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本法寺の長谷川等伯像 |
多宝塔 |
第96世瀬川日照貫主の説明を聞く。聖徳太子の17条憲法の『仏法僧』の額 |
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〇長谷川等伯と佛涅槃図(本法寺HPより)
長谷川等伯(1539-1610)も本法寺に縁の深い芸術家として知られています。等伯は能登国・現在の石川県七尾で生まれ、染色を生業とする長谷川家の養子となり、故郷の七尾を中心に絵師として活動していました。その後、養父母の死をきっかけに拠点を京都へと移し、生家の菩提寺の伝手で本法寺塔頭の教行院に住み、制作に取り組んでいきました。
等伯が京都で活動をはじめたころの作品に、当時の本法寺貫首の肖像画『日堯上人像』(重文)があり、本法寺に所蔵されています。この作品は34歳の時のもので、「長谷川信春」の署名があり、等伯と信春が同一人物であることを裏付ける貴重な資料として知られています。その後、30代後半から40代の作品はのこされず、活動が明らかになるのは50代になってからです。
天正17年(1589)、51歳の等伯は大徳寺の三門楼上壁画と三玄院障壁画を描き、都で名の知れた絵師となります。翌年には御所の障壁画制作を依頼されるまでになりましたが、当時の画壇に君臨する狩野派の妨害によって、苦汁を飲まされる結果となりました。しかし、その後は豊臣秀吉から祥雲寺障壁画の制作を依頼されるなど、画壇における地位を確固たるものにします。こうしてみると、等伯にとって充実した活動時期のようですが、背景には彼を取り巻く人たちとの死別が、大きな影響を及ぼしています。
等伯が52歳の時、親交が深かった千利休が秀吉の命によって自刃し、さらに55歳の時には、制作の片腕として一番の信頼を寄せていた息子の久蔵を26歳という若さで失い、深い悲しみに見舞われました。そのような中で『松林図屏風』(国宝・東京国立博物館)など水墨画の優れた作品が描かれており、心の内を墨の濃淡で表現しているようです。
その後、60代になると大作を次々と手がけ、そのひとつに本法寺の『佛涅槃図』(重文)があります。この作品は京都三大涅槃図のひとつに数えられ、描表具を含めると縦10m・横6mにも及ぶ大幅で、表具の裏には日蓮聖人以下の諸師や本法寺歴代住職、祖父母・養父母・子息久蔵などの供養銘が記されています。画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちが描かれ、自分をのこして先立った人々への哀悼と供養の想いが伝わってきます。また、自身と縁の深い本法寺関係者の肖像画『日通上人像』(重文)・『妙法尼像』(重文)などをのこし、高い評価をうけています。
さらに、本堂の天井画や客殿の障壁画を描きましたが、天明8年(1788)に京都を襲った大火によって焼失してしまいました。しかし、幸いにも経蔵と宝蔵がのこり、『佛涅槃図』をはじめとする等伯の作品が奇跡的に焼失をまぬがれ、今日にまで本法寺に格護され続けています。 |
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動物たちの悲しみも表現されている。
縦10m・横6mの大きさに驚かされる。
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〇本阿弥光悦と巴の庭
本阿弥光悦(1558-1637)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家で、その才能は多岐にわたり、書・絵画・陶芸・漆芸等に優れた作品を残しています。
本阿弥家は元来、刀剣の鑑定や研磨を生業とする家柄で、足利幕府に仕えていました。光悦の曾祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走が原因で足利幕府六代将軍義教の怒りに触れ、投獄された際に獄中で日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者になります。
爾来、本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、光悦は父親の光二と私財を投じ、伽藍の整備に力を尽くしました。また、これにあわせて光悦によって造られたとされる「巴の庭」は、室町時代の書院風枯山水の影響と安土桃山時代の芽生えを感じる名庭です。
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本阿弥光悦作の「巴の庭」は書院の東側から南へ曲がる鍵形で、広さはおよそ200坪。三箇所の築山で巴紋を表現することから「三巴の庭」と呼ばれますが、巴の形は経年により解りづらくなっています。 |
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東南隅に石組の枯瀧が配され、縦縞紋様の青石によって流れ落ちる水を表現しています |
書院の縁側前には、半円を2つ組み合わせた円形石と、切石による十角形の蓮池が配置され、「日」「蓮」を表現しています。
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林恒弘氏(ナレーター)の朗読と太田豊氏(雅楽演奏)の琵琶演奏にて小説等伯の世界を”語り”で体感した |