遼東半島・大連

 弥生時代に、稲作と金属器が伝わって来ると、各地に小さなクニが出来、そして渡来系弥生人が多量に日本へ移住してくる。
 紀元前500〜700年頃に青銅器文化を持つ部族国家が形成され、その総称が古朝鮮と呼ばれたが、紀元前108年漢国により滅ぼされる。漢国は4郡(楽浪、臨屯、ヒョンド、真番)を設置して統治した。倭国は楽浪郡の統治下に置かれた。紀元前37年朱蒙(チュモン)は高句麗を建国する。この高句麗の紋章が3足の烏である。これが日本の八咫烏(やたがらす)とよく似ている。
 『漢の倭の奴国』の金印授受の使節や卑弥呼の使節、遣隋使、遣唐使は遼東半島から山東半島へ渡って洛陽の都や長安の都へ行ったと推測する。不凍港である旅順港はソ連にとっては垂涎の的であったし、日本にとっては遼東半島を手中に収めなければ日本海・黄海の制海権を握れず、朝鮮半島や満州に兵員・物質を送ることが出来ない。逆にロシアから見れば、日本が遼東半島を得ることは、自国の南下政策を阻む大きな要因となる。満州を廻る帝国同士の争いにおける重要な戦略拠点の一つが遼東半島だった。
 そこで、児玉源太郎の活躍は『坂の上の雲』で紹介されたとおりであるが、この度『児玉源太郎顕彰会が設立して』と題して周南文化協会会長の西崎博史氏の卓話を拝聴して、遼東半島を尋ねることとした。
旅順は2010年に外国人の立ち入りが開放された。40年間日本が支配していた大連は、台湾に近い親日的であった。児玉源太郎や後藤新平の功績であろうか。
広島空港を9時20分に離陸し、大連空港での入国審査は10時40分に終わっていた。偏西風の影響か1時間余りのフライトであった。


391年 倭は、新羅、百済を従え高句麗と戦う。新羅と百済は王子を人質として差し出すと共に倭国に朝貢する。
527年 新羅では仏教を国教とする。
538年 仏教が、百済より倭国へ伝わる。
660年 唐は13万の軍を派遣し、新羅との連合軍は百済を滅ぼす
663年 百済救済に向かった倭軍は白村江で新羅、唐連合軍に敗退する。
676年 高句麗を滅ぼし、統一新羅が誕生する。
673年 〜780年、唐との関係が悪化した新羅は再度倭国に朝貢する。 遣新羅使、新羅使が相互に行き交った。
710年 平城京遷都
728年〜922年 渤海使節を728年から922年まで34回、遣渤海使は728年から811年まで14回往来した。
752年 新羅王の来朝を求め、新羅を朝貢国扱いとする。
753年 唐の朝貢で大伴古麻呂、新羅と席次を争い意を通す。
935年 高麗が新羅を滅ぼす。
1898年 ロシアは清から関東州(大連、旅順など)を租借した
1904年 日露戦争
1910年 日韓併合
1932年〜1945 満州国



周南市の児玉神社

児玉源太郎1852年〜1906(明治39)年周防の国徳山村で生まれる。

1968(明治元)年函館戦争に参加したのち、陸軍に入隊

1877年西南戦争の熊本籠城戦に参加

1898〜1906年台湾総督時代には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。 二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。

日露戦争開戦前には台湾総督のま内務大臣務めていたが、 明治36(1903)年参謀総長大山巌から請われ、台湾総督は兼任のまま日露戦争の満州軍総参謀長として大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦の第三軍を訪れている

 日露講和をし日本は戦勝国となり南樺太割譲、ポーツマス条約により朝鮮半島に於ける自国の優位の確保や遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。日露戦争後陸軍参謀総長就任、また南満州鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中脳溢血で急逝した。享年55

遼東半島は後漢末になると公孫氏が支配していた。

高句麗はAD37年〜668年、三国時代は、魏に冊封され、魏の帯方郡と呼ばれていた。卑弥呼は対馬海峡を渡り、帯方郡から魏の役人に先導されて洛陽の都へ行った。
 飛鳥時代には倭国と親密であった
.。飛鳥寺は588年蘇我馬子が発願し、高句麗の援助を得て、第33代推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺である。
 ´飛鳥大仏(釈迦如来座像)を鞍作鳥(止利仏師)に作ることを命じ、609年に完成した日本最古の仏像である。鞍作鳥は蘇我氏とも関係の深い東漢氏(やまとのあや)系の渡来氏族であった。これは蘇我氏の仏教から、天皇の仏教に、国家の仏教へと変わったことを意味する。624年には飛鳥寺には46カ寺があった

渤海国698〜926年 高句麗滅亡後テジョンにより建国された渤海国は、使節を728年から922年まで34回、遣渤海使は728年から811年まで14回往来した。遣渤海使は能登半島の福良津から出航し、帰航した

その後元、明、清、満州国となった。


 大連へ  

Air Chinaにて広島から大連へ1時間20分で到着した。他に乗客はいない
空港への迎えのガイドさんが予定より早く着いたので信じてもらえない。
近代的なビルが立ち並ぶ大連市。

日本統治時代に作られた懐かしい路面電車。日本で見れない古さ。

                 中山広場 

 日清戦争後の1898年、三国干渉の代償として、清から関東州(大連、旅順など)を租借したロシアが東清鉄道の終着駅を設うけた。旅順にある艦隊と要塞の物資をまとめるため、また貿易の拠点として、港の整備とパリをモデルにした都市づくりが始まった。1905年ポーツマス条約により日本に租借権が譲渡された。大連は広場が広く、多い。ここ中山広場は直径213mもあり又美しい。日露戦争後、大広場と呼ばれた。中華人民共和国成立後、孫文(孫中山)記念のため、中山広場と名づけられた。日本統治時代に建てられた欧風建築が立ち並んでおり、現在も政府の各機関や金融機関として利用されている。
1914年建築の大連賓館(旧ヤマトホテル) とその内部
日本の満州鉄道支配の象徴であった満鉄本社
設立当時の満州鉄道旧本社とその内部:満鉄100周年を記念して2007年から見学が可能となった。 総裁室:初代総裁後藤新平が使用していた机。
3000円の本を買うと座って写真を撮ることが許される。

後藤新平は(1857〜1929)
伊達藩士の子。当初医師。児玉源太郎のも とで台湾経営に顕著な働きをみせた。台湾総督府民政長官、
1906
年南満州鉄道初代総裁
1908年逓信大臣兼鉄道院総裁
1918年外務大臣、
192023年東京市長。
1923年の関東大震災直後には被災した東京の復興に尽力した。

シャングリラホテル大連
シャングリラホテル大連 新鮮な刺身と寿司:日本に負けない美味しさ。 ホテルのロビーで。スリットの入ったチャイナ服と和服。
写真撮影を女性から申し出られた。

日本人町
 約40年にわたる日本統治時代に大きく発展した大連には、多くの日本人が移住していた。アカシアの咲く美しかった日本人街も、戦後70年が過ぎ、一般家屋は老朽化し、再開発で当時の姿を見ることは出来なかった。、
 ロシア人街 
2000年に復元された旧ロシア人街
旧大連市自然博物館(ロシア統治時代は大連市役所であった。
日本統治時代は、満鉄本社、ヤマトホテルそして満蒙資源館として使われた)
当時満州を訪れた夏目漱石も宿泊している。
ロシア教会

 大連港 
1898年ロシアが清朝から租借し、商業用の港湾を建設したことに始まる。水深が深く冬でも氷らない天然の良港である。
日露戦争に勝利した日本がロシアのあとを受け、整備を進めた。
敗戦後はソ連が接収し、中国に返還されたのは配線から15年後の1960年のことだった。
右は、天津や山東半島各地に向かうフェリー乗り場。
 老虎灘(ラオフータン)は大連中心街から南東方向六、七キロ離れた所。
1991年に造られた群虎彫刻は全長35.5メートル、高さ6.5メートル、500個以上の花崗岩を使用、2,000トンに達すると言う。

日露戦争

1895年日清戦争で日本が勝利すると、欧州列強による中国侵略が本格化していった。帝政ロシアは、1898年に清朝から遼東半島南部を25ヵ年租借して、旅順に要塞と不凍の旅順港に軍港の建設して、極東艦隊を配備し、極東における一大軍事拠点とした。
 1904年2月日本とロシアは朝鮮半島と中国東北地区の支配権を巡って激突し、日露戦争(1904年2月8日〜1905年9月5日)が始まった。

1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。
同日、日本陸軍先遣部隊の第2師団が日本海軍の第2艦隊爪生部隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にいたロシアの巡洋艦と砲艦を攻撃し自沈に追い込んだ
2月10日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた
 ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロバヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが、5月15日には逆に日本海軍の戦艦『八島』と『初瀬』がロシアの機雷によって撃沈されたが、海軍がロシア艦隊に総攻撃をかけ徐々にロシア艦隊を弱体化させた。
8月には陸軍も陸軍も総攻撃を開始したが、乃木希典将軍の率いる軍は多大な損害を受け、なかなか旅順を陥落させれなかった。10月に、ロシアバルチック艦隊が極東方面へ出航すると、その到着以前に旅順を陥落させねばならなかった
 東鶏冠山(海抜119m)北堡塁 

1900年旅順の東側の半永久的な防御線として堡塁を中国人労働者を使役して4年間かけて建設した。天然の岩にコンクリートと石、そして泥土で覆って造られた。内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室、台所などの周りに胸墻、側防窖室が配置され、堡塁は不規則な5角形をして、周囲496m、面積9900平方mである。堡塁の周囲は堀があり、堀の外の斜面には高圧電流が流れる鉄条網を架設した。
 日露戦争第1回旅順総攻撃(1904年8月21日)は、日本軍第11師団による堡塁の攻略が始った。第11師団は鉄条網を突破することに成功したが、内堀に入ったが土砂に覆われた側防窖室からの近接攻撃により、日本軍は大損害を受けた。その後、数度に渡りトンネルを掘り、堡塁の地下からの爆破を試みた。
二〇三高地に橋頭堡を築いた日本軍は、12月15日、日本軍の発射した28cm砲弾が命中した際、ロシアの司令官コドラチェンコ小将が戦死した。そして、12月18日に東鶏冠山堡塁の正面に2.3トンのダイナマイトを仕掛けて大爆発をおこさせ、この堡塁を占領した。そして28日には二竜山堡塁を、31日には松木山堡塁を次々と爆破して占領していった。年が明けた1905年の1月1日午前9時、第三軍は旅順市内に向けて一斉砲撃を開始した。2時間後にロシア軍司令部の屋上に白旗が掲げられ、敵将ステッセル司令官の降伏書簡を携えた軍使が、日本軍の第一師団の前哨を訪れてきた。
  この戦闘で日本軍はこの堡塁を突破する為、約8,000人の死者を出した。
 
壁面には無数の弾痕が残っている 山を攻め登ってきた日本軍は、外壕に落ちると壕の内側に隠された兵舎から側面と背後からの十字射撃を浴びて全滅した。
ロシア軍の兵舎内部
1階と2階を区切っていた床は朽ちて崩壊して現在は無くなっている。

堡塁の内部で生活し、自由に往来出来るようになっている。
当時は30門の大砲が配備され、1904年8月19日から24日の第1回旅順総攻撃では、攻撃した日本軍は全滅した。
 203高地 
 11月26日第3回旅順総攻撃が開始され、二〇三高地争奪作戦が始まったが、またしても乃木希典将軍の大きな被害を出し彼の息子の乃木保典も戦死した。12月6日に二〇三高知が陥落した。、
二〇三高地の入口、ここから50元を払い専用の車で見物する。 乃木保典戦死の碑とこの坂の下に墓がある。 砲台が置かれている
日露戦争後散乱していた砲弾などを集めて山頂に『邇霊山』と記した弾丸型の記念碑を建立して、戦死者を弔った。 
        邇霊山                                         乃木希典の書                          旅順港が見渡せる。港は深く、半島に囲まれ入口は狭く天然の良港である。

水師営会見所                                             
二〇三高地の陥落を受け1905年1月1日旅順総司令官ステッセル中尉から降伏の申し入れがあり、日本側は戦闘を終了した。
1月15日乃木将軍とステッセルがここで会見した。右側が日本、左側がロシアの控え室であった。庭にはステッセルが乃木将軍に送られたアラブ産の白馬が繋がれたナツメの木も残っている。
旅順港にはロシアの軍艦が停泊している。
旅順日露刑務所跡
旅順日露刑務所跡:23万uの敷地内に275室の牢獄があり。当初ロシアが建てたグレーの建物と、後に日本が建てたレンガの建物が接合している
拷問室や絞首刑室がなどが見られる。また死体の墓場も再現されている
伊藤博文をハルピン駅で暗殺した安重根が拘置されていた部屋。
ここには、『愛国の志士安重根』と記されており、反日感情を煽っている。韓国人の観光客が多く、日本人は誰もいない。着物を着ていると大声で罵声を浴びせられた。韓国語では意味不明。
 


潮待ちの港・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐呼子末盧国伊都国相島門司港赤間関室積上関沖の家室津和地蒲刈御手洗・鞆ノ浦下津井塩飽本島牛窓赤穂室津兵庫津