖人が、開創された寺院である。
この頃、越中国の内陸部では、一向衆がすでに急速な勢いで基盤を固めつつあり、念仏衆に対抗する形で布教拠点を必要であった。

高岡大法寺                             日蓮宗の仏壇は豪華である。       住職から一時間等伯と大法寺についての講話を聞いた。
 法華宗は商工業者の間で、真言宗は天皇家や公家を中心に、浄土真宗は農民の間で広まったと話された。法華宗は宿坊、信徒の繋がりが強く。信者になると、絵師、絵具、漆工芸品、紙などが容易に手に入ったそうです。また堺の商人や京都の工業者が信者に特に有名なのは千利休や狩野永徳など。等伯は長尾時代から度々法華宗の宿坊を訪ねて京都に出て、勉強をしていたと推測されると話された。
長谷川等伯の書画
1564年26歳のころ大法寺の仏画を描いたと言われている。

三十番神図
三十番神は1ヶ月30日を1日ずつ、日本国と法華経信仰者を守護する三十柱の善神で、伝説によれば日蓮聖人が比叡山(ひえいざん)定光院(じょうこういん)で修行中に出現されたという。
日蓮上人説法図
画中下部の墨書によって、長谷川等伯(このときの号は信春である)の作とわかる。
七字題目「南無妙法蓮華経」
金字に金泥をもって南無妙法蓮華経の七字の題目を書き、下に日蓮聖人の花押を記している。
鬼子母神・十羅刹女図
鬼子母神・十羅刹女は法華経信仰者の守護神である。
一面、信仰者が誓いを破ったり、信仰者らしからぬ振舞いを行ったりしたときは、罰を下す恐ろしい存在でもある。
釈迦・多宝仏図1564年等伯筆
 獅子座上に釈迦如来と多宝如来が座し、二人の間に七字題目を記す。上方には日・月・星辰を表す。仏の世界を荘厳に表している

  高岡瑞龍寺 
 曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。  利長公は1609年に高岡に築城し、この地で亡くなった。加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。  造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、明王堂(現僧堂)、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている。

法堂(国宝)1657年竣工
          山門(国宝) 左右に金剛力士像を安置。         イザとなれば城の役目も果たしていた                住職の講話は、多岐にわたり、内容は素晴らしくまた話術は講談師顔負けである。



総欅作りで、屋根は鉛板をもって葺かれている。
イザとなれば、屋根を溶かして鉄砲の玉となる。
仏殿の本尊は、中国明時代の釈迦、文殊、普賢の三尊を祀ってある。 加賀藩二代藩主前田利長は、慶長十四年(1609)当時「関野」と呼ばれていた荒野に城を築き、近郊より民を集め城下町を造った。これが「高岡」の始まりである。
 前田家2代利長は、利家とまつとの長男として生まれ、1598年利家の老退により、家督を継ぎ、五大老に列し、関ヶ原の直前に徳川家康に屈し、家康の孫(秀忠)の二女珠姫を弟利常(初代利家とまつの侍女ちょぼとの間で出来た子供)の夫人に迎えることを約した。戦後、加越能3州で120余万石を領し、譜代・外様を通じて最高禄の大名となった。

 病のゆえをもって1605年家督を利常に譲り、ここ高岡に隠栖したが、1614年5月、大坂冬の陣の直前に病死した

 欄間の彫刻は独創性に富み、大胆な手法が見られるがこれも江戸初期の技法を充分に表現した優秀な遺作の一つである。全体的にいかにも大柄な造り方で、前面の広い板廊下と、その前方の土間の構造等、実に雄大である。
回廊 仏殿
 
 松月 
夜は岩瀬の『松月』での夕食。白く透きとおり”海の貴婦人”と呼ばれている白エビの味は忘れられない。豪華で美味しい料理でした
擦って団子にして焼いた福団子。 おろし生姜で甘みをおさえて食する「白エビの刺身」   柔らかくて皮ごと味わえ香ばしい「白エビのから揚げ」 めでたい席には欠かせない鯛とお餅の
お吸い物「大名椀」
夕食後はおわら風の盆の夕べ
二胡の音色が哀愁をおびる。
客間は岩瀬の浜に北前船が往来いた頃の面影を今に残す


氷見、蓮乗寺 
蓮乗寺の創建は鎌倉時代末期の嘉暦2年(1327)、富山県における最初の日蓮宗の寺。妙典院日暹が開いたのが始まりと伝えられいる。
日蓮宗、蓮乗寺山門 本尊:十界曼荼羅。 梵鐘は1639に制作されたもので氷見市最古、富山県内でも有数な古鐘で藤原朝臣河辺五兵衛尉家政が鋳造した。鐘撞きが出来た。

寺宝である木造日蓮上人坐像は、
室町時代の永正5年(1508)に制作されたもので像高22.5センチ、膝幅20.8センチ、寄木造、玉眼、頭部はめ込み式、
平成2年(1990)に氷見市指定有形文化財に指定される。
作者は不明である。
三十番神図 鬼子母神・十羅刹女像:鬼子母神は仏教を守護する女神で子授かりや安産、子育ての神として祀られている。よく見ると、中央の母神は左胸に赤ん坊を抱いている。周囲には手にそれぞれ道具を持つ十羅刹女が描かれている。そして天蓋と飛天が上部に配されている。左下の落款が長谷川信春とあり、等伯20歳代前半ごろに描かれたと考られる、


  青 柏 祭 り 
 
981年能登の国守 源順が能登国の祭と定めたのが始まりと言われているが、山車が現在のようになったのは、室町時代後期に能登国守護であった畠山義統が1473年京の祇園山鉾に倣って国祭りの青柏祭りに曳山を奉納したのが、『でか山』の起源と言われている。なお、この祭礼は、5月3〜5日に行われ、国の重要無形民俗文化財に指定されているほか、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。

「鍛冶町」(中央のでか山)菅原天神記の車引きの場 「府中町」七尾城攻防戦 7月13夜、 「魚町」聚楽第の場
「府中町」・「魚町」・「鍛冶町」の三町から、上段に歌舞伎の名場面をしつらえた山車(曳山)が3台奉納される。
でか山の上段正面舞台には毎年題材を替え、御殿や城、神社仏閣など歌舞伎の場面に合わせて立体的に作られ、そこに何体もの登場人物の人形を作り、着付けをして飾っている。

3台の山車の形は、末広形とも北前船を模したものとも言われ、山車の高さ約12m、上部の開き(長さ)約13m、幅・上部約4.5m、下部(車輪間)約3.6m、車輪の直径約1.9m、幅約0.6m、総重量約20トンの舟形の山車で、山車としては日本最大級、体積・重量では日本一である。
 辻回しは町角(交差点)で、大きく重たいでか山を人力で回す。昔の人達の英知が詰まった技であり、祭礼中は角々でこれを繰り返すが、若衆の心意気と狭い角をダイナミックに一気に回す迫力に、感嘆の声と拍手が起こる見せ場の一つである。なお四つ角とT字路では回し方の方法が違う

本延寺  等伯の生家奥村家の菩提寺
加賀藩の始まりは、前田利家が、天正9年(1581年)、織田信長より能登一国23万石を与えられ、七尾城主となった時。 山城だった七尾城を廃城し、新しい街づくりとして、港を臨む小丸山城を築いた。
一本杉通りや山の寺寺院群はその名残をとどめるもの。山寺寺院群とは、1581年前田利家が奥能登から七尾城の防備を目的に、浄土真宗を除く各宗派の寺院を防御陣地として移転配置した。
当初は29ケ寺が存在していたが、現存する寺院は16.前田氏は真宗寺院を領国支配に利用する一方で、一向一揆の蜂起を非常に警戒して徹底的に統制をおこなっていたため、真宗寺院は含まれていない

日蓮宗京都本法寺の末寺
古風で静かな山門


豪華な仏間
     長谷川等伯筆 釈迦涅槃図(復刻版)
 釈迦が入滅する場面を描いた仏画で、釈迦を中心に仏弟子、鳥獣などが細かく表現される。
本図は保存状態も良好で、細密で色鮮やかな作風を現在に伝える。等伯30歳の時に描かれた作品である

和倉温泉加賀屋

安部龍太郎氏の講演会
加賀屋で第158回直木賞を受賞した小説『等伯』。その著者である安部龍太郎氏が等伯生誕の能登に於いて、1時間の公演を聞きました。
等伯にまつわるお話と、今後は、シルクロードを通して長安の都、遣唐使について調査し、著作活動をしている内容でした。
       長谷川等伯筆 松林図屏風(国宝)の扇子を購入した。

   石川県立七尾美術館  

 七尾市は、古くから能登の政治、経済、文化の中心として栄え、桃山美術の画聖と讃えられる長谷川等伯生誕の地でもる。 偉大な芸術家を育んだ背景には、当時の都の文化を積極的に取り入れて育てた畠山文化と、交易で栄えた町衆の経済的豊かさがあったといわれ、その文化的素地は、静かに、そして、脈々と現在に伝えられてきている。 石川県七尾美術館は特色ある美術館として、そんな等伯の作品を大型ハイビジョンで鑑賞できるようにしたほか、講演会やコンサートが可能な240席のアートホール、そして、作品発表の場となる市民ギャラリーを備えております。 能登地区唯一の総合美術館として、平成7年7月に開館した。

安部龍太郎先生も参加していた。
長谷川等伯展を学芸員に案内をしていただいた
朗読(小説等伯の一場面)と琵琶演奏、
松林図屏風(東京国立博物館蔵)
霞の間より見え隠れする松林を水墨で表現した作品で、故郷である能登地方の松林を想起して描いたともいわれる。等伯50歳代の筆とされ、等伯の代表作であると同時に日本の水墨画における最高傑作として著名な作品である。
藤花・牧牛図屏風
牛と世話をする子供がいて、屋根もみえる。角を力強くぶつけ合う2頭。
金箔を貼って水や雲のように見せたり、絵を上手に区切っている。

羽咋の金栄山妙成寺(等伯ゆかりの寺)
日蓮宗の総本山。1294年に日蓮上人の孫弟子・日像(にちぞう)上人を開祖に建立された 。
 時は下って天正10(1582)年、後に加賀藩2代藩主前田利家が妙成寺(みょうじょうじ)に参拝した際、武運長久を祈って、領地を寄進した。その利家が秀吉の命令で、朝鮮出兵のため、九州の肥前名護屋におもむいた時、身の回りの世話をするために派遣された利家正室まつの侍女「ちよぼ」が後の寿福院(じゅふくいん)です。利家の寵愛を受け、やがてちよぼは男児を出産しました。後の加賀藩3代藩主前田利常利光)です。慶長4(1599)年、利家は大坂で病死し、ちよぼは髪を下ろします。ちよぼは寿福院と名乗り、法華経をあげて利家の菩提いました。翌5年には利常と徳川2代将軍秀忠の2女珠姫が婚約し、翌年、2人は結婚した。最愛の息子の婚儀も果たした寿福院は慶長8年、かねてから信奉していた能登一の法華古刹妙成寺を菩提所に決め、ひたすら建造物を整え、法悦にひたる歳月を送った。

妙成寺(みょうじょうじ)自体が城砦だとすれば、五重塔は単なる宗教的なシンボルではなく、お城の天守閣としての役割があった。
塔の上層階からは境内のを通る街道も見下ろせ、日本海も一望できる。さらに、塔の窓はお殿様が滞在する書院の方角に開けてあるのです。
攻め入る外敵を見つけたら、いち早くお殿様に連絡できるようになっている。北陸唯一の五重塔は寿福院が願主となり1618年建立させた


寿福院の墓
(利家正室まつの侍女「ちよぼ」)
まつは2男、9女を産み育てた,
長男利長が書いてある

今日は、釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ) (花まつり)でした。

潮待ちの港・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐五島呼子末盧国伊都国相島門司港赤間関室積上関沖の家室津和地蒲刈御手洗・鞆ノ浦下津井塩飽本島牛窓赤穂室津兵庫津
北前船・富山能登加賀・敦賀・隠岐

長谷川等伯2京都編