福岡から南へ1330Km(札幌とほぼ同じ距離、那覇から420km、台湾まで約100Km)にある石垣島は、北緯24度2分(アメリカのマイアミ・ハワイのホノルルなどと同緯度)、そこは12月末でも気温26度、山口県の5月から6月の気候でした。
八重山諸島とは、日本の最西端与那国島、日本の有人島最南端波照間島、そして石垣島、竹富島、小浜島、西表島、新城島を言う。八重山諸島と尖閣諸島、宮古諸島を総称して先島諸島と言う。先島諸島と沖縄諸島を総称して、琉球諸島と言う。
八重山は、昔から芸能の島として知られ、海岸線をサンゴ礁で縁取られた美しいビーチリゾート、一歩そこを離れるとサンゴの石垣に赤瓦屋根の民家、三弦の響きの中に、南国の島の素朴さに触れることができる。
日本の文化は先島諸島を経てもたらされたと思うと、歴史が残っているのでは無いかと思って訪ねてみた、しかし風土病と言われたマラリヤによる死亡と、1609年から薩摩藩による人頭税と言われる重税に悩まされ、期待していた歴史は、酒=泡盛、織物=八重山上布とみんさふ織以外は、殆んど存在しなかった。昭和47年に日本復帰以降、急速に復興、発展している。 |
石垣島
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福岡から1330Km、2時間15分のフライト |
石垣島の離島桟橋にて。暑い、トンビなど要らない。 |
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米原のヤエヤマヤシの群落。
高さ10〜25mのヤシが自生している
樹齢200年以上のものも有るという |
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川平湾(かぴらわん)
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サンゴ礁の湾内に小島が浮かぶ美しい湾。 |
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グラスボートで海底を覗くと
抜群の透明度と海底のサンゴ礁その間を泳ぐ熱帯魚 |
降り注ぐ日差しとサンゴ礁のコバルトブルーの海 |
ミンサー工芸館(女性が愛の証しとして贈ったみんさー織り。
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今回購入した帯3本とショルダーバック
みんさー帯に託した思い
みんさーとは綿狭が転化したものと言われている。1600年頃から”みんさふ”と呼ばれるよう紺絣の帯が織られていた。
5つと4つの絣柄には”いつの世までも末長くお願いします”という女心と、ムカデ模様には”足繁くおいで下ださい”という通い婚の風習が忍ばれる。また九つと八つの絣柄を織り上げ”心を一つに”の思いで嫁いだと伝えられている。
インドに始まる絣の道は、紺青の海を越え、遥かな時を経て、この島にたどり着いた。日本の絣の源流とも言われる八重山上布。奇麗だ、欲しい、
しかし50万円、100万円と言われたら、旅の思い出には購入出来なかった。ならば、ネクタイを購入したのが右。 |
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八重山上布
1609年薩摩藩に琉球が侵攻されると、人頭税が課せられるようになった。妊娠すると石を持って山登りをしたりして堕胎をせざるを得なかったそうです。また人頭税のために貢納布として、織ることを強制された。人頭税廃止後の明治の終わりに組合が結成され、産業としてたいへん盛んになった。しかし、昭和の大戦で一時途絶えてしまい、戦後は数名でほそぼそと続けられていた。
図柄は他の沖縄織物と同じ琉球絣を用い、飛ぶ鳥、蛍、あるいは日常生活の小間物や道具を図案化したもので、緯糸は手紡(つむ)ぎの苧麻(ちょま)で織られ、植物染料で染められ、手織りで生産されているので、微妙に色彩等が異なり、一つとして同じものはない。また肌触りが良く、涼しげで夏用の麻織物として最適です。
糸は年に数回取れる苧麻の手紡ぎ糸を用い、染めは手括(くく)りの技法に加え、石垣島が北限と言われる紅露(クール)と呼ばれる植物染料を使い、捺染(なっせん)による染色も行われています。最後に海水に5時間ほどさらして仕上げます。
自生する紅露は、日光に当てれば当てるほど色が濃くなる性質があり、夏物の染料としては最適です。(織り方VTR) |
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(石垣市伝統工芸館八重山上布より抜粋) |
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小浜島(NHK連続テレビ小説”ちゅらさん”のロケ地。)
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石垣島から船で25分
小浜港に着く |
島の最高峰99m大岳からの展望。12月23日なのに26度は暑い |
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向かいはカヤマ島、石垣島 |
島の周囲をサンゴ礁が取り囲み、海はコバルトブルー |
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冬至の午後6時、落日の西表島を望む。石垣島から見ると太陽は表島に入るので、西(いり)表島と呼ばれるようになったそうです。 |
泡盛
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泡盛が出来るまで
@タイ米を蒸す
Aこれに黒麹菌を植込む
B熟成した麹に水と酵母を加えて2週間発酵させる。
C過熱し蒸留する。
D長期貯蔵する。
日本酒(醸造酒)は九州南部では腐るので、一年中飲めない。夏でも酒を飲みたい人が蒸留して保存が可能な酒を考案したのだ。 |
日本の焼酎のルーツと言われる泡盛は蒸留酒
蒸留酒の起源はBC300年頃古代ギリシャまで逆上ることが出来、哲学者アリストテレスに寄るものが残されている。13世紀には中国や朝鮮、東南アジアで穀物や椰子などによる蒸留酒が作られるようになった。琉球には15世紀初めシャムの蒸留酒を習い、国産の蒸留酒を作り出したのが泡盛となった。 |
フランス料理も、泡盛のロックで乾杯 |
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竹富島
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南の島の日差しに輝く亜熱帯の植物、白い砂道の照り返し、赤瓦屋根、ブーゲンビリア、ハイビスカスの咲く小道を牛車に揺られてのんびり散策した。 |
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白い砂道と沖縄サンゴの石垣、しかし暑い |
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西表島
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仲間川の仮構からKm上流まで遊覧船で溯り、両岸のマングローブを見る |
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日本最大のサキシマスオウの木 |
マングローブの森、根が水上にたくさんある。根から酸素を取り入れている |
由布島
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西表島の沖400mに浮かぶ周囲2Kmの由布島へ水牛車に乗って渡る。水牛は昭和7年台湾の開拓移民と共に渡って来た。
ガイドの3線の音色が南国情緒を偲ばせる。 |
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由布島は動植物の宝庫、亜熱帯の生き物が自然のままで生息している。 |
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由布島からヨナラ水道と小浜島を望む |
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注:遣唐使の航路としては、一般的に北路、南島路、南路の3種類があるとされている。
北路は、前期遣唐使の時代に用いられたもので、博多を出てから壱岐、対馬を経由し、そこから朝鮮半島の西岸沿いの百済・新羅の領海をしばらく北上し、途中から高句麗領を避けるために黄海を横断して山東半島に上陸する、というルートだった。7世紀の遣唐使のほとんどは、陸伝いでいちばん安全と考えるこのルートを辿っていた。南島路は、8世紀初頭から中頃までの遣唐使が採ったと考えられていたルートで、九州から南西諸島伝いに屋久、奄美、沖縄、石垣などの島々を伝って南下し、そこから東シナ海を突っ切って揚子江の河口地帯に向かうというものだった。このルートは従来の北路と所要時間としてはほぼ同じだったが、外海を突っ切っていることから、この頃から遣唐使船の遭難率は上昇し始めている。 (なお、この南島路については、特に帰路に漂流して採るケースが多いだけで、意識的にこのルートを採ることは少なかった、とする見解も出て来ている。ここでは一応、通説に従っておくことにする)
これらのルートを経て、最終的に後期の遣唐使が採ったのが南路である。このルートは、博多を出た後に五島列島に寄港し、そこから一気に東シナ海を突っ切るルートであり、上手く行けば航海期間をかなり短縮できるルートだった。ただ、それだけに危険性もいちばん高いルートである。遭難の記録が後期になって急増しているのは、このルートを採っていたことも一つの要因であることは間違いないように思える。 |
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