2006年11月
院内旅行・鞆ノ浦へ
今回の旅行はイベント委員(周山、竹本、山手、和智、田辺、藤田)が企画し、下記につき観光案内をしました。勿論バスガイドはお断りしました。
1瀬戸内海はいつ頃出来たのだろうか?
2瀬戸内海の潮の動きと、潮待ちの港とは
3鞆ノ浦を通る航路の変遷は?陸乗り航路と沖乗り航路
4鞆ノ浦を通った人々は誰だろうか?
5鞆ノ浦の産業と繁栄と衰退?
6朝鮮通信使の目的は何だったのか?
阿伏兎観音
お地蔵さんと相合い傘
険しい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人々の信仰を多く集めてきた。
第2回
朝鮮通信使(扶桑録)によれば
、『鞆ノ浦の手前1里余り、北を眺めると、千丈にもなる石の絶壁が半ば海中に入っており、その上に数間の精舎があって、名づけて観音寺という。僧が数人いて、寺のほとりに庵を結び、ここを通り過ぎる船があると、その度ごとに鐘を鳴らして船を待ち構え、あるいは米や銭を与えると、僧たちはこれを貰って生計の資としているという。』
昨年から、昼食にも力を入れました。あぶと館の昼食は好評でした。(イベント委員の声)
鞆ノ浦
鞆ノ浦
は、瀬戸内海のほぼ真ん中に位置し、関門海峡、豊予海峡、紀淡海峡、鳴門海峡を流れる潮は、干潮から満潮まで鞆ノ浦へ向かって流れ込んで来る。また満潮から干潮にかけては鞆ノ浦から潮が4つの海峡に向かって流れ出る。そこで鞆ノ浦は、大阪に上がる船も、九州へ下る船も、満潮に乗って入港し、干潮に乗って出航する潮待ちの港として2泊することも少なくなく、潮待ちの港の中でも鞆ノ浦は、最も栄えた。
坂本龍馬の『いろは丸』記念館前で
海の女
常夜灯で飛ぼう、飛びます、飛んだ〜
鞆ノ浦の雁木で
鞆ノ浦を通った主な出来事は、大和王国による朝鮮出兵(396年高句麗に破れる)、任那(みまな)統治(390年頃〜562年新羅により滅ぼされた)、遣隋使(607〜614年3回)、遣唐使(630〜894年16回、804年空海、最澄も唐へ)、平清盛日宗貿易(1172年)、屋島の合戦、壇ノ浦の戦い(1185年)、元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)、明との勘合貿易(1404〜、1483年大内氏が〜1551年)、厳島の戦い(1555年)、秀吉の朝鮮侵攻(1592年)、朝鮮通信使節(12回、通信とは信義を通じ合う))、琉球慶賀使と琉球謝恩使江戸上り(18回)、出島のオランダ商館長の江戸参府(166回)、
北前船
(1638〜1900年)など数えばきりがありません。
医王寺
キャイーンのポーズ
対潮楼(福禅寺の使館)より眺める鞆ノ浦
弁天島、仙酔島、皇后島を望む。
弁天島の弁財天の塔の上から、春分と秋分に太陽と月が共に昇る。皇后島の先端から冬至に太陽が、また夏至に月が昇ると言う。太陽暦を取り入れて建築されている。
朝鮮通信使
は12回来たが、第1回から第3回までは船中泊となって接待は無かった。3回までは秀吉の朝鮮出兵のおり連れ帰った朝鮮人を連れ戻す刷還使であったからである。通信使となった第4回初て観音寺(現在の福禅寺)に宿泊し、往復共摂待を受けた。
1665年第6回朝鮮通信使の扶桑録によれば、『福禅寺に宿所を定めたが、高く広々として明るいこと比べるべくも無く、滄海(青い海)は俯瞰して眼界が千里だけでなく、遠くは伊豫、讃岐の凡ての州と近くは尾道等の島が天の果てに隠々として雲間に明滅していた。たまたま雨が晴れた後なので、海は静かで鏡のようで風をはらんだ帆かけ船が往来し、砂の上に水鳥が飛び交っていた。、、、もし海路の景勝を論ずるなれば、正に鞆ノ浦をもって第一と為すべきであり、洞庭湖と互いに雄を争うべきものである。』と記載されている。
1711年第8回朝鮮通信使の正史趙は、ここからの景色を”日東第一景勝”(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)と讃え、従事官李邦彦に六文字を書かせた。福山藩はこの書を板に彫らせ木額にし永く寺に保存するように命じた。正史趙は歴代の正使の中でも最高級の学者であり、人物であったと評されている。この時の朝鮮通信使の三使は帰国後、新井白石による国王を日本の将軍と同格にされた責任を問われ、『辱国の罪』で処罰されてしまった。
宮城道雄の銅像の前で琴を弾く”40代の海”
宮城道雄
は1894年神戸三宮に生まれた。幼くして失明し、箏曲の未知を志し独特の芸術世界を作り出した。天才的演奏家であり作曲家でもあった。ここ鞆ノ浦あたりの瀬戸内海をイメージした”春の海”は代表作として今でもお正月には良く聞く曲である。
福禅寺の対潮楼にて
1748年第10回朝鮮通信使は、往路阿弥陀寺が宿所となったことに、怒りをあらわにして船中泊となったが、復路の7月10日修復されたここ客殿に三使は機嫌良く宿泊した。正史洪は使館を”対潮楼”と命名した。そして息子の洪景海に「対潮楼」と書かせ住職に与えた。
ささやき橋で内緒ばなし
平清盛の頃は、鞆ノ浦から尾道、宮島を通り上関へ行く地の乗り航路を通っていた。
その後は鞆ノ浦から蒲刈、津和地を通って上関へ行く航路、そして1672年河村瑞賢が西廻り航路を開き、また木綿帆が開発されると鞆ノ浦から潮流に逆らっても風さえあれば沖合を一気に駆け抜けるる御手洗、津和地を通って上関へ行く沖乗り航路が開かれた。
太田家で保命酒に入れる16種類の漢方草
沼名前神社
安国寺
鎌倉時代に建立され、足利尊氏によって安国寺と改称された。
1579年安国寺恵けいが再興した。廃墟となっていたが、
仏殿と仏像は国宝に指定されている。
クリニックの行事
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