フランスの旅:南から北へ1 |
フランスの旅、今までにこれほど悪いイメージの国はない、前回は帰国のためにシャルルドゴール空港に行くと、エールフランスのストライキで当日には帰国できなかった。食事の不味さ。日本での期待していたフランス料理とは程遠い。治安が悪い、優雅なフランス人形など何処にも居ない。移民が多く、不親切。タクシーのボッタクリ、今回も悪いイメージが払しょくされなかった。 夕食が2回自由で、添乗員は現地ニースから、シャルルドゴール空港からニースへの乗り継ぎも各自でするという今回のツアーは、10日間2人1部屋で1人90万円という高価な旅。食事に期待したのだが全くの期待外れでした。どこの国よりもまずい!!.予約したバスは来なくてトラムにて移動するというハプニング。TGVは我々が乗った翌日はストライキで動かない。パリでホテルからエッフェル塔まで800mを8人乗りのジャンボタクシーに乗ったら8ユーロを追加要求された。帰りには人タクに800m乗る!乗車時に交渉すると20ユーロだと、高いが面白そうで乗ったら、ホテルに到着し降車時に20ユーローを出すと、一人20だと主張して100ユーロを要求する。5分間で1万3000円観光立国のボッタクリである。 中国は文化大革命によって文化(漢字、服装、儒教など)や精神を失ったのと同じく、フランスも革命によって衣装(フランス人形のドレス)、フランス料理、優雅な文化、などを失ってしまったかのように見受けられた。 |
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関空を10時30分に離陸したエールフランス航空は、佐渡島上空からロシア領空に入り、北極海の沿岸を飛行し、シャルルドゴール空港に定刻15時30分着陸した。しかし飛行機のドアが開かない、『地上職員が居ない』とのアナウンス(またもフランスだ)、待つこと1時間、搭乗口が開きようやく空港に入る。2Eに到着と言われていたのに、降りると【L】ではないか、案内の職員が居ると言われたのに誰もいない、遅れているので焦る。私たちだけでLから2Dへ移動、途中入国審査を受け、ボディーチェックを受けニース行きの搭乗口に汗だくだく、やっと辿り着く。これが90万円の旅かと怒りが込み上げてくる。20時コートダジュール/ニース空港に無事到着した。
ニース コート・ダジュールは映画祭で有名なカンヌから、ニース、モナコを経てイタリアに続く地中海岸を言う。紺碧(コバルトブルー)の海岸線が続く。 ニースは、19世紀半ばまでイタリアのサルディニア王国の領地であった。
面積2K㎡とバチカン市国に次ぐ世界第2の小国。
アルル 紀元前1世紀にカエサルの時代にローマの植民地となった。4世紀にはコンスタンチヌス帝が滞在した。 『アルルの女』はドーテの短編小説を元にビゼーが1872年に全27曲を作曲した。ビゼー作曲アルルの女第1,2組曲カラヤン指揮ベルリンフィル あらすじ:南フランス豪農の息子フレデリは、アルルの闘牛場で見かけた女性に心を奪われてしまった。フレデリにはヴィヴェットという許嫁がいるが、彼女の献身的な愛もフレデリを正気に戻すことはできない。日に日に衰えていく息子を見て、フレデリの母はアルルの女との結婚を許そうとする。それを伝え聞いたヴィヴェットがフレデリの幸せのためならと、身を退くことをフレデリの母に伝える。ヴィヴェットの真心を知ったフレデリは、アルルの女を忘れてヴィヴェットと結婚することを決意する。2人の結婚式の夜、牧童頭のミティフィオが現れて、今夜アルルの女と駆け落ちすることを伝える。物陰からそれを聞いたフレデリは嫉妬に狂い、祝いの踊りファランドールがにぎやかに踊られる中、機織り小屋の階上から身をおどらせて自ら命を絶つ。
アビニヨンへ 中世の城壁に囲まれた古都、アビニヨンは、ゆったりと流れるローヌ川の畔にたたずむ 14世紀に教皇庁が一時期アヴィニョンに置かていた時に外敵から町を守るために教皇宮殿を中心に城壁が取り囲むように建設された。全長4.3kmの城壁内に旧市街が広がっている。
ポン・デユ・ガールへ アビニオンから26Km。ローマ時代の水道橋で5ユーロー紙幣の裏に描かれている。
カルカソンヌ ポン・デユ・ガールから230Km,3時間のバス旅行でカルカソンヌに着く。 古くから交通の要所として栄え、紀元前3世紀に砦が築かれた。中世には十字軍の拠点にもなった。17世紀にはスペインとの国境が西に退き要塞としての意味を失い、19世紀には廃墟と化していった。 街の名前カルカソンヌは、カール大帝がこの都市の攻略をあきらめ退散するときに、当時街を治めていた女将カルカス (Carcas) が勝利の鐘を鳴らした (sonner) ことにCARCA SONNE(カルカスが鐘を鳴らす)」由来するという伝説がある。 1997年にユネスコ世界遺産に登録された。 まずはコンタル城へ、
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