山の辺の道
 日本史において最大の謎は『空白の4世紀』ではないでしょうか。ワールド航空から『邪馬台国の謎に迫る。古事記と日本の古代史探訪の旅8日間』に参加しました。
伊勢神宮出雲王国吉野ケ里遺跡漢の倭の奴の国王の印、宗像大社などを探訪し、邪馬台国はいずこかとロマンに満ちた旅でした。
政府のGo to travelにもかかわらず何処も観光客のほとんどいないルンルンの度でした。男性3名、女性9名のバスもホテルも見学個所も借り切り状態でした。

  橿原神宮 
神武天皇は橿原の宮で即位したという日本書紀の故事にちなみ、明治23年に創建された。
   
  神武天皇は御年45歳で日向国、美々津を船出し、10年の歳月を費やして、大和国に入られた。そして、国内を統一し、畝傍(うねび)山の東南・橿原の地に皇居を営んで、即位の礼をあげた。

御垣内特別参拝をした。 この先で玉串奉天し、お神酒を戴いた。した。 53万uの広大な神域
  神武天皇の后の話:神武天皇は日本書紀によると『年15にして立ち太子となりたまふ。日向国の吾田邑(あたむら)の吾平津姫(あひらつ)姫を娶き妃としたまふ。テギシミミの命を産みたまふ』と記されている。
この地で媛たたら五十鈴姫命と結婚したと記されている。五十鈴媛については、古事記は三輪山の大物主の娘とし、日本書紀では事代主神(大国主)の長女と記されている。大物主は妻となる娘を求めていて美人の娘が大便をしている時に丹塗の矢に化けて溝より流れ下りて、その美人の富登(ホト)を突きき、その美人驚き、その矢を持って走り帰って、床の傍に置けば、麗しき青年になりてその美人を孕まして産んだ子が、神武天皇の妻となったと記されている。。

   壺阪寺  


天竺渡来大石像
壺阪大仏、
普賢菩薩 千手観音 文殊菩薩

うぶすなの郷  



2012年惜しまれながら閉館した富本憲吉記念館。
富本の生家であり陶芸の原点であった家を『うぶすなの郷』として2室に
生まれ変わった。

三輪そうめん:細くて腰があり、美味しい


 大 神 神 社   
三輪山麓に立つ、日本で最も古い神社の一つ、三輪山をご神体とするため本殿はなく、拝殿をとうして三輪山を遥拝する。

2の鳥居

『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山にまつられることを望んだとあります。
延喜式えんぎしきの社格は官幣大社かんぺいたいしゃ で、後に大和国一之宮やまとのくにいちのみやとなり、明治時代にはその由緒によって官幣大社かんぺいたいしゃとなりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて
一の鳥居:日本一高い。
鈴木宮司よりお話を伺った 昭和天皇の御親拝を案内する藤田宮司の写真 昭和59年10月 拝殿国重要文化財。寛文4年(1664)徳川家綱公により再建。
正式参拝をして巫女による神楽と玉串礼拝 三輪山をご神体とするために本殿がなく、拝殿を通して三輪山を拝む原初の神まつりの姿を留めている神の山・三輪山と拝殿を区切る場所に立つ本殿にかわるものとして神聖視されてきた
 古事記には、美しい娘のもとに男が毎夜通うようになり、いつの間にか妊娠をした。両親は相手の男を知ろうとする。そこで娘に針に糸を通して男の衣の裾に刺させた。すると戸の鍵穴より通り出て、三和山に至りて神の社に留まっていた。
 また日本書紀には、第7代孝霊天皇の娘は、大物主の妻になったが夫は昼には現れず、夜だけやってくる。皇女は昼間にあなたの美しい姿を見たいと言った。『吾は何時の櫛筒に居る。明るくなって櫛筒に入っている。願わくば?吾が形に驚くな』とのたまう。皇女が櫛筒を見ると美麗な子蛇あり。則ち驚き大声で叫ぶ、大恥をかかしたと人の形になり、去って行った。皇女は驚き慌てふためき座った拍子に箸でホトを突いて死んだ。
 

 箸墓古墳 
異類婚の恋の試練は、見てはいけない、驚いてはいけない:大物主と大和、、、媛。イザナギとイザナミの死体、山幸彦と豊玉姫(ワニ)。鶴女房
またギリシャ神話のエロスとブシュケ
      卑弥呼の墓?
 邪馬台国大和説もあるが、私は九州説を支持する。九州から近畿地方まで統一したのは信長であり、230年代に統一出来る軍事力と経済力は考えらえない。

前兆280m、最古の前方後円墳。280〜300年(±10〜20年)に築造されたと推定されている。
卑弥呼=倭姫命?
卑弥呼の墓とも言われているが、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓と治定されている。
日本書紀には、倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめ大物主神おほものぬしのかみの妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみみたす。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀みすがたたてまつらむと欲ふ」といふ。大神こたへてのたまはく、「言理ことわり灼然いやちこなり、吾明旦に汝が櫛笥くしげに入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥くしげを見れば、まことに美麗な小蛇こおろちがいた。その長さ太さは衣紐きぬひもぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾にはじみせつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸にほときてかむさりましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。
  纏向遺跡は、邪馬台国の有力な都として議論されているが、今は埋め戻されて当時を偲ぶには程遠い。添乗員の中谷さんはここが邪馬台国だと主張されるが私は納得出来ない。@3〜4世紀ごろに九州から大和まで統一できるはずがない。豊臣秀吉が初めて天下を統一したことから見ても、軍事力と経済力から見ても絶対に無理がある。常に男の国と争っていたという。これは出雲王国ではないだろうか?A魏の使者は伊都国で留め置かれ、以後邪馬台国までの行程は想像で記載されている。呉、蜀の敵国を欺く意図で故意に東を南と記載したと主張されるが、陳寿が記載した時には、3国は滅んで晋になっていたので、説得力がない。
     

   行燈山古墳
前方後円墳である。
宮内庁により「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ、山邊道勾岡上陵)」として第10代崇神天皇に治定されている。
 

百舌鳥古市古墳群
2019年7月世界遺産に登録された。
   
   応神天皇陵:大きすぎて良くわからない。
仁徳天皇陵
     
     
     

 大阪府立近つ飛鳥博物館 
    七支刀や三角縁神獣鏡、右の石塔などのレプリカがあるも殆どが撮影禁止となっている。

日本の古代博物館として有名だそうだが、私的には人には勧められない。
 
  安藤忠雄氏設計による建物    鹿谷寺石塔8mレプリカ

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国東半島
秋の木曽路