花の大和路
コロナが蔓延している2021年春に、ワールド航空主催(渡辺添乗員)3泊4日の『室生寺、長谷寺、橿原神宮、大麻寺、法起寺から斑鳩の春景色を散策し
法隆寺、薬師寺、東大寺、2月堂から裏参道を散策。』するツアーに参加した。天候に恵まれ室生寺の石楠花、長谷寺と當麻寺の牡丹、中宮寺の山吹が満開であった。

  室生寺 
  名古屋駅から近鉄特急で1時間26分で近鉄名張駅に着く、江戸川乱歩(1894〜1965年)の銅像(ここが出生地)に出会い、驚いた。怪人20面相と戦う小林少年そして名探偵明智小五郎など懐かしく思い出し、思わず『ぼ、ぼ、僕らは少年探偵団』を口ずさんだ。
 そこから奈良観光バスにて20分、室生寺に着いた。『女人高野山』として名高いこの寺は、天武天皇9年(681年)に天武天皇の勅命によって開かれ、後に弘法大師の手で伽藍の整備が行われた。
この寺は真言宗に属しているが、古くから女人の入山を許していた。
 
     
 創設期の姿が見える山岳寺院として天平の息吹が感じられる。    僧侶の案内で拝観した   仁王門    鎧坂から金堂:にかけて両側には石楠花が満開であった。
   
 国宝金堂:国宝釈迦如来像と重文薬師如来、文殊菩薩、十二神将立像  国宝本堂(灌頂堂)には本尊如意輪観音菩薩像が安置されている。  杉木立の中、可憐な石楠花に囲まれた5重の塔(五重塔:高さ16m屋外に建つ五重の塔では国内最小、800年頃建立)は一層美しい佇まいを見せていた
   
 石楠花(しゃくなげ):4月の中旬頃になると、境内の石楠花が濃い紅色のつぼみを開き始める。花の色は、濃く鮮やかな紅色から薄桃色になり、白い色近くになってやがて散ってゆく。標高約400mに位置する室生寺の湿気と適度な寒さが約3千本の石楠花に適し、毎年見事な花を咲かせてくれる。  明治4年創業の老舗橋本屋での春の山菜料理は美味しい味付けでした。

   長谷寺  
727年聖武天皇の勅願によりご本尊11面観音菩薩をお祀りした。
1588年真言宗豊山派の総本山として、全国に四千余ケ寺、信徒約300万人と言われ、四季を通じて花のお寺として信仰を集めている。
     
 二人の学生僧侶に案内をしていただいた  仁王門1889年再建  登 廊 を登りながら両側には見事な牡丹の花が満開であった。
 
色とりどりの 約150種・7,000株にも及ぶ牡丹が、見事に咲き競っています。 
  
 
 本堂の舞台造りの大殿堂から見る境内、御身10mの11面観音菩薩  紀貫之の和歌  五重塔:昭和29年戦後最初に建てられ、昭和の名塔と呼ばれている。

橿原神宮  
ガイドの浦野、米田さんの案内にて、朝七時早朝のお参りです。
日本書紀によれば、日本建国の地とされた橿原で初代神武天皇がこの地で即位されたのが、BC660年の2月11日と記載されている。このことから『建国の記念日』と定められた。。
日本の歴史と文化の発祥の地でもあるこの地は日本の原点とも言われている。
     

 奇跡の町-今井町   
古代には、奈良盆地と大陸との玄関口であった難津、また奈良と和歌山との幹線道が、そして伊勢街道も整備されていた。これらの交差点として栄えてきた今井町。
全国最大規模の重要伝統的建造物群保存地区『今井町』、その街並みを構成するすべてが見どころです。
1532年頃この地に一向宗本願寺の門徒が布教の目的で称念寺を開き,自衛上の目的から濠をめぐらし、9つの門を作った。戦国時代には織田信長と戦い、1575年明智光秀を通じて信長に降伏した。
戦国時代には軍事目的で、江戸時代には裕福な商人の生命と財産を外部から守る目的に変化した。惣年寄や町年寄を置き、警察権などを与え、自治的特権を与えたのです。
江戸時代には、東西600m、南北310m 人口4千人余り、戸数1100軒として栄えた。早朝からの浦野、米田さんの案内にて1時間30分を見物した。
     
 今井まちなみ交流センター:1903年教育博物館として建てられ、昭和4年には今井町役場として使われた。今では今井町の歴史を知ることが出来る。  御堂筋:円柱を除けば江戸時代にタイムスリップしたよう  中橋家:江戸時代は米屋であった
     
 豊田家:1662年に建築され、『西の木屋』と呼ばれていた。
木材商として財を成し、幕末には大名貸しを行い藩の蔵元もしていた。
 今西家:1650年に建てられた。城郭のような構造で『八棟造り』と呼ばれる豪壮な建物 
     
   上田家:1744年に建てられた。屋根上には煙り返しがある。  北尊坊通り

 當麻寺 
612年用明天皇の皇子麻呂子王が建てた。681年孫の當麻国見が現在地に移して、土地の豪族當麻氏の氏寺として整備した。
金堂と講堂が南北に一直線に並びその両側に東西2つの三重の塔が建っている。
宗旨としては、初め三論宗を、その後空海が参篭してから真言宗に変わり、鎌倉時代からは浄土宗も並立している。
     
 門前町並  仁王門  西塔は三重の塔
ボタンの名所として名高く、四月の境内にはボタンの花が咲き誇っている。
東塔も三重の塔 色鮮やかな牡丹 1200種のボタンが植えられている。
  

 斑鳩の里の散策:法起寺〜法隆寺門前宿南大門、
のんびりとした斑鳩の里を約2.2Km30分散策した。
     
 法輪寺 南門から 法隆寺夢殿  
   
   
   
 いろんな屋根瓦がある。菊のご紋も  南大門(1438年に再建された)から参道へ  本日の宿 和空法隆寺まで30分かけて散策した。

和空 法隆寺の宿
     
 法隆寺の参道にある新築の宿。夕食前に和空のガイド中江さんの歴史トークショウ『仏像の見分け方』 を拝聴した。そして翌日は法隆寺の案内をしていただいた。
知識の深さに感心しながら、法隆寺が良く理解出来た。夕食は神田川俊郎氏の監修による奈良のおいしさを満載した献立の懐石料理を堪能した。
 法隆寺
 私の子供の頃には、聖徳太子の逸話は『10人の話を一度に聞いた。日の出づる国の天使、日の没する国の天使に書を送った遣隋使、17条憲法など』沢山あり、学校の教科書にもお姿が掲載されていた。また1万円札にもなっていて、私たちの身近な存在であった。しかしある学者が聖徳太子不存在論を唱え、それが採用されて、『聖徳太子』という名前が学校の教科書を初め世間から抹殺されてしまったのは残念である。
創建の由来は『金堂』に安置されている『薬師如来像』の後背銘によって知ることが出来る。これによると、用明天皇が自らの病気平癒を祈願して寺と仏像を作ることを誓願されたが、その実現を見ないまま崩御された。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、607年に寺とその本尊『薬師如来』を造られたと伝えられている。1993年12月、日本で最初に世界遺産に登録された。堂内すべて写真撮影禁止が残念である。
中門 左右の金剛力士像 金堂は、入母屋造りで二重の瓦屋根と軒の出の深い安定した姿が
美しい。また瓦屋根と下層の裳階(もこし)の板葺きの対比、これに奥深い軒下の垂木(たるき)や雲斗・雲肘木が調和して快いリズムを奏でている。(飛鳥時代 国宝)


  金堂には釈迦三尊、薬師如来像、阿弥陀如来像を守護するように楠で造られた我が国最古の四天王像が静かに立っている。
そのほか吉祥天、毘沙門天が安置されていた。

左上は八角形の夢殿
御開帳の時期であったので、救世観音を拝むことが出来た。
何故か写真撮影禁止!

百済観音と玉虫厨子は貸出中につき、拝観出来なかった。
五重の塔と桂昌院灯籠:
 桂昌院は西院伽藍の中央の一番目立つ場所に大きな灯籠を寄進した。そこには大きな葵の御紋がたくさん付いているのです。これを寄進したのは徳川五代将軍“綱吉”の母、桂昌院。江戸時代初期、財政難に陥っていた法隆寺に多額の寄付をして、金堂や五重塔の大修理に尽力した
左下はエンターシスENTASISの柱:
 entasisとは、円柱を下から上にかけて細くする又は柱の中ほどを太くするあのギリシャのパルテノン神殿に代表される建築方法です。
 BC400年頃、ギリシャでは、近づいて見上げた時にまっすぐに見えるように工夫されたものだそうです。法隆寺の柱は下から1/3のところが太くなっています。ギリシャから1千年かけて日本に伝たわったのか?それとも日本人の独創か?伝わった説なら、シルクロードの途中の国にもエンタシスがあるはずである。
 柱をよく見ると、何ケ所も修復の跡があることに気付く。1300年という長きにわたり、柱が腐ってくるとその部分を削り取り新しい木を打ち込んでいる。長年多くの人々が、いろんな技法を駆使して法隆寺を支え続けた証だとの中江ガイドさんの説明を聞いた。
                                                   
 文芸春秋2年3月号に隈研吾氏の『国立競技場と法隆寺』を読んだ。それには、1964年オリンピックの国立代々木競技場は丹下健三氏の設計であった。当時は高度成長、工業化のピークであった。コンクリートや鉄という、工業化の主役であった硬くて冷たい素材を使って「高く大きい」ものを作ることが、時代の目標であった。低層の木造建築が立ち並ぶ1964年以前の東京を否定するために、丹下健三はコンクリートの天に届くような高い支柱で屋根を吊り、高くて大きいものがいかにカッコイイかを示し、同時に日本の工業化が欧米に匹敵するレベルにあることを証明して「世界のタンゲ」になった。
 二回目の東京オリンピックの主会場となる国立競技場の設計を、大成建設、梓設計と共にすることになって、2020年と1946年は、何が違うかを考えた。2020年の日本は、マイナス成長、少子高齢化に直面している。「高くて大きい」ことは、とても恥ずかしいことであり、環境を破壊し、人に迷惑を及ぼし犯罪であると人々は感じ始めている。しかしそんな時代にふさわしい幸福の形というものが存在し、その幸福のヒントになるような建築はありえるのではないか。コンクリートの高い柱とは全く逆になるべく低くなくてはいけないし、コンクリートに変わって木こそが主役にならなければならないと僕は考えた。しかし、数万人のキャパシテイが必要なスタジアムを「小さく低く」しかも木で作ることなど出来るのだろうか。 
 この難題の大きなヒントを与えてくれたのは、法隆寺に代表される日本の伝統的木造建築だあった。法隆寺は7世紀に建築され、世界最古の木造建築といわれる。長寿の秘訣は、庇(ひさし)を長く張り出して、その下に大きな影を作ることであった。庇は雨や直射日光から木を守って長持ちさせ、庇が作る影は人々に安心感を与え、建築と大地をなじませる役割もはたした。我々のデザインも庇が五つ重なった五重塔のような断面となっている。そうすれば木が長持ちするだけでなく、5つの影は、建物を外苑の森になじませ、さらに建物はヒューマンで親しみやすいスケールに感じられる。さらに一つ一つの木材も、法隆寺の庇の軒裏の垂木のように、細かくて、繊細なものとした。欧米の最近のゴツイ木造とは対照的なデザインとした。
 提案としてこのスタジアムは、単に2020年という時代を象徴するだけのものではなく、日本が磨き上げてきた、すぐれた環境技術を世界に対して占めすものになって欲しいと思う。1964が世界に追いついたことを示すオリンピックであったとしてら、2020のスタジアムは、日本が世界のどの国よりも深くきめ細かな愛情をもって、森とつきあい、環境と接していたことを示すための絶好の舞台になるであろう。

 中宮寺 
聖徳太子の母の御願によって、創建された尼寺であった。宗派は最初は法相宗、その後真言宗に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流した。
     
  寂れていた本堂が火災や地震に合ったらとご心痛した高松宮妃殿下の発願により、耐震耐火構造の御祈願の方針で昭和43年5月に再建落慶した。しかし、その後50年が経過し補修の必要から寄付を募集し令和3年3月末に完成した。上代寺院の規則に従い西向きから南向きに変更し、尼寺にふさわしく周りには池を配し、門跡寺院らしい優雅さ、そして尼寺らしいつつましやかさを備えた寺に再建された。池の周りには黄金色の山吹を植え四季折々の花木を植え斑鳩の里にふさわしい尼寺として生まれ変わった。4月25日からはコロナ蔓延で再度閉鎖となった。 如意輪観世音菩薩(国宝)中宮寺HPより
半跏思惟像は左足を垂れ右足を左膝の上に置き、右手を曲げてその指先をほのかに頬に触れる優美な造形は、人間の救いを如何にせんと思惟されるにふさわしい清純な気品を蓄えている
 天寿国曼荼羅帳(国宝)
 聖徳太子のお妃は48歳で死去された夫をいたくお嘆きになり、宮中の菜女たちに命じ太子が往生なさっている天寿国という理想浄土の有様を刺繍されたのがこれです。

 薬師寺 
680年天武天皇によって持統天皇の病気回復を祈願して建てられ、天武天皇の死後、妻の持統天皇によって697年飛鳥の地に完成した。710年平城遷都に伴い現在地に移された。
度重なる火災により殆どが焼失してしまった。昭和42年に復興が発願され、金堂、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂が再建され、白鳳伽藍の建物の壮麗な美しさが蘇った。そして平成10年には世界遺産に登録された。
法相宗は奈良時代に中国からもたらされた宗派「南都六宗」のひとつで、日本における現存最古の宗派です。法相宗の日本への伝来は飛鳥時代にさかのぼります。653年に入唐した遣唐僧 の道昭により伝来しました。
道昭(629-700)は玄奘三蔵(602〜664)に師事し、大雁寺てサンスクリット語を漢字に翻訳した。翻訳間もない『じょう唯識論』をはじめとする唯識の論書や 『薬師瑠璃光如来本願功徳経』や『般若心経』などの経典、さらには仏像や舎利を持ち帰った。薬師寺では法相宗と華厳宗、真言宗が良く学ばれた。道明が法興寺で広め、今では薬師寺、興福寺が有名です。
 
 金堂:
中央に薬師如来像、左右に日光菩薩、月光菩薩が安置されている
 大講堂:2003年に再建された
弥勒三尊が祀られている。山田伽藍事務長のユーモア溢れる説明を聞き、
般若心経と十三仏真言のうち七薬師如来を読経された。
 玄奘三蔵院伽藍には、インドに仏教の神髄を求めて13年間の旅をした玄奘三蔵(600〜664)の遺徳のために建立された。そこには平山郁夫画伯による大唐西域壁画13枚が納められている。
中門のカラフルな二天王が左右にある。初めて見る?1991年再建された。  東西2塔をを有する薬師寺式大伽藍は我が国随一の壮美を誇っていたが、東塔のみが創建当時のもの、

 2月堂から裏参道を散策して大仏殿へ 
     
 2月堂:火の粉をちらすお水取りで有名。  裏参道を歩いた  東大寺は本尊は華厳宗の教主である廬舎那仏で、752年に完成した

誰も観光客がいない!
    
  東大寺は国分寺として建立され、国家の安寧と国民の幸福を祈る道場でしたが、同時に仏教の教理を研究し学僧を養成する役目もあり、華厳宗を初め奈良時代の六宗(華厳、三論、倶舎、成実、法相、律)さらに天台と真言宗も加えた研究所が設けられ、ハ宗兼学の学問寺となり、多くの学僧を輩出した。

第一礼装 準礼装 新春 新緑
初夏
盛夏
晩夏
ゆかた 初秋
奥の細道
国東半島
秋の木曽路